第124話 みんなを守るために
削り取られた一画の続きは一日では読めなかった。
クラウは欠けた縁のまわりに幾日も通った。荒く削り取られたのは彫りの深い大きな文字だけだ。その下や脇には細く浅い刻みがかすかに残っていた。慌てて消したとき消しきれずに取りこぼした線。クラウは灯りを斜めから当ててその取りこぼしを一本ずつ写し帳へ起こしていった。
ライがそのそばで黒い魔力をそっと剥がしていく。メアが壁に手を当てそのときの感情をたどる。三人がかりで削られた続きを少しずつ拾い集めていった。
エルクには古い文字も魔力の色も読めない。できるのはみんなが根を詰めすぎないように水を配ったりノノの相手をしたりすることくらいだった。
「あんまり無理しないでねえ」と声をかけて回るたびクラウにやんわり笑い返される。エルクさんはそこにいてくれるだけでいい。そう言ってもらえても記録の間に満ちている遠い昔の気配のなかでエルクはなんとなくそわそわして落ち着かなかった。何かがすぐそこまで来ている。そんな感じがずっとしていた。
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やがてクラウが写し帳から顔を上げた。その顔から血の気が引いていた。
「……順番が逆でした」
声がいつものクラウらしくなく掠れていた。
「俺たちは聞かされてきました。この国の門を開けたのは敵に通じた裏切り者だと。中に悪いやつが一人いてそいつが外の敵へ通じる門を開けたせいで国は内側から食い破られた――そういう話でした。でも記録は逆のことを言っています」
クラウは起こしたばかりの文字を指でたどった。
「門を開けた人は裏切り者じゃなかった。この国の内側の人でした。外から逃げてきた身内をこの国は受け入れていた。ちょうど俺たちが避難民を受け入れたみたいに。……その受け入れた人たちを守ろうとしたんです。守って守って手立てがぜんぶ尽きて。最後にその人は『門の向こうの力』に手を出しました。みんなを守るために」
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エルクはしばらく何も言えなかった。
卓を囲む幸せそうな像。その最後に刻まれた「みんなを守るために」。その言葉の続きがいま目の前でつながった。裏切りではなかった。憎しみでもなかった。守りたいといういちばん優しい気持ちがこの国を壊した。
「……裏切り者じゃなかったんだ」
エルクはぽつんと漏らした。声そのものはいつもののんびりした調子だった。ただその語尾がいつもよりほんの少しだけ湿っていた。
「守りたかったんだ。ただそれだけだったんだ。……僕その気持ちわかっちゃうな」
みんながエルクを見た。エルクは頭のうしろをゆっくり掻きながら欠けた一画から目を離さなかった。
「もしだよ。もし僕らの国がおんなじところまで追い詰められたら。みんなを守る手立てがぜんぶ尽きちゃったら。……そこに『これを使えばみんな助かる』っていう力があったら。僕さ手を出さない自信ないんだよね。だからこの人のこと責められないなあ。責めたら僕自分に嘘つくことになるもん。……それはやだなあ」
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メアが壁からそっと手を離した。指先が小さく震えていた。
「開けた人の最後の顔……読めたの」
メアは目を伏せた。
「笑ってなかった。勝ち誇ってもいなかった。……泣いてたの。門を開けながらずっと。これで正しいのか分からないままそれでもほかに道がなくて。泣きながら開けたの」
肩の上のライが低くうなった。
「その『門の向こうの力』ってのがな」
ライは爪の先で剥がしたばかりの黒い魔力の跡をこつと叩いた。
「今この記録に塗られてる黒いやつと同じ匂いがしやがる。……つまりそういうことだ。守りたい一心で手を出した『力』ってのはあの黒いのだった。悪魔だよ。追い詰められた善意にそっと差し出された手が悪魔の手だったんだ」
エネがノノの肩をそっと抱いたままぽつりと言った。
「……じゃあこういうこと? 悪いことしたい人が危ないんじゃなくて。守りたい人ほど危ないってこと?」
その一言が記録の間に重く落ちた。
ノノが欠けた一画のほうをじっと見上げた。
「このひとも」
ちいさな声だった。
「わるいひとじゃなかったんだね。ずっとたすけてって……ないてるだけなんだね」
ノノの言葉にエルクはそっとその小さな頭に手を置いた。悪い者の声ではなく助けを求める声。影に触れたことのあるノノには最初からそう聞こえていたのかもしれなかった。
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「じゃあ誰でも」
だれかが声を落とした。
「誰でも門を開けうるってことじゃないか。悪いやつを見張ってれば済むって話じゃない。いちばん優しいいちばん皆を守りたいやつがいちばん危ない。……そんなのどうやって防ぐんだ」
広間の空気がざわりと揺れた。裏切り者を捜せばいいならまだ分かりやすかった。悪いやつを見つけて止める。けれど危ないのが「善意」だとしたら。それはこの国のいちばん良いところと見分けがつかない。
クラウが写し帳をぎゅっと握った。
「見張って防ぐものじゃないんだと思います」
クラウの声に少しずついつもの落ち着きが戻ってきた。
「この記録の人はたぶん一人だったんです。守る手立てが尽きるところまでたった一人で抱え込んだ。相談する相手も代わってくれる人もいなかった。だから最後のいちばん危ない一手まで一人でたどり着いてしまった。……もしこの人の隣に一緒に悩む誰かがいたら。『その力はだめだ』って袖を引く誰かがいたら。門は開かなかったかもしれない」
「一人にしないこと」
エルクが繰り返した。
「断罪じゃないんだ。この人を悪者にしても次の『守りたい人』はまた出てくる。そうじゃなくて……守りたくていっぱいいっぱいになってる人を一人にしない。それがたぶん僕らにできるたった一つの守り方だ」
みんなで決めるという仕組みをこの国は覚えたばかりだった。それがただ会議を開くための決まりごとではなく誰か一人が優しさのあまり取り返しのつかない門の前にたった一人で立たされないための――そういう備えなのだとエルクはいま腑に落ちた。過去の国はそれを持っていなかった。
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その日地上へ戻ると日はもう傾いていた。
長い階段を上りきったエルクの目に避難民の区画の隅でぽつんと座っている小さな影が映った。小角族のミナだった。膝を抱えて幼い避難民の子らのほうをじっと見ている。その横顔は何か重いものを一人で抱え込んでいるように見えた。守らなきゃと気負う者の顔をエルクはたったいま記録の間で見てきたばかりだった。同じ色がミナの横顔にうっすらと差していた。
ミナはまだこの国に来て日が浅い。逃げてきた身内の子らを自分がなんとかしなきゃといつも気を張っている。誰かに頼るより先に自分の背中でぜんぶを庇おうとする。……その姿は記録の中の門を開けた人のずっと手前の姿にどこか似ていた。まだ門はどこにもない。開ける力もここにはない。けれど一人で抱え込む癖だけはもう芽を出しかけていた。
エルクは足を止めた。それからミナのほうへのんびりと歩き出した。何を話すかは決めていない。ただ隣に座って一緒に子らを眺めるだけでもいいはずだった。一人にしないこと。その最初の一歩はたぶん大げさな仕組みなんかじゃなくてこういう隣に腰を下ろすくらいの小さなことから始まるんだと思う。過去の国が持てなかったものをこの国が持つとしたらきっとそういう小さなところからだ。エルクはそう考えながらゆっくりミナのほうへ近づいていった。




