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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第三部・悪魔残党 / 旧共存国家編
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第126話 囁きは優しくなった

 その夜また夢を見た者がいた。


 だが今度は誰も叫ばなかった。


 汗だくで飛び起きることも隣の子を泣かせることもなかった。前に住民をうなされさせた夜はあちこちの寝床から悲鳴が上がって見張りのリザードマンが右往左往したものだった。だが今夜の砦は不気味なほど静かだった。移住者の男は明け方まだ暗いうちにそっと目を覚まししばらく天井の梁を見つめてから静かに微笑んだ。とてもいい夢を見たという顔だった。寝汗ひとつかいていなかった。


・・・・・


「いい夢?」


 朝その話を聞いたエルクは頬に手を当てた。考えるときエルクはたいてい眠そうな顔になる。


「悪夢じゃなくて?」


「うん。ぜんぜん違う」


 夢を見た男は照れくさそうに後ろ首を掻いた。日に焼けた顔にまだその夢の余韻がほんのり残っているようだった。


「なんて言うか……あったかい夢だったんだ。声がしてさ。優しい声。低くて静かでこっちを包むみたいな。『お前ならみんなを守れる』って。『あの地下の門の力を使えばもう誰も焼かれずに済む。誰も逃げなくて済む』って。……なんだかずっと肩にあった重いものがすっと軽くなった気がして。目が覚めたらこうやってみようかなって。そんな気になってたんだ」


 男の口ぶりは憑かれているふうでもうわ言のようでもなかった。ごく当たり前のことを当たり前に語っているその普通さがかえってエルクの胸に小さく引っかかった。


・・・・・


 同じ朝似た話をメアが何人もから聞き取ってきた。眠そうな目をこすりながら砦のあちこちの寝床を一つずつ回ってきたらしい。


「別々の場所で寝てた人がみんな似た夢を見てるの」


 メアは難しい顔で指を折った。


「責任感の強い人ばっかり。子どもを預かってる人。見回りの当番。台所を任されてる人。……前みたいに燃える夢や裏切られる夢じゃないの。今度はね『あなたが力を使えばみんなを助けられる』っていう優しい夢」


 エルクはしばらく黙ってそれを聞いていた。晴れた空の下遠くで避難民の子らがいつもどおり駆け回って笑っている。その平和な声とメアの話がうまく重ならなかった。


「――前とぜんぜん違うね」


 やがてぽつりと言った。


「あいつ怖がらせるのやめたんだ。今度は優しくしてくる」


・・・・・


 肩の上でライが低くうなった。


 懐の包みをあごでしゃくる。悪魔の欠片だ。布越しにもそれがじわりと熱を持っているのがエルクには分かった。


「ゆうべこいつがずっと疼いてやがった。恐怖に反応してた前とは脈の打ち方がまるで別だ。速くて浅くて機嫌がよさそうにさえ見えやがる。……怖がってる奴じゃねえ。『守りたい』って強く思ってる奴の近くで活きやがる。前にあの子――ミナの隣で疼いたのとおんなじだ」


「格が上がってるかもね」


 ライはいまいましそうに鼻を鳴らした。


「前の囁きの野郎は殻に封じられた。今度のはそいつより一枚上手だ。恐怖で門を叩かせるより優しさで門を開けさせるほうがずっと質が悪い。……断りにくいからな」


「そこなんだよ」


 エルクはうんと頷いた。眠そうな目の奥がめずらしくほんの少しだけ真剣だった。


「怖いだけならみんな逃げるか身構えるかできる。でも優しいと断りにくいんだ。これ。『それ悪魔だよ』って言われても『いやでも本当に助かるなら』って思っちゃう。……いちばん断りにくいところを突いてきてる。頭いいなああいつ」


 感心ともあきれともつかない声だった。敵をこわがる響きはそこにはなかった。


・・・・・


 メアがそっと付け足した。空を見上げていた目をゆっくりエルクに戻して。


「私その人たちの夢の続きも見てみたの。……あれね本物の未来じゃない。『守れる未来の幻』を見せてるだけ。門を開けてみんなが笑ってる場面。焼かれた故郷が元どおりに建ってて。逃げてきた子が角も耳も隠さないで日なたで昼寝してる場面。……でもその先がないの。ぷつんって切れてる。都合のいいところで止まってる。私が見る未来にはいいことのあとに面倒なこともちゃんと続くけど。あの夢には続きがない。作りもののいちばん綺麗なところだけ」


「幻のいいとこ取りか」


「うん。だから余計に綺麗なの。本物より綺麗すぎる。……本物の未来はあんなに都合よくないもの」


 メアの声は静かだったがその静かさの底にぞくりとするものがあった。綺麗すぎるという一言の重さをエルクは噛みしめた。


・・・・・


 厄介なのはその優しい夢を悪魔のせいだと割り切れない者が出てきたことだった。


 円い場に集まった住民の中で夢を見た移住者の男がみんなの顔を一度ぐるりと見てから言いにくそうに口を開いた。


「……あのさ。怒らないで聞いてほしいんだけど。俺思ったんだ。あれ本当に悪魔なのかなって。だって内容はいいことだろ。誰も死なせないって話だ。もしあの門の力で本当にみんなを守れるなら。……試すだけ試してみてもいいんじゃないか?」


