第127話 空の主の古い傷
その報せはまだ夜が明けきらないうちに空から降りてきた。
グリフだった。大きな翼をめいっぱい広げて外周の見張り台へまっすぐ舞い降りてきた。羽ばたきの風で松明の火が大きく揺れた。当番のリザードマンが身構えるより先にグリフはエルクの名を呼んでいた。
「エルク。……また始まった」
念話の声は静かだった。だがその静けさの底に押し殺した焦りがあるのをエルクはすぐに聞き取った。
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ゼルガの群れがうなされ始めた。
グリフの説明は短かった。昨夜空の見張りに立っていた若い嵐鷲が二体続けて羽を乱した。夜半高度がぐんと下がり危うく山肌に触れかけた。朝が来ても飛び方が戻らない。翼の先が細かく震えている。怯えているときの飛び方だった。
「前とおなじ夢?」
「うん。……いや」
グリフは少し迷った。
「巣が焼ける夢なのは前とおなじ。火と人の声と赤い空。……でも今度はそれだけじゃないんだ。夢の中に大きな門が出てくる。地面に埋まった古い門。空の仲間が言ってた。『あの門が内側から開いた』って。……そこから赤い夜が始まったって」
エルクの眠そうな目がほんの少し開いた。地下にあるあの半開きの門。壁画に描かれた顔のない人物。それと空の一族の古い悪夢が同じ夢の中でつながっていた。
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「それすごく大事な話だと思う」
エルクはゆっくり言った。
「地下の門と空の夢がおんなじところでつながってる。……ゼルガはなにか知ってるのかもしれない」
グリフはうなずきかけて翼を少しすぼめた。言いにくそうだった。
「でも……ゼルガはあの話をあんまりしたがらないと思う。旧き国のことは群れの中でもめったに口にしない。触れられるのをいちばん嫌がる傷なんだ」
「うん。分かった」
エルクは頭のうしろを掻いた。
「無理に聞き出したりはしないよ。会いに行くだけ。知ってることがあればでいい。話したくないなら話さなくていい。……そう伝えてそれでゼルガが嫌だって言ったら帰ってくる」
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山頂へ向かう前にエルクはメアとソウを呼んだ。一人で決めて一人で動く。それをもうしないと決めていた。
「メアに見といてほしいんだ」
エルクは頼んだ。
「ゼルガのまわりのこれからのこと。前も見てくれたでしょ。ゼルガが空を見張ってくれる先とそうじゃない先で道が違うって。……今度はあいつがゼルガの古い傷を突いてきてる。ゼルガがうなされ続けたらどうなるのか。それが知りたい」
メアはしばらく目を閉じた。未来視はこの娘の力だが便利な道具ではない。見える先はいつも断片だ。
「……はっきりは見えないです」
やがてメアは静かに言った。
「でもひとつだけ。ゼルガがあの夢を『昔のこと』として話せる先と。ゼルガがあの夢に飲み込まれる先。……このふたつはまるで違う。飲み込まれるほうは空の群れごと揺れます。前に囁きのやつが狙ったのとおなじ。長が揺れると群れが揺れる。……ゼルガを一人であの夢と向き合わせちゃだめ」
「一人にしないか」
「はい。それは地上でも空でもおなじだと思います」
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ソウは写し帳を開いたクラウと地面に図を描いていた。
「空が乱れたときの地上の備えを先に敷いとく」
ソウは指で砦の外周をなぞった。
「嵐鷲ってのは怯えると高度が下がる。乱れて降りてくりゃ翼の一振りで屋根が飛ぶ。避難民の仮住まいは外周にある。……もし空の群れが荒れたらそっちの子らをまず内側へ寄せる。ゼルガを責めるためじゃない。ゼルガが群れを抑えきれなかったときの下の受け皿だ」
「守るための備えを先に決めておく」
クラウが羽根ペンを走らせた。
「これも当番とおなじ考え方です。ゼルガが荒れたら困るじゃなくて。ゼルガが荒れても下は大丈夫にしておく。……空の主に『群れを抑えなきゃ』を一人で背負わせない。地上がちゃんと受けるんです」
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ゼルガはいつもの岩の上にいた。
朝の光が山頂の岩肌を白く照らしている。翼をたたんでいてもその大きさは変わらない。だがいつもと少しだけ違った。羽づくろいの手が止まっている。空を見る目が遠かった。
「来たなテイマー」
声は低い。だがいつもの格式を張った低さとはどこか違って聞こえた。疲れているとエルクは思った。
「グリフが心配してた。空のみんながうなされてるって」
エルクは岩の下に立ったまま見上げて言った。
「知ってることがあれば教えてほしい。……でも話したくないなら話さなくていいよ。それだけ言いに来た」
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ゼルガはしばらく答えなかった。
風が岩の上を抜けていった。やがてゼルガは空の一点を見たままぽつりと言った。
「……昨夜我も見た」
エルクは黙って続きを待った。
