第121話 ノノが聞いた声
ノノはその夕方から何度も地下の門の方角を気にするようになった。
広場で遊んでいてもふっと手を止めて入口のほうを見る。ごはんのときもときどき耳を澄ますような顔をする。そのたびにエネがそばへ寄り添った。
「また聞こえるの?」
エネがしゃがんで顔を覗き込むとノノはこくりと頷く。けれどその先をうまく言葉にできない。小さな口が何度か開いてまた閉じる。
「……わかんない。でもよんでる。ずっと」
ノノは自分の胸のあたりを小さな手でぎゅっと押さえた。
「ノノがきこえちゃうから……またなんかわるいことおきる?」
その問いにエネの胸がつきりと痛んだ。この子は聞こえてしまうことを自分のせいだと思っている。あの晩門を開きかけたのも自分のせいだとまだどこかで背負っている。
「ちがうよ。ノノのせいじゃない」
エネはノノの手を両手で包んだ。
「聞こえるのは悪いことじゃないんだ。それはねノノにしかできないことなんだよ」
・・・・・
だがノノが門を気にする様子は住民の何人かを不安にさせた。
「あの子を門に近づけるな」
年かさの住民がエネに低く言った。
「この前だってあの子が門を開きかけたんだろう。また同じことが起きたらどうする。地下のことなんか聞かせないで遠くへ離しておくのがいちばんだ」
「閉じ込めるだけじゃ何も分からないよ」
エネは引かなかった。前にノノを隔離しようとした声へ返したのと同じ言葉だった。
「遠ざけたって聞こえるものは聞こえる。一人で怖いまま抱えさせるほうがよっぽど危ない。だからあたしがそばにいる。それだけ。離さないし閉じ込めもしない」
話を聞きつけてエルクがのんびりした足どりでやってきた。住民の不安もエネの返事もひととおり聞いてからノノの前にしゃがんだ。
「ノノ。無理しなくていいんだよ」
エルクはいつものゆるい笑い方で言った。
「聞きたくなかったら聞かなくていい。耳ふさいでも誰も怒らないよ。でもさ」
エルクはノノの目をまっすぐ見た。
「もしノノに聞こえるならそれすごく大事な手がかりなんだ。誰にも聞こえない声をノノだけが聞いてる。それって悪いことじゃなくて……すごいことなんだよ」
「すごいこと?」
「うん。ノノは悪いものを呼んじゃう子じゃない。いちばん先に気づける子なんだ」
ノノは少しのあいだエルクの顔を見ていた。それからほんの少しだけ肩の力を抜いた。
・・・・・
「あのね」
ノノはたどたどしくけれど今度は自分から話しはじめた。
「こわい声じゃないの。おこってない。……ないてるみたい。たすけてって。ずっとずっとよんでる。だれもこたえてくれないからさみしいって」
エルクはその言葉をゆっくり呑み込んだ。怒ってもいない。怖がらせてもいない。ただずっと誰かが助けを求めて泣いている。
ライが門のほうへ出向いて半開きの隙間から漏れる魔力をしばらく測っていた。戻ってくると腕を組んで唸った。
「あの子の言うとおりだ」
ライはぶっきらぼうに言った。
「門から漏れてる魔力の波。あれは襲ってくるときの尖った波じゃねえ。もっと弱くて規則正しい。何度も同じ形を繰り返してやがる。叩くんじゃなくて呼んでる波だ。誰かが扉の内側からこんこんってノックしてるみたいな」
「攻撃じゃないんだね」
「ああ。少なくとも今は。呼びかけてるってのがいちばん近い」
メアが目を閉じてノノの聞く声と自分の視るものを照らし合わせた。
「わたしが壁画の前で感じたのと同じ」
メアは静かに言った。
「困ってる。何かを伝えようとしてる。あの気配とノノの聞く『たすけて』はたぶんおなじもの。怖がらせる声の奥にずっと別の声があったの。わたしには気配までしか分からなかった。ノノはそれを言葉で聞いてる」
クラウが写し帳を広げてその一つひとつを書き留めていった。
「呼びかけの波。助けを求める声。困っている気配。……これ全部おなじ方向を指してます」
クラウは筆を止めて顔を上げた。
「あの門の向こうの記録が――開きたがってるのかもしれません。あの晩は悪魔が無理やりこじ開けようとした。でもこれは違う。中のものが自分から伝えたがってる。そういう可能性が出てきました」
その話を少し離れたところでさっきノノを遠ざけろと言った年かさの住民が黙って聞いていた。
「……あの子の言ったことがその解析やら未来視やらとぜんぶ合ってるってのか」
住民はばつが悪そうに頭をかいた。
「悪いものを呼び寄せる子だと思ってた。けどいちばん先に危ないことに気づいてくれてるのはあの子なんだな」
「そういうこと」
エネは勝ち誇るでもなくただふっと笑った。
「怖いのは分かるよ。あたしだって怖い。でも怖いからって遠ざけてたらあの子が先に気づいてくれたこともぜんぶ聞き逃しちゃう。それはもったいないでしょ」
住民はもう何も言い返さなかった。代わりに広場の隅で従魔と遊ぶノノのほうを前より少しだけやわらかい目で見ていた。怖がられる側だった小さな子が知らないうちに国の一番外側の見張りを引き受けはじめていた。
・・・・・
エルクは半開きの門を遠くから見た。あの晩力ずくで開きかけて皆で必死に押し返したあの扉。けれどノノの聞いた声が本当ならあれはこじ開けるものではなくもしかしたらそっと応えてやれるものなのかもしれなかった。
「壊さないで開けられるかもしれないってこと?」
「分からない」
クラウは慎重に言った。
「分からないけどノノの感知を手がかりにすれば無理やりこじ開けるんじゃなく中の声に応える形で開けられるかもしれない。……ただこれは俺一人で決めることじゃありません。開けるか開けないか。それはみんなで決めないと」
「うん。そうだね」
エルクは頷いた。
「ノノがすごい手がかりをくれた。でもそれをどう使うかはノノに背負わせちゃだめだ。みんなで決めよう」
その夜ノノはエネの腕の中でいつもより少しだけ安らかな顔をしていた。聞こえてしまうことをもう自分のせいだとは言わなかった。怖い子でも悪いものを呼ぶ子でもなくいちばん先に気づける子。エネが言った「この国の先生」が少しずつノノの中で本当のことになりはじめていた。
エルクは寝静まった保護区画を遠くから眺めてそっと息をついた。
「聞こえるってことはつらいことでもあるんだよな」
誰にともなくエルクは呟いた。みんなには聞こえない声を一人だけ聞いてしまう。それは特別な力であると同時にひとりぼっちになりやすい力でもあった。だからこそノノを一人にしてはいけない。守りたい気持ちを一人で背負わせない――昨日ライたちと確かめたばかりのことがそのままノノの「聞く力」にも当てはまった。聞いた声をノノ一人に抱えさせない。それがこの手がかりとの正しい付き合い方なのだとエルクは思った。
翌朝クラウが代表者会議の招集を各所へ伝えて回った。議題はひとつ。
あの半開きの門の奥の記録の間を――開けるのか開けないのか。ノノが聞いた「たすけて」の声にこの国は応えるべきなのかどうか。それを誰か一人ではなくみんなで決める日が来ようとしていた。




