第130話 誰も一人で立たない
黒い魔力はこぼれた墨のように卓のほうへ静かに広がっていった。
半分だった門の口がぎちぎちと内側から押されてそれより大きく開いていく。誰も触れてはいなかった。ミナもクラウもエルクももう門から手を離していた。それなのに古い門は自分の意思で開こうとしていた。餌を続けて取り逃した声がとうとう誰かの手を借りるのをやめたのだった。
記録の間の奥。あの人間も獣人もラミアに似た者も鳥の影も竜の影も同じ卓を囲んで笑っていた幸福そうな像。その足もとに黒い魔力がじわりじわりと忍び寄っていく。
「……あれまずいね」
エルクがのんびりと言った。声だけはいつも通りだった。だが目はこぼれ出す黒い流れをまっすぐ見ていた。
「あそこまで届いたら像も記録もぜんぶ飲まれちゃう」
・・・・・
――なら焼くのだ。
太い声が地の底をどすんと揺らした。
いつのまにか通路の奥に赤黒い巨躯が身を伏せていた。ドラゴだった。喉の奥で火種がごうと鳴っている。その熱が地下の空気をじりじりと乾かしていた。
「主が呼ぶ前に来てやったのだ」
ドラゴは開きかけた門を金色の目で睨んだ。
「あの門も黒いのもこの遺構ごとまとめて焼けばよい。灰にすれば二度と開かん。それがいちばん早いのだ」
その通りだった。ドラゴの炎なら門も黒い魔力も一息で焼き尽くせる。何より確実だった。エルクの胸にほんの一瞬その楽な道がよぎった。
だがエルクは首を横に振った。
「焼かない」
短くそう言った。
・・・・・
「焼いたらさ。この壁の絵も消えちゃう。旧共存国家の人たちがなんで壊れたのかそれも分かんなくなる。地面の下の魔力の道もめちゃくちゃになる。……それに」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「力で黙らせるだけになっちゃう。僕らが門を焼いて逃げたらあいつきっと笑うと思うんだ。『やっぱり力でしかどうにもできないんだろ』って。……それいちばん乗っちゃいけないやつなんだよ」
ドラゴの喉の火種がぐるると不満げに鳴った。だがそれ以上は言わなかった。主が「焼かない」と決めたなら待つのがこの竜の流儀だった。
「閉じる。焼くんじゃなくて閉じる。……みんなで」
エルクはそう言って地下の暗がりを見回した。
「一人で門を開けようとした夜だったからさ。閉じるほうも一人でやったら意味ないんだ。誰も一人であの門の前に立たない。それ今夜も変えない」
・・・・・
「なら話が早い」
地下への道を駆け下りてくる足音があった。ソウだった。息はほとんど上がっていなかった。地上の当番を組み直してから来たその顔はいつも通り明るかった。
「地上は任せてきた。門から黒いのが溢れても通路の途中で二段当番で堰き止める段取りだ。避難路も二本確保してある。……でここの持ち場を割る。エルクお前は力があるぶん真ん中に立ちたがる。だめだ。一人に集めない。誰が何をやるか。先に分けとくぞ」
エルクは少し笑った。
「うん。ソウに任せる」
ソウが素早く指を差していった。土魔法で門の口を押さえるのがエルク。門から溢れる黒い魔力の流れを整えて壊さず閉じる方向へ導くのがライ。崩れかけた通路と門枠を木で支えるのがウーゴ。補修の材と魔石の欠片を運ぶのがダクト。天井の崩落を糸で防ぎ逃げ道を張り直すのがアラーネとラネ。そして――。
「感じるほうは」
ソウが道の上を振り仰いだ。
・・・・・
小さな手を引かれてノノが下りてきた。
エネがその隣にぴたりと付き添っていた。ノノはこわがってはいなかった。黒い魔力の溢れる門をまっすぐ見てこくりとうなずいた。影に触れた夜をたった一人で越えたこの子だけが門の「声」を聞くことができた。
「……あっちから」
ノノが門の右の縁を指さした。
「あっちからこわれてる。あっちがいちばんいたいっていってる。だからあっちからそっとしてあげて」
ライが肩の上で低くうなった。
「……こいつの言う通りだ。門の魔力右の縁がいちばん薄い。そこから閉じれば無理な力がかからない。左から押したら逆に割れる」
エルクはうなずいて門の右の縁に手をかざした。土魔法の茶色い光がゆっくりと縁に沿って這っていく。
・・・・・
ウーゴが木の腕をぐんと伸ばした。
「トオルミチワタシササエル。オチナイ。ダイジョウブ」
軋んでいた通路の天井に木の梁がぎしぎしと組み上がっていく。ダクトがその足もとをころころと転がって魔石の欠片を次々に運んだ。
