第120話 欠片が逆に光る
翌朝ライは保護区画の隅で黒い澱の匣を前に腕を組んでいた。
昨夜の一件が頭から離れなかった。誰も怖がっていない夜にノノの「守りたい」という寝言ひとつで澱が脈打った。ぶっきらぼうな彼でもあれを偶然で片づける気にはなれなかった。
「確かめる。順番に一個ずつな」
ライは匣の蓋を薄く開けた。
まずわざとこわい話をしてみた。あの晩の襲撃のこと門が開きかけたこと囁きの悪魔のこと。声を低くしてそばの当番に語って聞かせた。
澱はうんともすんとも言わなかった。
「……前ならこれで膨らんでた。恐怖を吸ってな。けど今は知らんぷりだ」
次にライは当番の若者に頼んだ。こわいことじゃなくていい。守りたいものをひとつ強く思い浮かべてくれと。
若者は少し照れながら目を閉じた。たぶん家族か仲間か誰かのことを思ったのだろう。
とたんに澱がとくんと波打った。
ライは低く唸った。何度やっても同じだった。脅かしてもびくともしない。誰かが本気で「守りたい」と願うと応える。間違いなかった。
「念のためだ。もう一つ試す」
ライは今度は当番に自分の身を案じてみろと言った。傷つくのが怖い死にたくないと。
澱はまた静かなままだった。
「……自分のことをこわがるだけじゃ動かねえ。誰かを守りたいと思ったときだけ応える。そういう選り好みをしてやがる」
ライは匣の蓋を閉じながら舌打ちした。やっかいな選び方だった。人がいちばん尊いと思う気持ちを狙い撃ちにしている。
「ねえライ」
いつのまにかエルクが匣を覗き込んでいた。むずかしい解析のことは彼にはよく分からない。それでもライの実験を最後まで黙って見ていた。
「それって……こわがらせるんじゃなくて守りたい気持ちのほうを使うってこと?」
「ああ。たぶんそういうことだ」
エルクはいつもののんびりした顔のままけれどほんの少しだけ声を落とした。
「それいちばん厄介なやつだね」
「厄介?」
「うん。だってさ」
エルクは匣の中の澱をじっと見た。
「こわい気持ちなら『こわがらなくていいよ』って言えるんだ。みんなで励まし合えば薄れていく。前はそうやって乗り越えた。でも守りたい気持ちは……『守りたいと思うな』なんて言えないよ。だってそれいちばん大事な気持ちじゃないか。それを悪いほうに使われたら断りようがないんだ」
そばで匣を見ていたメアがふいに小さく身を震わせた。
「今澱が光ったとき……一瞬だけ見えたの」
メアは未来を覗く目をまだ匣に向けたまま言った。
「だれかがその力を使ってみんなを守ってる景色。誰も死なないで笑ってる。すごく……いい未来みたいに見えた。でも」
「でも?」
「あれ本物じゃない。わたしの未来視と混じってるけど手ざわりが違うの。だれかにわざと見せられてる『いい未来』。……甘い匂いのする夢」
エルクはメアの言葉をゆっくり呑み込んだ。守りたい気持ちに応える澱。そして守れる未来の甘い幻。二つがひとつの方向を指していた。
その様子を少し離れたところからエネが見ていた。腕の中にはノノがいる。昨夜寝言で澱を脈打たせたのはこの子だ。
「言っとくけど」
エネは先回りするように釘を刺した。
「この子が悪いんじゃないからね。ノノはただみんなを守りたいって思っただけ。それのどこが悪いの」
「誰もノノのせいになんかしないよ」
エルクはすぐに振り返って笑った。
「むしろノノが教えてくれたんだ。あいつが今度はどこを狙ってくるのか。……ありがとうだよ」
ノノはエネの腕の中でこくりと小さく頷いた。
・・・・・
その日の昼代表者たちにライの確かめたことが伝えられた。黒い澱が恐怖ではなく守りたい気持ちに反応する――その話は静かな動揺を呼んだ。
「では……我々が誰かを守りたいと思うことすらあれの餌になるというのか」
ラミアの長老が低く呻いた。
「それではどうすればいい。何も思うなと?」
その重い空気をほどいたのはメルだった。住民の不安をいつもいちばん先に拾う娘だった。
「守りたいって思うのは悪くないと思う」
メルはおずおずとけれどはっきり言った。
「だってそれがなかったらわたしたち避難民の人たちを受け入れたりもしなかった。守りたいって気持ちはこの国を作ったものでしょ。それを悪いことにしちゃだめだと思う」
「じゃあ何が危ないの」
エネが先を促した。
「……一人で背負うこと」
メルは言葉を探しながら続けた。
「昨日の夜澱が光ったのはノノが一人で『守りたい』って思ったとき。誰にも言わないで一人で。たぶんあれがいけないんだと思う。守りたい気持ちを一人で抱え込むこと。それをあいつは狙ってる気がする」
エルクはメルの言葉にはっと顔を上げた。ばらばらだった手がかりがその一言でひとつに繋がった気がした。守りたい気持ち。甘い未来。一人きり。
「そっか。守りたい気持ちが悪いんじゃないんだ」
エルクはゆっくり頷いた。
「一人で背負わせちゃいけないんだ」
クラウが写し帳のある一行を指でなぞった。あの晩悪魔が消え際に残した言葉を書き留めたものだった。
「『その種はもうお前たちの中にある』。あいつが言った種ってこれだったのかもしれません」
クラウの声は低かった。
「俺たちの誰かを守りたいっていう気持ち。それが種だ。だから引き抜けない。引き抜いたらこの国じゃなくなる」
「うん。引き抜かなくていいんだよ」
エルクは静かに言った。
「種はそのままでいい。芽が出てもいいんだ。ただその芽を一人ぼっちで抱えさせない。それだけ気をつければいいんだと思う」
クラウはその話をすぐに記録へ起こした。だがすぐには対策に落とせないとも言った。
「方向は見えました。でもまだ足りません。あれがどこまでのことをできるのか。誰をいちばん狙うのか。それが分からないと守りの形が組めない」
ただ一つだけその場でできることがあった。
ライが欠片の匣を自分の手元から複数の当番で見る形に変えた。一人が抱え込むのをやめ置き場所も見張りも必ず何人かで分け合う。
「僕が一人で持ってると僕が一人で『守らなきゃ』って思っちまう。そしたらこいつの思うつぼだ」
ライはぶっきらぼうにそう言った。一人に集めない――それはまず物の管理から始まった。
・・・・・
その夕方だった。
エネに手を引かれて広場を歩いていたノノがふと足を止めた。
小さな指がまっすぐ地下への入口のほうを指していた。
「ノノ? どうしたの」
エネがしゃがんで顔を覗き込む。ノノは門の方角を見つめたままたどたどしく言った。
「あそこ……なにかよびかけてる」
「よびかけてる?」
「うん。こわい声じゃないの。……たすけてって。だれかがたすけてっていってる」
エルクとライとクラウが顔を見合わせた。怖がらせる声ではない。助けを求める声。それはちょうどメアが壁画の前で感じた「困っている伝えようとしている」気配と重なっていた。
半開きの門の向こうで何かがずっと助けを呼んでいる。その声をいちばん先に聞き取ったのはこわいものにいちばん近く触れた小さな子だった。




