第132話 泣いていた顔
閉じ切った門をみなが見上げていた。
黒い魔力は地の底のさらに底へと引いていった。奥の声も去った。あとにはしんとした暗がりと湿り気を取り戻していく地下の空気だけが残っている。ドラゴの熱は通路の奥でとうに冷めていた。
その静けさの中でいちばん先にちがいに気づいたのはノノだった。
エネの手を握ったままノノが壁の像のほうをじっと見ていた。人間も獣人もラミアに似た者も鳥の影も竜の影も同じ卓を囲んで笑っているあの幸福そうな像。そのいちばん端の黒く塗りつぶされて欠けていた一画。そこが黒い魔力の引いた分だけうっすらと明るくなっていた。
「……もどってきてる」
ノノが小さく言った。
「あのね。ずっとないてた。たすけてって。……でもいまやんだ。あの声もういたくないって」
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エルクがその欠けた一画へゆっくりと近づいた。
黒い墨のような魔力がじわじわと退いていく。塗りつぶされていた壁の絵が下から少しずつ姿を現してくる。ライが肩の上で低く唸った。
「魔力が薄れてる。……こいつ封じてた黒いのが引いたぶんだけ絵が戻ってくるのか」
「うん。……僕らが門を焼かないで閉じたからかな」
エルクは頭のうしろを掻きながら絵の戻っていく縁を見つめた。
「焼いてたらこれ消えてた。……見なくていいものだったのかもしれない。でもあの声言ってたよね。旧き国の門を内側から開けたのが誰か知りたくないかって。……それきみに教えてもらうんじゃなくてこの絵でちゃんと知りたかったんだ」
薄れていく黒の下からひとつの人の影が現れてきた。
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それはみなが思い描いていたものとはまるでちがった。
門を内側から開けた者。旧共存国家を内側から壊した者。誰もがどこかでそこに憎々しげな裏切り者の姿を想像していた。敵に通じ仲間を売り金や力のためにこっそり門をこじ開けた悪い顔の誰か。
だが戻ってきた絵の中の人物はそうではなかった。
その者は片手をうしろへ回して幼い子どもと傷ついた者たちの群れをかばっていた。背中で守っていた。そしてもう片方の手を震えながら門へと伸ばしていた。門の向こうの黒い何かへ。
顔だけがまだ黒く塗りつぶされたまま見えなかった。だがその肩の線も伸ばした手の迷いに満ちた形もうしろの群れを守ろうとする精いっぱいの構えもそこに描かれた全部がひとつのことを告げていた。
「……この人」
エルクが絵を見上げたまま言葉を探した。声だけはいつものようにのんびりしていた。だがその語尾は少し揺れていた。
「悪い人じゃなかったんだね」
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「守りたかったんだ」
エルクは静かに続けた。
「うしろのこの子たち。このけがした人たち。全部守りたくて。……で守る方法がもうこれしかなかったんだ。門を開けるしか。……僕それわかっちゃうな。だってさっき僕もおんなじことしかけたもん」
クラウが写し帳を握りしめたまま絵の前に膝をついた。
羽根ペンを持つ手がいつもの速さで動かなかった。書き取ろうとして書き取れずにいた。旧共存国家は敵に通じた裏切り者に内側から壊された。ずっとそう伝わってきた。だが目の前の絵はまるきり逆のことを語っていた。
「……この国は」
クラウがようやく絞り出すように言った。
「裏切りで壊れたんじゃないんです。守ろうとして壊れた。……いちばん誰かを守りたかった人に最後の判断をたった一人で背負わせて。その人が追い詰められて門を開けた。……それがこの国の壊れ方だったんです」
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メアがそっと壁の像に両手をついた。
青ざめた顔で目を閉じる。過去の感情を読むときいつもそうするように。長い沈黙があった。地下の空気がひやりとメアの指先の周りで澄んでいく。
やがてメアが震える声で言った。
「……後悔とそれでも守りたかった気持ちが。半分ずつです」
閉じた目の下からメア自身の頬にうっすらと涙が伝った。過去の誰かの感情に引きずられたのかそれとも自分の胸のものかメアにも分からないようだった。
