第128話 門が軋む夜
夜はもういちばん深いところまで来ていた。
外周をゆく当番の松明がずっと遠くで二つ並んで揺れている。その灯りがミナのいる場所までは届かない。届かないところをミナは選んでいた。角を二本持つ小さな影が地下へ続く門の方角をじっと見つめている。膝の上の角笛を両手で握りしめて。
――お前ならあの子たちを守れる。
耳の奥でいちばん優しい声がいちばん甘く囁いていた。
――もう誰にも切り捨てさせない。あの門の力を使えば。お前が開けさえすれば。
ミナは眠っていなかった。うなされてもいなかった。目はぱっちりと開いていて頬には静かな決心の色さえあった。故郷を焼かれた夜からずっと心のどこかで思っていたことだった。この人たちはいざとなれば自分たちを置いていくかもしれない。だから自分が守るしかない。その古い思いに甘い夢がそっと火を灯していた。
ミナは立ち上がった。門のほうへ一歩踏み出した。
・・・・・
その一歩は砦の反対側の松明の下まで確かに届いた。
「――行ったよ」
肩の上でライが低くうなった。懐の欠片が布越しにはっきりと熱を放っている。その脈は山の上にも空にも向いていなかった。まっすぐ外周の外れの小さな角の子のほうを指していた。
エルクは頭のうしろを掻いた。眠そうな目がめずらしくゆっくりと開いていた。
「うん。……行っちゃったね」
慌てた声ではなかった。だがその足はもう動き出していた。転移で先回りすることも土魔法で地下への道をまるごと塞ぐこともエルクにはできた。門の前に分厚い岩の壁を立ててミナの足を力ずくで止めることも。
だがエルクはそれをしなかった。
「力で止めてもだめなんだこれ」
歩きながらエルクは誰にともなく言った。
「壁で塞いだってミナの中の『守らなきゃ』は残っちゃう。それが残ってたらまた次の夜に別の門を探しちゃう。……止めなきゃいけないのは足じゃない。あの子を一人にしちゃったことなんだ」
・・・・・
地下へ続く門の前でミナは足を止めた。
止めたのは自分の意思ではなかった。
行く手の暗がりに松明がいくつも静かに灯っていた。人間の移住者の顔。リザードマンの鱗の光る顔。ラミアの細い目。避難民の小さな仲間たち。門の前にいくつもの種族が二人一組三人一組で当番として立っていた。誰も槍を構えてはいなかった。誰もミナを咎めなかった。ただそこにいた。門の前に一人では決して立たせないために。
ソウがその真ん中からゆっくり歩み出た。
「ミナ」
声は明るかった。責める響きは微塵もなかった。
「門の前は当番が立つ決まりでな。一人じゃ立たせちゃいけないんだ。……お前も当番だろ。ならここに立つなら誰かと一緒だ。それが決まりだ」
ミナの喉がひくりと鳴った。
・・・・・
ミナが後ずさろうとしたそのとき。
足もとにすっと細い糸が走った。アラーネとラネの糸だった。傷つけるための糸ではなかった。切るためでも縛るためでもない。ただそっとミナの足首に絡んでそれ以上門へ近づかせないように優しく押しとどめる糸だった。踏み込もうとすればふわりとたわんで痛くないように歩みを受け止める。
「――はなして」
ミナが初めて声を上げた。角笛を胸にきつく抱きしめて。
「わたしが開けなきゃ。わたしがみんなを守らなきゃ。あなたたちは……いざとなったらわたしたちを切り捨てるかもしれない。だから自分で守るしか」
声が震えて途切れた。糸はたわんだまま切れなかった。
・・・・・
「ミナ」
エルクが松明の輪の中へのんびりと入ってきた。
急がなかった。ミナの前に立ってその涙のにじんだ目をまっすぐ見た。
「きみがみんなを守りたいの。僕信じてるよ。ちょっとも疑ってない。……だからこれはきみが悪いんじゃないんだ。ぜんぶ僕らのせいなんだ」
ミナが顔を上げた。
