第134話 空から見ていた者
空へ昇るのは久しぶりだった。
グリフが背を低くして乗れと翼を広げる。だがエルクはすぐには乗らなかった。頭のうしろを掻いて少し考えてから振り返った。
「メアとクラウも一緒に来てくれる?」
呼ばれた二人が目を丸くした。ゼルガに会いに行くのはいつもエルクとグリフだけだったからだ。
「僕一人で聞いて一人で覚えて帰るっていうのもうやめるって決めたからさ」
エルクはちょっと笑った。
「ゼルガの話たぶんすごく大事なやつでしょ。僕話は分かるけど覚えるの下手だもん。クラウがいてくれたらちゃんと書いてもらえる。メアがいてくれたら……ゼルガが言えないところも少し見えるかもしれない。一人で持って帰るには重すぎる話だよこれ」
クラウが写し帳を抱え直した。
「……分かった。行く」
グリフが短く鳴いて仲間を呼んだ。若い嵐鷲が二羽山肌をすべるように降りてきてメアとクラウの前にそれぞれ背を低くした。空の一族が地の者を背に乗せる。それだけのことが以前なら考えられなかった。
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山頂の岩の上にゼルガはいた。
朝の光が白い岩肌を照らしている。翼を半分だけたたんでいた。広げてもいない。しまってもいない。何かを語ろうとしてまだ迷っている。そんな翼のたたみ方だった。
「来たな」
声は低かった。エルクだけでなくその後ろに降り立ったメアとクラウをゼルガの目がゆっくりとなめるように見た。
「……人間を二人も連れてきたか」
「うん。ごめんね勝手に。……でもゼルガ前に言ったでしょ。あの門を誰にも開けさせるなって。それ僕一人で抱えてたらたぶんいつか僕が一人であの門の前に立っちゃう。だからみんなで聞きに来た」
ゼルガはしばらくエルクを見ていた。それからふんと喉の奥で小さく鳴らした。責めるでも拒むでもない音だった。
「……仕組みとか言っていたな。お前は。旧き国にはそれがなかったと」
空の主は視線を遠い空へ戻した。
「その仕組みとやらがどこまで保つか。……見せてもらおう。だから話す。約束の半分を」
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風が岩の上を抜けていった。
「あの最後の夜のことは前に途中まで話した」
ゼルガの声が低く遠くなっていく。長く封じてきた蓋を自分の爪で少しずつこじ開けているようなそんな声だった。
「地に人と獣人水辺にラミア空に我ら。皆でひとつの国を守っていた。……その国が外から攻められ内から黒いものに蝕まれた。眠りに悪い夢が忍び込み隣人が隣人を疑い始めた。……今のお前たちと同じだ。だから我はお前たちをずっと信じきれなかった。同じ道をたどるのを見たくなかった」
エルクは黙って聞いていた。急かさなかった。
「そしてあの夜。外の敵が砦の際まで迫った。逃げ場を失った者たちが地の底へ地の底へと追い詰められた。子と傷ついた者が門の間の前まで押し寄せた。……我は空の護りの末席にいた。そこから見ていた。地の底の門が内側から開くのを」
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ゼルガの翼が震えた。
広げるのでもたたむのでもない。こらえるような震えだった。メアがそっと岩に近づいた。青ざめた顔でゼルガの震える翼のその影に両手をかざす。触れはしない。ただそこに漂う古い感情を読もうとするように。
「……ゼルガさん」
やがてメアが掠れた声で言った。
「あなたのこの記憶。……悲しいくらい鮮明です。でも変なんです。鮮明すぎて逆に……これがあなた自身が見たものなのかそれともあなたのずっと前の人が見たものをあなたが自分のことみたいに覚えているのか。……私にはまだ見分けがつかない」
ゼルガは答えなかった。だがその沈黙は否定ではなかった。空の一族の記憶は一羽の一生よりも長く深いのかもしれない。誰かが見た夜を次の誰かが自分の夜として引き継ぐ。そういう長い記憶なのかもしれなかった。
「……どっちでもいいよ」
エルクが静かに言った。
「ゼルガが覚えててくれてるってことが大事なんだ。ゼルガの中にあの夜がまだちゃんと生きてる。だから僕らはそれを教えてもらえる。それでじゅうぶんだよ」
