第117話 殺さず逃がさず
地上への通路を駆け上がると外はもう夜明け前の薄明かりだった。
半開きの扉から逃げ出した黒い気配は細く尾を引きながら砦の外周のほうへ滑っていく。地下にいたときよりその影はずいぶん小さくなっていた。
エルクは逃げる影を追いながら首をかしげた。
「ちっちゃくなったね。ゆうべみんなが声をかけ合ったからかな。怖いのが減るとあいつも痩せるんだね」
隣を駆けるウルが念話を送ってきた。
『主よ先回りする。外周の崩れた石塀に抜け道がある。あそこから外へ出る気だ。塞いでくる』
「うんお願い。でも追い詰めすぎないでね。逃げ場をぜんぶ消すとあいつ住民のほうへ飛び込むかもしれないから」
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ウルが灰色の巨体を低くして石塀の崩れ目へ回り込んだ。逃げ道の一つがふさがれる。
空ではグリフが翼を広げ悪魔の影が高く逃げようとするたび風を叩いて押し下げた。地を這うしかなくなった黒い影は行き場を狭められて砦の広場の手前でぐにゃりとうずくまった。
その広場の縁まだ眠っている住民の天幕の前にはライオが王者の風格そのままに立ちふさがっていた。獅子王は影が住民のほうへ一筋でも伸びようとするたび前脚で地を踏みその進路を断った。そして低く礼を欠かさぬ声で念じた。
『ここから先へは通さぬ。主の民は我が背の後ろにいる。影よ行き先を間違えたな』
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広場の物音に天幕のいくつかから住民が顔を出した。黒い影を見て避難民の一人がひっと息を呑む。
「悪魔だ……!」と誰かが声を上げかけた。
その恐怖の匂いを嗅ぎ取ったようにうずくまっていた黒い影がぶるりと震えてひとまわり膨らんだ。
エルクが振り向いた。
「だいじょうぶ! 怖いよね。でもその怖いの声に出してくれるだけでいいよ。隠さないで。隠すとこいつの餌になっちゃうんだ。怖いって言える人はもうちゃんと強いからさ」
天幕の間からケインが寝起きの住民たちの前に出た。
「聞いたな。怖けりゃ怖いと言え。黙って震えてるな。俺も怖い。だがここにはエルクも従魔たちもいる。お前の後ろはライオが守ってる」
怖いと口にする住民の声がぽつぽつと重なっていく。するとひとまわり膨らみかけた黒い影がふっとまた元の小ささに戻った。エルクの言ったとおり隠さずに口にされた恐怖はもう悪魔の餌にはならなかった。
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囲まれた黒い影が最後の力を集めてねばつく声を絞り出した。
「コレデ終ワリダト思ウカ。殺セ。今ナラ殺セルゾ。ソノ竜ヲ呼ベ。我ヲ消セバオ前タチハ楽ニナル。サア殺セ。――ドウセオ前モ最後ハ力デ黙ラセルダケダロウ」
エルクの足が止まった。
いつもの脱力した笑みがほんの少しだけ消えた。住民を怖がらせノノを苦しめ仲間に「殺せ」と囁き続けてきた相手だ。ここで終わらせてしまえばと思う気持ちが胸の奥で確かに動いた。エルクの手がゆっくりと握りこぶしの形になっていく。
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ウルの念話が静かに割って入った。
『主よ。その手はあれが望んでいる手だ。あれは我らに殺させたがっている。お前が怒りで竜を呼べばあれの言うとおりになる。最後まであれの筋書きの上で踊ることになるぞ』
エルクははっと自分の握ったこぶしを見た。そしてゆっくり指をほどいた。
「……あ。そっか。ありがとうウル。あぶなかった。うんこいつぼくに殺させたいんだ。怒らせて力でやらせてそれで『ほらお前も同じだ』って言いたいんだよね。……のらないよそんなの」