「この人門を開けた瞬間まで迷ってました。開けたらもっと悪いことが起きるって分かってた。……でも目の前でこの子たちが死にかけてた。今助けなきゃ間に合わない。……未来のもっと悪いことより今目の前の命を選んだんです。泣きながら。……門を開けた顔たぶん笑ってなんかいません。ずっと泣いてました」
泣いていた顔。
その言葉が地下の暗がりに静かに落ちた。誰もしばらく何も言えなかった。
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「ならわたしたちも」
沈黙を破ったのは通路の後ろに控えていた若い住民の一人だった。声がこわばっていた。
「わたしたちもいつか同じことをするんじゃ……。だって悪い人が開けたんじゃないんでしょう。ふつうの優しい人が追い詰められて開けたんでしょう。……ならわたしたちの誰かだって」
その不安は調査班のあいだにもさざ波のように広がった。裏切り者なら見張ればいい。だが優しい人が追い詰められて開けるのなら――誰がいつその一人になるか分からない。ノノをミナをこの国の誰かを守りたいと願う心があるかぎり。
「うん。……たしかにそうだ」
エルクが頭を掻いてうなずいた。それから絵のほうへ向き直った。
「僕らの中にもこの種はあるよ。あの声も言ってたよね。僕らの中にもうあるって。……守りたい気持ちがあるかぎりある。それは消せない。消したら僕ら共存なんてそもそも始めてないもん」
エルクは少し笑った。困ったようなそれでいて腹の据わった笑いだった。
「だからさ。開けないための答えは『守りたい気持ちをなくす』じゃないんだ。それ無理だしやっちゃだめなやつ。……そうじゃなくて」
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「誰も一人で門の前に立たせない」
エルクははっきりと言った。
「この人は一人だった。うしろのこの子たちをこの人が一人で背負ってた。だから開けるかどうかも一人で決めなきゃいけなかった。……もしこの人の隣に誰かがいてくれたら。二人で三人でこの子たちを守れてたら。……門を開けなくて済んだかもしれない」
クラウが写し帳にようやくペンを走らせた。今度は速かった。
「……それがこの国の壊れた理由。そして俺たちが繰り返さないための答え。旧共存国家は一人に背負わせて壊れた。……だから俺たちは一人に背負わせない」
その一行をクラウは震えの止まった手でしっかりと綴じた。過去の悲劇が初めて今の国の確かな教訓に変わった瞬間だった。
ノノがエネの手を離してとことこと絵の前へ歩いた。欠けた一画の泣きながら門に手を伸ばす人のその足もとを小さな指でそっとなでた。
「もうないてない。……よかったね」
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みなが絵を見上げて静かにしていたそのときだった。
ライが肩の上でふいに全身の毛を逆立てた。
「……おかしいな」
低い声だった。エルクが振り仰ぐ。
「絵は戻った。黒いのが引いてこの人の体もうしろの子たちもぜんぶ見えるようになった。……なのに顔だけが戻らない」
ライの前肢が絵の塗りつぶされたままの顔の一画を指した。たしかにそこだけが周りの黒が引いても頑なに黒いままだった。まるでそこにだけ別の墨が後から塗り重ねられているかのように。
「これ囁きの悪魔が封じてたあの黒とは質がちがう。もっと濃くてもっと新しい。……薄れないんだ。奥の声のやつが引いたのにこの顔だけはいまも封じられたまんまだ」
ライは金色の目を細めた。
「顔だけをいまも隠したがってるやつがいる。……誰かが。今も。この人が誰だったか僕らに知られたくないんだ」
エルクの頭のうしろを掻く手が止まった。
門を開けたのが追い詰められた優しい人だったことはわかった。だがその人が誰だったのか。その顔だけを今なお誰かが必死に塗り隠している。
「……誰が」
エルクは黒く塗り残された顔を見上げて静かに呟いた。
「なんでいまさらこの人の顔だけ隠すんだろう。……この人が誰かばれたら困るやつがいるってことだよね。今もどこかに」
閉じた門はもう何も答えなかった。だが黒く塗り残されたその顔は去った奥の声の問いをそっくりそのままみなの胸に突き返していた。旧き国の門を内側から開けたのは誰だったのか。その答えはすぐそこの壁に描かれている。ただ顔だけが今も誰かの手で隠されたまま。