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「門を開けたのは敵ではなかった」
ゼルガがふいに先を続けた。前にここで飲み込んだ言葉のその手前まで。
「うしろに子らをかばって。傷ついた者を背で守って。震える手を門へ伸ばしていた。……あれは裏切りではない。守ろうとして守る手が尽きて最後に開けてはならないものへ手を伸ばした。……お前たちが地の底で見たあの絵のとおりだ」
「うん。……僕らもそう思った」
クラウが羽根ペンを走らせていた。ゼルガの言葉を一言もこぼすまいと。だがその手がふと止まった。
「……ゼルガ。ひとつ確かめさせてくれ」
クラウは写し帳の地下で書き取った一節を指でたどった。
「地下の絵では門を開けた者は一人だった。うしろに群れをかばってたった一人で門に手を伸ばしてた。……でも今あんたの話を聞いてると少しずれる。あんたは空から見てたんだよな。上から。……上から見たとき門の前にいたのは本当に一人だったのか?」
ゼルガの遠くを見ていた目が初めて揺れた。
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長い沈黙があった。
やがてゼルガは絞り出すように言った。
「……二ついた」
エルクの頭を掻く手が止まった。
「門の前に影は二つあった。一つは絵のとおり。子らをかばい手を伸ばす者。……もう一つはそのすぐ隣に。並んで立っていた。地の底の絵には一つしか残っていないのだろう。……だが空から見た我には確かに二つ見えた。門を開けたあの者は――一人ではなかった」
風がまた止まった。
地下の壁に描かれたあの泣きながら門に手を伸ばす人物。その絵はその者がたった一人ですべてを背負ったことを告げていた。だからその悲劇は「一人に背負わせた国の壊れ方」としてみなの胸に刻まれた。だが空の主の記憶はその隣にもう一つの影が並んで立っていたと告げている。
「……隣にいたのは誰?」
エルクがそっと問うた。
ゼルガの翼がぐっと締まった。半分開いていた翼が今度こそ固く身にたたまれた。
「そこから先は」
声が低く堅くなった。
「……我も知らん。いや」
ゼルガは目を閉じた。
「知っていても言いたくない。……今日はここまでだ。半分と言ったろう。これで半分だ」
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「うん。ありがとうゼルガ」
エルクは無理に続きを引き出そうとはしなかった。それがこの誇り高い嵐鷲への礼儀だと知っていた。
「話したくないとこは話さなくていいよ。……でも教えてくれてほんとにありがとう。門を開けた人が一人じゃなかったかもしれないって。それ僕ら絵を見てるだけじゃぜったい気づけなかった。空から見てたゼルガにしか分からないことだった」
ゼルガは答えなかった。ただ閉じていた目をゆっくりと開いてエルクを見た。その目にほんの少しだけ張りつめていたものがほどけていた。半分でも語ったことがこの空の主にとってどれほどの重さだったかエルクにはうっすらと分かった。
メアとクラウを乗せた若い嵐鷲が帰りの支度に翼をととのえ始めた。グリフがエルクの前に背を低くする。
その乗ろうとした背に。
「……メア」
クラウが写し帳を閉じながら小声で隣のメアに呟いた。
「絵は一人。ゼルガは二人。……どっちも嘘じゃないなら。もう一人はどこに消えたんだ。誰がその一人を絵からも記録からも消したんだ」
メアはすぐには答えなかった。
山頂の風の中で青ざめた顔をゆっくりと上げる。ゼルガのたたまれた翼をじっと見ていた。その大きく古い空の護りの末裔を。そしてほとんど聞こえないくらいの声でぽつりとこぼした。
「……門を開けた人の隣にいたもう一人。あれもしかしたら……空の人だったんじゃないかな」
風がゼルガのたたんだ翼を撫でて抜けていった。
空の主はその言葉に何も答えなかった。ただ遠い空のずっと向こうを見つめたまま身じろぎひとつしなかった。その沈黙が肯定なのか否定なのかそれともただの疲れなのか。エルクにもメアにも分からなかった。分からないまま若い翼は地上へ向けて静かに舞い降りていった。