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「ライこいつ消さないで封じられる? 全部消しちゃうとどこから来たのか後ろに誰がいるのかぜんぶ分かんなくなる。ちょっとだけ残しておきたいんだ」
ライが慎重に魔力を編みはじめた。
「……できなくはない。消すよりずっと手間だけどな。完全に祓うんじゃなく薄い殻に閉じ込めて動きだけ止める。撒いてた黒い魔力の一部は解析用に取り分けておく。こいつが何でできてるか調べる手がかりにはなる」
「うんそれでいこう」
ソウが影が最後にもう一度住民のほうへ誘いをかけようとした筋を横から断ち切った。クラウは矢立てを開いて悪魔の声と影の縮み方とライが取り分けた魔力の様子を一つずつ書き留めていった。
「殺して終わりにすれば楽だ。だがそれじゃ次に同じ手口で来られたときまた一から怖がるだけだ。残せるものは残しておけ。お前のその判断は正しいと思うぞエルク」
メアが少し離れた岩の上から封じられていく影を見つめた。
「……さっきまで見えてた砦じゅうに黒が溢れる未来が消えたよ。殺す未来でもなかった。閉じ込めて残す未来。これならまだ先につながる」
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ライの編んだ薄い殻が黒い影をゆっくりと包んでいった。
閉じ込められると悟った悪魔は最後にエルクへまっすぐ毒を吐いた。
「結局オ前モ力デ我ヲ黙ラセタ。殺スモ封ジルモ同ジコトダ。オ前ノ優シサナドナラベタ言イ訳ニ過ギヌ」
エルクのこぶしがまた少しだけ固くなった。だが今度は振り上げなかった。
「ちがうよ。殺すのと閉じ込めて話を聞くのはぜんぜんちがう。きみを殴って消すのは簡単だった。でもそうしたらきみが何だったのか誰も知らないままになる。ぼくはきみを黙らせたいんじゃないんだ。きみのことちゃんと知りたいんだよ。……だから殴らない」
エルクは固めたこぶしをゆっくりと開いて殻の上にそっと手のひらを乗せた。叩くためではなく押さえるために。
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薄い殻の中で悪魔の影が見る間に小さくなっていく。先遣の体はもう長くもたない。
消えかける寸前その声が最後にひどく満足げな響きを帯びた。
「ヨイダロウ。封ジルガイイ。ダガ覚エテオケ。一度目ハ……内側カラ壊レタ。オ前タチノ国モ同ジ道ヲタドル。我ヲ封ジテモソノ種ハモウオ前タチノ中ニアル」
それきり声は途切れ黒い影はライの殻の中で小さな澱のような塊になって動かなくなった。クラウがその最後の言葉を一字も漏らさず書き留めた。
「……『一度目は内側から壊れた』か。あの壁画の一行と同じことを言っている。昔の国が滅びたのも外からじゃなく内側からだったと。封じたあいつがそれを認めたわけだ」
エルクは澱になった殻を見下ろした。
「うん。殺さないでよかった。これちゃんと残ったからさ。……あいつの言ってたことぼくはまだ全部は分かんない。でも分かんないままにはしないよ」
ウルが静かに念じた。
『主よよくぞ堪えた。あれを殴り潰すのはたやすかった。お前はたやすいほうを選ばなかった。副官としてそれを誇りに思う』
エルクはちょっと笑った。
「ウルが止めてくれたからだよ。ぼく一人だったらたぶん殴ってた。みんながいるといちばん楽な道に行かないでいられるんだね」
エルクの手のひらの下で澱になった殻がかすかに脈打っていた。封じても消えてはいない。ただ動きだけが止まっている。
朝の光がようやく砦の外周に差してきた。先遣の悪魔は封じた。けれどその消え際の言葉は地下の壁画が告げていた「内側から壊れた国」の話とまっすぐ重なっていた。閉じ込めたのは影ひとつ。残された問いのほうがずっと大きかった。




