第131話 囁きの奥の声
いつまでその仕組みは保つかな。
その声は地下の暗がりにゆっくりと溶けていった。
誰もすぐには動けなかった。門は半開きの細い口を残して止まっている。黒い魔力は奥へ引いていった。だがその引いていった先のいちばん深い暗がりから声だけがまだこちらを見ていた。急ぎもせず荒立ちもせずただ静かに。
「……さっきまでの甘い声とちがうね」
エルクが門の口をまっすぐ見たまま言った。声だけはいつも通りのんびりしていた。
「あれは必死だった。誰かに開けさせたくて。……でもこの声はぜんぜんあせってない。開けさせたいって感じでもない。もっと上から見てる感じだ」
「束ねてたやつだろうな」
ライが肩の上で低く唸った。全身の毛がまだ逆立ったままだった。
「前に封じたあの掠れ声。あれの奥にいた本命だ。……欠片がじりじりしてる。前のより格が上だ。だいぶ上だ」
---
「ではいま押し入るか」
その声がまた暗がりの底から届いた。
誘うような響きはなかった。ただ当たり前のことを教えるような口ぶりだった。
「門はまだ閉じ切ってはいない。この細い口をいまこじ開ければお前たちは私の在り処へ一歩近づける。私が何者か。旧き国を誰がどう壊したのか。……知りたいのだろう。手は届く。あとひと押しだ」
エルクの手が門の縁のあと少しのところで止まっていた。
知りたいというのは本当だった。壁の像の欠けた一画。門を開けた顔のない人。旧共存国家がなぜ壊れたのか。その答えがこの細い口のすぐ向こうにあるのだとしたら。ひと押しで届くのだとしたら。僕が押せば――皆が抱えてきた問いにけりがつく。
茶色い光が指の先でゆらりと揺れた。
――主よ。
念話が頭の芯に静かに割り込んだ。ウルだった。副官の狼は少し離れた岩陰から金色の目でじっとエルクを見ていた。
――それこそがあれの望む手だ。お前がいまその口をこじ開ければ。この門を内側から開くのはお前になる。あれはずっとそれを待っている。
---
エルクの手が止まった。
揺れていた茶色い光がすと指の先から引いていく。エルクはふっと息を吐いて頭のうしろを掻いた。
「……あぶなかった」
小さくそう言った。
「知りたくてつい手が出そうになった。僕が押せば早いって。皆のためにって。……でもさ。それさっきの甘い声とおんなじだ。優しい顔してるか賢い顔してるかのちがいだけだ」
エルクは門の奥の深い暗がりへ向き直った。
「行かないよ」
のんびりとしかしきっぱりと言った。
「追いかけたら僕らが門を開けることになる。それきみの狙いでしょ。ずっと誰かに門を開けさせたかった。囁いてだめで。優しくしてだめで。今度は僕の『知りたい』を餌にした。……のんびりしてるってよく言われるけどさ。さすがにそこまで間抜けじゃないよ」
暗がりの底で声がわずかに間を置いた。それは初めてこの声が思い通りにならなかったその短い沈黙のようだった。
---
「賢いな」
やがて声はそう言った。怒りも失望もなかった。ただ面白がるような静けさだけがあった。
「一人を作らなかった。今度も。追いかけもしない。……なるほど。二度目の国は少しは学んだらしい。門を開けさせるには一人を追い詰めればいい。だがお前たちにはその一人がいない」
エルクは答えなかった。答えれば会話になる。会話になればまた隙を探される。ただ聞いていた。
「だが」
声は続けた。深く静かに遠くから。
「いつまでそれが保つ。お前たちはいま七つにも八つにも分かれていた。だから私の声は散った。……だが次の岐路でもそうか。もっと追い詰められた夜が来る。もっと時がない夜が。そのときお前たちの誰かがまたたった一人で門の前に立つ。……そういう夜は必ず来る。人もモンスターも誰かを守りたい心を持っているかぎり」