「はいですぞこちらの石崩れ止めに使えますぞ。糸のお二人こちらへ回してよいですかな」
アラーネの糸が天井の亀裂に扇のように張られた。ラネの糸が逃げ道を二本白く縁取っていく。傷つけるための糸ではなかった。落ちてくるものを受け止めるための網だった。
メアが壁に両手をついた。青ざめた顔で閉じていく門の先にいくつもの分かれ道を見ていた。
「……閉じる未来と崩れる未来。両方見えます。差はほんのわずか。……エルク右の縁もう少しだけゆっくり。急ぐと割れるほうへ傾きます」
・・・・・
――お前が開ければ。
そのとき甘い声が地下じゅうにいっせいに満ちた。
もう一人には囁かなかった。ミナもクラウもエルク自身も狙って取り逃した。だから声はこの場の全員にいちどきに囁いた。お前が。お前こそが。お前の力なら。ソウの耳にライの耳にエネの耳にウーゴのダクトのアラーネとラネのその一人ひとりにいちばん優しい形で。
だが。
その声はどこにも深くは届かなかった。
ソウは指揮に忙しくライは魔力の流れを読むのに必死でウーゴは梁を支えダクトは石を運び姉妹は糸を張りメアは未来を見てノノは門の声を聞きエルクは右の縁を押さえていた。誰も一人ではなかった。誰も自分だけが皆を守るのだとは思っていなかった。甘い声は一人に集まるはずの「守りたい」を探した。だがそれは七つにも八つにも細かく分かれてそれぞれの持ち場に散らばっていた。囁くための太い一本がどこにもなかった。
「……効いてないな」
ライがぼそりと言った。懐の欠片の熱がじりじりしたままそれ以上大きくならない。
「一人に集められないとこいつこんなに弱いのか。……気味が悪いくらい空振りしてる」
・・・・・
門がゆっくりと口を閉じ始めた。
右の縁からじわじわりと。エルクの土魔法が無理に押しつぶすのではなくそっと寄り添うように縁を戻していく。ウーゴの梁がそれを支えダクトの魔石が隙間を埋め姉妹の糸が崩れを防いだ。ノノが門の声を聞いて「そこいたくない」「もうすこしひだり」と小さく道しるべを差した。
こぼれ出していた黒い魔力が卓の像のあと一歩手前で止まった。じわりと広がっていた墨が行き場を失いゆっくりと門の奥へ引き戻されていく。
「――流れ切れた」
ライが鋭く言った。
「黒いのの通り道。今遮断した。もうこっちへは来ない」
門は完全には閉じなかった。前と同じ半開きの細い口を残してそこでぴたりと止まった。だがそれでよかった。開くのを止めた。溢れるのを断った。ドラゴの炎を一度も使わずに。壁の像を一枚も焼かずに。
「……閉じたというか」
エルクは額の汗を手の甲で拭った。
「開くのをみんなで止めたって感じだね。今夜はこれでじゅうぶんだ」
・・・・・
ソウがふうと息を吐いて持ち場をねぎらって回った。ウーゴが梁を組んだままこくりとうなずきダクトが「ひと仕事でしたな」と満足げに転がった。アラーネが糸をそっとたたんでいく。ノノがエネの手をきゅっと握った。
クラウが写し帳をようやく開いた。門から手を離したあの手で。
「……記録します」
その声はもう震えていなかった。
「今夜誰が何をしたか。全部。……誰も一人で門の前には立たなかった。焼かずに閉じた。それができたってこと。……これいちばん大事な記録です」
エルクはうなずいて閉じかけた門を見上げた。ドラゴの熱が少しずつ引いていく。地下の空気がゆっくりと湿り気を取り戻していった。
「うん。……止められた。誰も一人にしないで」
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だが。
半開きのその細い口のいちばん奥から。
黒い魔力が引いていったそのしんとした暗がりの底から。
声が聞こえた。
これまでの甘い囁きとは違った。優しくもなく急いてもいなかった。もっと静かでもっと深くもっと――遠くからこちらを見ているような落ち着いた声だった。囁きの悪魔のあの掠れた声のさらに奥。それを束ねていたものの声だった。
「――賢いな」
その声は初めてはっきりと言葉になって届いた。
「一人を作らなかったか。……面白い。二度目の国は少しは学んだらしい」
エルクの頭のうしろを掻く手が止まった。ライが肩の上で全身の毛を逆立てた。ノノがエネの背にそっと隠れた。
その声は笑うでも怒るでもなくただ静かに続けた。
「だが――いつまでその仕組みは保つかな」