 場がしんとした。


 風が砦の隙間をひゅうと抜けていった。それを誰も頭ごなしには否定できなかった。彼は悪意で言ったのではない。膝の上で握った拳がその本気を物語っていた。本気でみんなを守りたくて言ったのだ。優しさから出た言葉を優しさのまま否定するのは難しかった。何人かがうつむいた。心のどこかで同じことを思っていた者が一人ではないという沈黙だった。


・・・・・


「責めないよ」


 エルクはゆっくり言った。急かさないように。その男の目をまっすぐ見て。


「そう思っちゃうの当たり前だと思う。だって優しい話だもん。僕だって聞いてたらちょっといいかもって思った。……みんなを守れるならって。だからこれ怖い夢よりずっと厄介なんだ」


 エルクは円い場をぐるりと見回した。人間の移住者もラミアもリザードマンも避難民の小さな子らもみんなじっとこちらを見ていた。


「でもさ。前に記録の間で見たでしょ。昔の国を壊したの悪い人じゃなかった。みんなを守りたくてたった一人で門の力に手を出しちゃった優しい人だったんだ。……あの人もきっとこういう優しい夢を見たんじゃないかな。『お前なら守れる』って。誰にも言えないまま。一人で」


 男がはっと顔を上げた。自分と名も顔も知らない昔の誰かとが同じ夢の前に立っている――その静かな恐ろしさがようやく伝わったようだった。


・・・・・


 そこへソウが進み出た。武術科で鍛えた実戦の勘を持つ剣士だ。声は明るいのに芯があった。重くなりかけた場の空気をぱっと押し返すような声だった。


「なら話は早い。あいつの狙いははっきりしてる。『一人』だ」


 ソウは指を一本立ててみんなに見せた。


「優しい夢で一人を選んで一人にだけ囁く。その一人が誰にも言わずに門を開けたらあいつの勝ち。逆に言えば一人にさせなければあいつはどうしようもない。だったらこっちの守りは単純でいい。誰にも一人で判断させない。それだけよ」


「守れる方法を思いついたら一人でやらない」


 クラウが写し帳を開いて続けた。羽根ペンの先で当番表の隣に新しい行をすっと引く。


「これを当番と並べて決まりにしましょう。怖い夢を見たら口に出す。……それと同じで『いい方法を思いついた』ときも隠さずまず円い場に出す。悪いことだけじゃない。いいことも一人で抱えない。優しい思いつきほどみんなで聞く」


「善意も共有するのか」


 誰かがつぶやいた。クラウは写し帳から顔を上げ静かに頷いた。


「ええ。悪意より善意のほうが一人を追い詰めます。悪いことは後ろめたくていつか誰かに漏らす。でもいいことは『これは正しい』と思い込むぶん隠したまま突き進んでしまう。だから善意こそ隠させない。……『守れると思ったならまず言って』。それを決まりにします」


 その言葉を住民たちはゆっくりと噛みしめるように聞いていた。


・・・・・


 メルが夢を見た男の隣にそっと座った。子どもらの心を拾うのがこの娘の役目だ。膝と膝が触れるくらいの近さで。


「言ってくれてよかったのよ」


 メルはやわらかく笑った。


「あなたがあの夢を隠して一人で門に手を伸ばしてたら。誰も止められなかった。あなたのことも責められなかった。だって誰も知らないんだもの。……でもあなたはみんなの前で口に出した。『これ悪魔じゃないかもしれない』っていちばん言いにくいことを。それだけでもうあいつの狙いは半分外れてるの。優しさを一人で抱えなかったから」


 男はしばらく俯いてそれからゆっくり息を吐いた。今朝寝床で「軽くなった」と感じたあの重さが今度は本当の意味で下りたようだった。夢がくれた軽さは偽物だった。だがみんなに話して下りた重さは本物だった。男はそれが分かる顔をしていた。


・・・・・


 その夜。


 エルクは寝ずに外周を歩いた。当番のリザードマンと二人一組で。決まりはもう紙の上だけではなかった。松明の灯りが二つ暗い外周をゆっくり並んで動いていく。


「僕らは乗らないよ」


 エルクは地下へ続く門のほうをのんびりと見て言った。脅すでも身構えるでもないいつものゆるい声で。


「優しくされても。断りにくくても。……一人にしないから。誰もあの門の前に一人で立たせないから。それだけできみけっこう困るでしょ」


 肩の包みの中で欠片がこつんと脈を打った。


 だがその脈はここには向いていなかった。エルクの揺るがない声の前をするりとすり抜けて。もっと別のもっと濃いまっすぐな「守りたい」のほうへそっと鼻先を寄せていた。


 ――夜の外れ。二人一組の当番の松明からほんの少しだけ離れた場所で。


 角を二本持つ小さな影が一人暗い外周に立っていた。


 ミナだ。当番に入ったはずのミナが眠れずにそっと寝床を抜け出して地下のほうをじっと見ていた。膝の上にはいつでも吹けるようにあの角笛が握られていた。みんなを守るためのたった一つの持ち物だった。そのミナの耳もとでいちばん優しい声がいちばん甘く囁き始めていた。故郷を焼かれた子がいちばん欲しかった言葉を選りすぐったように。「お前ならあの子たちを守れる」と。「もう誰にも切り捨てさせない」と。ミナがその甘い夢をこの国の誰よりも濃く深く見始めていた。


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