その言葉は脅しではなかった。ただ静かに本当のことを告げていた。だからこそ重かった。
---
「うん。……来るかもね」
エルクがぽつりと言った。門の奥へ向けた声は意外なほど穏やかだった。
「そういう夜また来ると思う。誰かが一人で門の前に立ちたくなる夜。……でもそのたびに僕らは隣に立つよ。何回でも。きみが一人を作ろうとするたびに僕らはその一人をみんなにする。……それめんどくさいけど僕らけっこう得意なんだ」
声はもう答えなかった。
エルクはライのほうを見た。
「ライ。あの声ちょっとだけ写せる?」
「もうやってる」
ライの前肢が細い光の糸を暗がりの底からそっと手繰り寄せていた。魔力のほんのひとすくい。深追いはせず門の口からこぼれてくるぶんだけを静かに欠片へと絡め取っていく。
「前の掠れ声の比じゃない。……こいつの正体をいつか暴くための種になる。今夜のところはこれで十分だ」
クラウが写し帳に羽根ペンを走らせていた。声が言った言葉を一字も落とさずに。メアは壁に手をついたまま閉じた目で暗がりのずっと奥を探っていた。
「……遠いです。ずっとずっと遠く。方角は……北のさらに奥。地の底を伝ってここまで声だけを届けていました。本体はここにはいません。……追っても今夜は届きません」
---
「じゃあ閉じよう」
エルクは門の右の縁にもう一度手をかざした。
「本体はいない。声だけだ。追わない。深追いしたら門が全開になる。それ向こうの勝ちだからね。……逃がすよ。逃がして影だけもらっておく」
茶色い光が右の縁をそっと押し戻していく。ノノがエネの背から小さく顔を出して「そこもういたくないって」と道しるべを差した。ウーゴの梁が最後まで通路を支えた。ライがこぼれる魔力の流れをきっちりと断ち切った。
半開きだった細い口がじわじわりと閉じていく。今度は止まらなかった。奥の声が引いていく。黒い気配が地の底のさらに底へと遠ざかっていく。門はとうとうかちりと音を立てて閉じ切った。
誰も討たなかった。誰も追わなかった。だが逃がしただけでもなかった。ライの欠片にはあの声の格上の魔力が確かに絡め取られている。存在の影をつかんだ。姿はまだ見えない。だがいるということだけははっきりと残った。
「……閉じた」
エルクは額の汗を拭った。
「殺さず逃がさず。……前に囁きのやつにやったのとおんなじだね。今度はそれよりずっと大きいやつにできた。僕らだけじゃぜったい無理だった。……みんないてくれてよかった」
ドラゴの熱が通路の奥でゆっくりと引いていった。焼かずに済んだ。灰にせず閉じ切った。地下の空気が湿り気を取り戻していく。
---
閉じた門をみなが見上げていたそのときだった。
閉じ切ったはずの石の門のほんのわずかな隙間から。
消えかけた声がもう一度だけするりと抜け出してきた。今度は脅しでも誘いでもなかった。まるで去り際に思いついた世間話のように軽く。
「ところで」
エルクの頭のうしろを掻く手がまた止まった。
「旧き国の門を内側から開けたのが――誰だったか。……知りたくはないか」
その一言を残して。
声は今度こそ地の底のはるか奥へと消えていった。あとには閉じた門としんとした暗がりと写し帳を握りしめたクラウの白い指だけが残された。
エルクはしばらく閉じた門を見上げていた。
「……知りたいよ。もちろん」
やがて静かに言った。
「でもきみに教えてもらう気はないんだ。それたぶん次の餌だからさ。……あの人が誰だったかは僕らが僕らの手であの壁の絵からちゃんと知る。きみに教わるんじゃなくてね」
閉じた門はもう何も答えなかった。だが壁の像の欠けた一画のあたりが黒い魔力の引いた分だけほんの少しだけ明るくなったような気がエルクにはしていた。