「若い者だけではない。長の我も同じ夢を見た。巣が焼けるあの夜だ。だが前より鮮明だった。前は火と人の声赤い空――そこまでだった。昨夜はその赤い夜の始まりが見えた。……地に埋まった古い門。あれが内側から開いた。開けたのは人間ではない。旧き国の内側の者だ」
ゼルガの声がわずかに掠れた。長い年月封じてきたものを無理やり掘り返されている――そんな掠れ方だった。
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「あいつゼルガのいちばん深いとこを突いてるんだね」
エルクは静かに言った。責めるでも急かすでもなく。
「前にゼルガ言ったよね。自分の恐怖が群れに広がりやすいって。長だから。……あいつそれを分かってて使ってる。ゼルガが揺れたら空ぜんぶが揺れるって知ってて」
「分かっている」
ゼルガは鋭く言った。だがその鋭さはエルクにではなく自分自身に向いているようだった。
「分かっていてなお揺れる。それが腹立たしい。……我はあの夜を忘れたことがない。忘れられないから突かれれば必ず応える。相手はそれを知っている」
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エルクは少し考えて言った。
「ゼルガ。……あのさ。今僕らの地下にあるあの門。あれたぶんゼルガが夢で見たその門なんだ」
ゼルガの視線が初めて空からエルクへ降りてきた。
「昔内側から開けられた旧き国の門。それが僕らの砦の下に埋まってる。半分だけ開いて止まってる。……で今またあいつがその門を開けさせようとしてる。今度は僕らの中の誰かに」
ゼルガは長くエルクを見ていた。測る目だった。この人間がどこまで知っていてどこまであの門に飲み込まれずにいられるのか。その瀬踏みの目だった。
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「……テイマー。ひとつ聞く」
やがてゼルガは言った。
「お前たちはその門をどうするつもりだ。開けて力を得るのか。それとも焼いてなかったことにするのか」
「どっちもしないよ」
エルクは迷わず答えた。
「開けたらたぶん昔とおなじことになる。焼いたら砦ごと崩れるしなによりなんにも分からなくなる。……だからどっちもしない。開けさせないようにするんだ。誰も一人であの門の前に立たなくて済むように。仕組みで」
「仕組みか」
ゼルガはその言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「旧き国にはそれがなかった」
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ゼルガの声がふいに低く遠くなった。
自分に語るのかエルクに語るのか分からない声だった。長く封じてきた記憶の蓋がほんの少しだけずれた――そんな声だった。
「旧き国の空を我らの先祖が守っていた」
エルクは息を止めた。
「知らなかっただろう。空の一族ははぐれ者ではない。かつて我らはあの共存の国の空の護りだった。地に人と獣人が水辺にラミアがそして空に我らがいた。皆でひとつの国を守っていた。……あの記録の間の卓を囲んでいた者の中に我らの先祖もいた」
風が止まった。エルクの背をぞくりと何かが撫でた。地下の記録の間で見たあの幸福そうな像。人獣人ラミア似鳥型竜の影。あの鳥型が――ゼルガの先祖だった。
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「じゃあゼルガは……あの国が壊れる夜を」
「見ていた」
ゼルガは言った。空をまた見上げていた。だがその空のずっと向こう遠い昔の赤い夜を見ているようだった。
「あの最後の夜。我はまだ若かった。空の護りの末席にいた。……そして空から見ていた。地の底の門が内側から開くのを。開けたのは敵ではなかった。門を開けたのは――」
ゼルガの声がそこで途切れた。
言いかけた言葉を大きな体がぐっと飲み込んだ。翼が震えた。広げるのでもたたむのでもないこらえるような震えだった。ゼルガは目を閉じ長く息を吐いた。そしてそれきり口をつぐんだ。
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「……ゼルガ」
エルクはそっと呼んだ。無理に続きを引き出そうとはしなかった。ただその大きな体がたった一羽で遠い夜の底をまだ見つめているのを静かに見上げていた。
「今日はここまででいいよ」
エルクは言った。
「話してくれてありがとう。……あとはまた今度で。ゼルガが話したくなったときでいい。急がないから」
ゼルガは答えなかった。だが閉じていた目をゆっくりと開いた。そして初めてまっすぐにエルクを見た。
「……テイマー。ひとつだけ言っておく」
その声はもう掠れていなかった。
「あの門を開けさせるな。誰にも。……それだけは覚えておけ」
エルクはうなずいた。胸の奥が冷たくなった。ゼルガがたった今言いかけて飲み込んだ言葉。門を開けた者のその正体。それをこの空の主は確かに知っている。だがまだ語れない。何がこの誇り高い嵐鷲の口をこれほど固く閉じさせているのか。
山を下りる道すがらエルクの肩の包みの中で悪魔の欠片がまたこつんと脈を打った。だがその脈は山の上へは向かなかった。ゼルガの古い傷でもなかった。もっと下――砦の外周のほうへ。眠れずに一人で甘い夢を見ている小さな角の子のほうへ。まっすぐに鼻先を向けていた。




