第118話 内側から壊れた国
先遣の悪魔を封じた朝から三日が過ぎた。
砦は表向きいつもの暮らしに戻っていた。畑には水がやられ従魔たちは見回りに出て炊き出しの煙が朝の空へまっすぐに昇っていく。大きな被害は何も残らなかった。地下の門も半開きのままそれ以上は開かなくなっている。危機は去ったのだ。
なのに砦のあちこちに奇妙な気まずさが残っていた。
あの晩避難民を追い出せと鎌に手をかけた若者はその避難民と目を合わせられずにいる。逃げ出しかけた避難民は受け入れてくれた側に顔を向けられずにいる。ノノを遠巻きにした住民はその小さな子にどう声をかけていいのか分からずにいた。
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その気まずさをいちばん早く拾ったのはメルだった。
「みんななんだか目を合わせないの。あの晩疑ったこと怖がったこと逃げようとしたこと……それがまだ残ってて。『なかったこと』にするにはみんな覚えすぎてるの」
「うん。怖かったもんね」
エルクはいつもの調子でのんびり頷いた。
「怖がったのは仕方ないよ。あんなの来たらぼくだって怖いもん。怖がったことを責めてもしょうがないよ」
けれどとエルクは少しだけ続けた。
「怖かったのをなかったことにするのはよくないと思うんだ。隠すとまたあいつの餌になっちゃうからさ。だから……謝りたい人は謝る。怖かったって言いたい人は言う。そういう場所作ろうよ」
メルはこくりと頷くと広場の真ん中に誰でも座れる円い場をこしらえた。咎めるための場ではない。ただ「あの晩こわかった」「あなたを疑ってごめん」を口に出すための場だった。
はじめは誰も座らなかった。やがて鎌に手をかけた若者がぽつりと避難民の前に膝をついて「……追い出せなんて言って悪かった」と絞り出した。すると避難民の側も「こっちこそ逃げようとしてごめんなさい」と声を返した。気まずさは消えはしない。けれど口に出した分だけ少し軽くなった。
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その場で出た声をクラウがひとつずつ拾い上げてルールの形にまとめていった。
「決めるだけじゃ足りない仕組みが要る――前に言ったその続きだ。あの晩俺たちがどう動いてどこで間違えかけたかを次の誰かが迷わないように紙にしておく」
クラウが書き留めたのは難しい掟ではなかった。異変や不安は隠さず代表者へ伝えること。受け入れは善意だけで決めず住む場所と食べ物と誰が安全を見るかを確かめること。悪魔の影響が疑われる者をすぐに追い出さず保護と警戒を分けて考えること。種族のあいだに疑いが出たら直接なじらずまず事実を確かめること。地下の遺構へ勝手に立ち入らないこと。そして――悪夢や黒い影を見たことを恥や罪として扱わないこと。
「『怖いって言ってもいい』がルールになったんだね」
エルクは書きつけられた一行を覗き込んでちょっと笑った。
「なんか変なルールだけど……でもこれいちばん大事なやつかも」
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その輪のそばにエネがノノの手を引いて立っていた。
「ノノのことはあたしが決める。隔離もしないし見て見ぬふりもしない」
エネは住民たちのほうをまっすぐ見て言った。
「この子は悪いことなんて何もしてない。ただ影に触られただけ。怖いものを遠くに閉じ込めるんじゃなくて怖くないって分かってる誰かがそばにいる。それだけのことよ」
ノノがエネの手をきゅっと握った。
「……ここにいていいの?」
「いいに決まってるでしょ」
エネはしゃがんでノノと目の高さを合わせた。
「あんたがいてくれたから次に同じ目にあった子が来てもみんなどうすればいいか分かってる。あんたはもうこの国の先生みたいなもんよ」
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ソウは見回りの順路を静かに組み直していた。
「警戒を増やすんじゃない。組み替えるんだ。やみくもに見張りを増やせばみんな疲れて肝心なときに気が抜ける。地下の門と外周の抜け道。この二つに絞って空のゼルガと繋ぐ。薄く広く張るより要るところを確実に」
そのゼルガは翼を半分たたんだまま少し離れた岩の上から硬い声で言った。
「……俺はまだ人間を全部は信じてない。あの晩お前らが避難民を追い出さなかったのは見てた。それは認める。だがそれと信じるのは別だ」
ゼルガはふいと空を見上げた。
「ただ空からの見張りは続ける。お前らのためじゃない。空のものの巣をまた焼かれたくない。それだけだ」
「うんそれでいいよ」
エルクはにこっと笑った。
「信じてなんて言わない。見ててくれるだけでじゅうぶん助かるからさ。ありがとうゼルガ」
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ライは解析用に取り分けた黒い魔力の澱とクラウの書き留めた記録とを一つの匣に納めていた。
「あいつの欠片とあの晩の記録。両方保管しておく。次に同じ手口で来られたときまた一から怖がらなくて済むようにな。……正直こんな薄気味悪いもん手元に置きたかないけどよ。捨てるよりはましだ」
メアが岩の上から薄明るくなってきた空を見上げた。
「……前よりちょっとだけ先が見えやすくなったよ。黒いのが薄くなったから未来のぐちゃぐちゃが少しほどけたみたい。まだぜんぶは見えないけど。……怖い未来は減ったよ」
悪魔に壊されなかった群れは危機の後に対応の仕方を覚えた共同体になっていた。善意だけで身を寄せ合っていた国がひとつ強くなったのだ。
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もちろん何もかもが丸く収まったわけではなかった。
円い場に最後まで座らなかった住民もいる。避難民の中にも荷物をまとめたままいつでも出ていけるようにしている者がいた。怖がる気持ちも疑う気持ちも紙に書いたルール一枚できれいに消えてなくなるものではない。
エルクはそれを無理に消そうとはしなかった。
「ぜんぶ仲良しにはならないよね。それでいいと思うんだ」
エルクはまだどこか強張っている広場を見渡してのんびり言った。
「怖いまま疑ったままでもさ。いきなり鎌を持つんじゃなくてまず声をかける。それだけできればいいんだ。仲良しじゃなくたって隣で暮らしていけるからさ」
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その日の夕方地下に下りていたクラウがエルクを呼んだ。
半開きの門の脇ずっと黒い魔力に塗りつぶされて欠けていた壁画の一部が影が薄れたことでうっすらと戻っていた。そこには旧共存国家の門を内側から開けようとしている一人の人物の影が描かれていた。顔だけがまだ見えない。
「……これ門を開けてるの外の敵じゃないんだね」
エルクは戻りかけた壁画をじっと見上げた。
「中の誰かだ」
「ああ。『内側から壊れた』ってのはこういうことだ」
クラウの声は低かった。
「誰かが内側から門を開けた。それが誰なのかは……まだ描かれていない」
そのとき地の底のさらに奥のほうから聞き取れるか取れないかの黒い声が呟いた気がした。
「次は誰が門を開ける?」
エルクは顔のない影をしばらく見つめていた。先遣は封じた。気まずさもほどけはじめた。新しいルールもできた。それでもいちばん奥の問いはまだ誰にも答えられないまま残っている。一度目の国は内側から壊れた。二度目もそうなるのか。
――そうはさせないよ。エルクは静かにそう思った。