「きみにたった一人で『守らなきゃ』って思わせちゃった。夜の外周を一人で歩かせて甘い声を一人で聞かせて門の前まで一人で来させちゃった。……それ僕らが間違ってたってことだ。きみが一人で門を開けようとしたならそれは僕らがきみを一人にした証拠なんだよ」
ミナの唇が震えた。責められると思っていた。裏切り者と呼ばれると思っていた。だが目の前の少年はミナのせいにはしなかった。自分たちのせいだと静かに言った。
・・・・・
メルが糸の内側へそっと入ってきた。ミナのすぐ隣に膝をついて。
「ごめんね」
メルはやわらかく言った。
「一人で守らせてごめん。あなたが夜眠れずにいたの気づいてあげられなくてごめん。……あなたはずっと一人でこわい役を引き受けてくれてたんだね。避難民の子たちを守ろうって。だれにも言わないでぜんぶ自分で」
ミナの握りしめた角笛が少しだけゆるんだ。
そこへエネが小さな手を引いて歩いてきた。ノノだった。影に触れた小さな幼子がミナの前に立ってその顔をじっと見上げた。
「ノノがね」
エネが静かに代わりに言った。
「ミナに守られたいって。ずっとそう思ってるって。……でもねそれよりミナがあの門で壊れちゃうほうがずっといやなんだって。ノノはこわい夢の中でたった一人だったから。分かるの。一人で門の前に立つのがどれだけこわいか」
ノノがこくりとうなずいた。言葉はなかった。ただ小さな手がミナの角笛を握った手にそっと重なった。
・・・・・
――お前が開ければ。皆が助かる。
甘い声が急いた。今までにない焦りがその優しさの底ににじんでいた。ミナが揺れているのを感じ取っていた。だからいっそう甘くいっそう優しく囁いた。今なら間に合う。お前一人が決断すれば。
「……でも」
ミナの声が掠れた。頬を涙が伝った。
「でもわたしが守らなきゃ」
「守らなくていいって言ってるんじゃないよ」
エルクはしゃがんでミナと目の高さを合わせた。
「守っていいんだ。いっぱい守っていい。……ただ一人でじゃなくていいんだ。ここにいるのみんなきみと一緒に守りたい人たちだよ。ノノもメルもソウもあそこの当番の子らも。きみが『守りたい』のみんなおんなじなんだ。だから一人で背負わなくていい。『守らなきゃ』を『一緒に守る』にするだけでいいんだ」
その言葉がミナの中のなにかに届いた。
握りしめていた角笛がゆっくりと下がった。ミナはその場にへたり込むように座り込んだ。そして両手で顔を覆って声を殺して泣いた。ノノの小さな手がその背にそっと添えられた。メルが肩を抱いた。糸がそっと足首からほどけていった。もう押しとどめる必要はなかった。
・・・・・
耳の奥の甘い声はふっと消えた。
餌を失ったからだった。ミナの「一人で守らなきゃ」が「みんなで守る」に変わった瞬間その声が囁くための隙間はどこにもなくなっていた。優しさはまだミナの中にあった。だがそれはもう一人きりの優しさではなかった。
肩の上でライがほっと息を吐いた。懐の欠片の熱がすうっと引いていく。
「……収まったな」
「うん」
エルクは座り込んだミナの背をそっと見ていた。
「今夜はこれで大丈夫。ミナ一人じゃなくなったから」
門の前の当番たちがゆっくりとその輪を閉じ直した。人間もリザードマンもラミアも避難民も。誰も一人でその門の前には立っていなかった。それがこの夜いちばんたしかなことだった。
・・・・・
だが。
エルクの肩の上でライがふいに体をこわばらせた。引いたはずの欠片の熱がもう一度じわりと灯り始めていた。だがその脈はもうミナのほうを向いてはいなかった。
「……エルク」
ライの声が低く掠れた。
「まだいる。もう一人。……こいつこっちよりずっとまっすぐだ」
その脈はミナのいる外周からもずっと離れた砦のいちばん奥へ。この国でいちばん多くの命を預かりいちばん重いものをたった一人で背負っているその者のほうへ。誰にも告げず灯りも持たず静かに地下への道を下りていく背中のほうへ。まっすぐに鼻先を向けていた。




