第119話 戻った壁画の前で
先遣の悪魔を封じてからさらに幾日かが過ぎた。
砦の朝はすっかりもとの調子を取り戻していた。畑には水がやられ炊き出しの煙が昇り子どもたちが従魔のあいだを駆け回っている。クラウの書いた新しいルールは広場の柱に紙で貼られときどき誰かが立ち止まって読んでいく。円い場での謝り合いもあの晩ほどの重さは消えてただの井戸端の立ち話のように続いていた。
危機は去った。そう言ってしまってもよさそうな朝だった。
なのにその朝地下から戻ってきたクラウの顔は晴れていなかった。
「エルク。もう一度見てほしいものがある」
・・・・・
地下へ下りると半開きのままの門の脇にあの壁画があった。
黒い魔力が薄れたことで戻ってきた一人の人物の影。旧共存国家の門を内側から開けようとしている顔のない誰か。
エルクはランプの灯りを近づけてしばらく見上げた。何度見ても顔のところだけがもやがかかったように見えない。
「……なんかさ」
エルクは首をかしげた。
「見るたびにちょっとずつ形が違う気がするんだよね。気のせいかな」
「俺もそう思った」
クラウは手にした写し帳に壁画の輪郭をもう一度引き直していた。
「昨日描いた線と今日の線が微妙に合わない。にじんでいるのか動いているのか……それすらはっきりしない。だから見たままを毎日記録に残しておくことにした。変わっていくならその変わり方も手がかりになる」
「終わった気がしないんだよね。ぼくも」
エルクはのんびりした口調のままけれど目だけは壁画から離さずに言った。
「あいつは封じたしみんなもちょっとずつ元気になってる。なのにここだけまだ続いてる感じがするんだ」
・・・・・
その「続いている感じ」を別のところで拾っていたのがライだった。
ライは解析用に取り分けた黒い魔力の澱を納めた匣を抱えて地下へ下りてきた。匣の蓋を少しだけ開けて中を覗き込んでいる。
「妙だぜこれ」
ライはいつものぶっきらぼうな調子でけれど眉を寄せていた。
「あの晩こいつはみんなが怖がると反応してた。恐怖を吸って膨らむ。そういう手口だった。だから騒ぎが収まりゃ静かになるはずなんだ。実際ここ数日はうんともすんとも言わなかった」
「でも今は?」
「脈打ってる。誰も怖がっちゃいないのに。静かな朝にひとりでにとくんとくんってな。……理屈が合わねえ」
エルクは匣を覗き込んだ。黒い澱は見た目にはただの澱でしかない。けれどライの言うとおりその奥で何かがかすかに息づいているようだった。
・・・・・
メアも壁画の前に立って目を閉じていた。
「過去の気配がまだここにあるの」
メアは未来も過去も覗ける目を壁にそっと向けた。
「ふつう終わったことはだんだん薄れていくものなの。でもこの壁の向こうのは……薄れない。まだ続いてる。誰かがずっと何かを伝えようとしてるみたいに」
「伝えようと?」
「うん。怒ってるんじゃないと思う。怖がらせたいんでもない。もっと……困ってるみたいな。うまく言えないけど」
エルクはメアの言葉を急かさずに待った。はっきり言えないことを無理に形にさせない。それがメアの未来視との付き合い方だった。
・・・・・
その晩代表者たちが地下の一件をどう扱うかで少しもめた。
慎重なラミアの長老が低い声で言った。
「掘り返さんほうがよかないか。せっかく門は半開きで止まっとる。壁画も欠片もそっとしておけばまた眠るかもしれん。寝た子を起こすことはない」
「眠るならいいんです」
クラウは引かなかった。
「でも眠るかどうかが分からない。分からないものを分からないまま放っておくのがいちばん危ない。あの晩俺たちがそれで危うく国を割られかけた。知らないことは隠れているうちにいちばん都合の悪い形で出てきます」
言い合いになりかけたところでエルクがのんびりと口を挟んだ。
「あのさ。両方正しいと思うんだ」
エルクは二人を見比べてゆっくり言った。
「ほじくり返してみんなを不安にさせるのはよくない。長老の言うとおりだよ。でも何も知らないままにするのもこわい。クラウの言うとおりだ。だから……いっぺんに全部やらないようにしようよ」
エルクは指を折りながら続けた。
「壁画と欠片のことはここにいる代表のみんなだけでしばらく抱えておく。広場のみんなにはまだ言わない。よけいな不安を広げないために。そのうえで調べるか調べないかは慌てて決めないで次の会議でちゃんと話す。それでどうかな」
長老はしばらく考えてから低く頷いた。すぐに掘り返すのでないならと。ソウはそれを受けて地下入口の見張りを二種族で組む形に確かめ直した。一人に任せず必ず誰かと組ませる。
その輪の端に座っていたエネがノノの肩を抱いたまま口を開いた。
「言っとくけど。また『あの子のせいだ』みたいな話にもっていかないでよ」
エネの声は砕けていたが芯は固かった。
「ノノは影に触られただけ。なのに地下のことが起きるたびこの子の名前が出る。それやめて。この子を原因あつかいするんじゃなくて……この子だから気づけることがあるかもしれないって思ってほしいの」
「うん。ぼくもそう思う」
エルクはすぐに頷いた。
「ノノはこわいものにいちばん近くで触った子だからさ。みんなが気づかないことを先に感じられるんだ。それって責められることじゃないよね。むしろすごく頼りになることだよ」
ノノはエネの腕の中でこくりと小さく頷いた。自分のせいだと縮こまっていた肩がほんの少しだけゆるんだ。
「悪魔をどう倒すかじゃなくなったね」
エルクは会議の帰りクラウにぽつりと言った。
「門を誰が開けたのか。なんで開けちゃったのか。今度の本当の問いはそっちなんだ」
・・・・・
その夜半。
ライは約束どおり欠片の匣を一人で抱え込まず見張りの当番と一緒に保護区画の隅に置いていた。すぐそばではエネに付き添われたノノがすやすやと眠っている。
静かな夜だった。誰も怖がってなどいなかった。
なのに匣の中の澱がふいにはっきりと脈打った。
ライがはっとして匣に目を落とすのと同じ瞬間だった。眠っているノノが小さな寝言をこぼした。
「……みんなをまもりたい……」
澱はその一言に合わせるようにとくんと大きく波打った。怖がったからでも不安がったからでもない。幼い子が眠りの中で「守りたい」と願ったただそれだけで。
ライは匣を見つめたまま低く呟いた。
「……逆だ。こいつ恐怖じゃなくて守りたい気持ちに反応してやがる」
眠るノノの寝顔はおだやかだった。悪い夢を見ているふうでも苦しんでいるふうでもない。ただまどろみの中でここにいる誰かのことを守りたいと願っただけだ。それは咎められるはずのないまっすぐな気持ちだった。
なのに黒い澱はその気持ちに確かに応えた。
ライは当番の見張りを起こして欠片の反応した時刻とノノの寝言を克明に書き留めさせた。一人で抱え込まず必ず誰かと分け合う。それはもうこの国の決まりになりつつあった。
書きながらライの胸をいやな予感がよぎっていた。あの晩封じた悪魔は消え際に言い残したのだ。我を封じてもその種はもうお前たちの中にあると。
もし――怖がる心ではなく誰かを守りたいと願ういちばん優しい心こそがその「種」なのだとしたら。
それはこの国の誰の中にでも芽吹きうるものだった。




