第114話 壊れたのは外からではない
悪魔が消えたその直後だった。
地下の扉の奥でかすかな光が灯った。囁きの悪魔の言葉に応えるように。封鎖されたはずの通路のさらに奥――旧い共存の国が眠るあの場所で何かが目を覚ましたのだ。
「ライ」とエルクは言った。
「奥で何か光ってる」
「記録だ」とライが扉に手をかざして言った。
「壁画みたいに昔のことを残してる仕掛けがある。それが一部起きた。たぶんさっきの悪魔の言葉が鍵みたいに触れたんだ。――見られるなら見ておいたほうがいい。あいつが『同じ言葉で終わった』って言ったその中身がここにある」
エルクはクラウとライとごく少人数で扉の手前まで下りた。住民を大勢入れるわけにはいかなかった。光が映し出すものが何かはまだ分からなかったからだ。
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起きた記録は断片だった。
光は薄れた絵と消えかけた声で昔の国の終わりを少しずつ映した。最初に見えたのは戦の絵だった。城壁の外に王国の軍勢。空には黒い影。エルクはてっきりそれが滅びの理由だと思った。外から攻められて国は滅んだのだと。
「あー外の戦争かあ」とエルクは言った。
「それと悪魔。習ったとおりだね」
「待って」とクラウが絵の続きを指した。
「これ……外の戦の絵はここで終わってる。そのあとずっと内側の絵が続いてる」
光が映したのは戦場ではなかった。会議の間だった。代表たちが円卓を囲んで何かを言い争っている。次の絵では種族ごとに人々が分かれて立っていた。互いに背を向けて。さらに次の絵で――誰かが内側から門を開けていた。外の敵に向かってではなく隣にいた者を追い出すために。
「あれ。壊れたのって」とエルクは絵を覗き込みながら言った。
「外からだけじゃなかったんだ」
クラウは消えかけた声の断片にじっと耳を傾けていた。途切れ途切れに昔の言葉が聞こえてきた。あいつらは信用できない。先に手を打たれる前に。門を閉じろいや追い出せ――。それは戦の号令ではなかった。隣人を疑うひそひそ声だった。
「外の敵と戦っているうちは」とクラウは低く言った。
「この国はまだ保っていたんです。崩れたのは戦が終わったあと。敵がいなくなってほっとしたそのあとから。守るために集まったはずの人たちが今度はお互いを敵だと思い始めた。――矢の一本も飛んでいないのに」
エルクは頭の後ろをぽりぽりと掻いた。外の敵にはみんなで立ち向かえた。やっかいなのは敵がいなくなってほっとした後に内側でこっそり芽を出すもののほうらしい。
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「ここおかしい」とライがある一枚の絵の前で眉をひそめた。
「この絵の周りだけ黒い魔力が滲んでる。あの悪魔のと同じ匂いだ。絵が歪められてる。たぶん本当はもっと細かい事情があったのを『みんなが疑い合って勝手に壊れた』ってところだけ濃く塗り直されてる」
「どういうこと?」とエルクは聞いた。
「あいつは」とライは言った。
「この記録を自分の都合のいいように見せたいんだ。『お前たちもどうせこうなる』って。だから内側で壊れたところだけをわざとはっきり残してる。嘘じゃない。けど全部でもない。半分だけ本当のことをいちばん怖い形で見せてくる。あいつの囁きと同じやり方だ」
エルクはそれを聞いてふっと肩の力を抜いた。
「なんだ。じゃあこれ僕たちを怖がらせたいだけなんだ」とエルクはちょっと笑った。
「ぜんぶがこうなったわけじゃないんだね。……まあ内側から壊れたのが本当ならそれは覚えとくよ」
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地上に戻ると噂はもう広がり始めていた。
地下で昔の国が内輪揉めで滅んだ記録が見つかった。その話は尾ひれをつけて住民の間を駆け回っていた。そして悪魔の囁きですでに古い傷を抉られていた者たちの心にその噂は嫌な形で絡みついた。
「やっぱり受け入れなければよかったんだ」とある住民が言った。
「よそ者を入れたから悪魔に狙われた。昔の国だって内側から壊れたんだろう。なら最初から知らない者を入れなければ壊れようがない」
一方で山道を越えてきた避難民の中にも荷物をまとめ始める者が出ていた。
「ここも同じだ」とその一人は青い顔で言った。
「結局いざとなればわたしたちが追い出される。昔の国と同じだ。早いうちに出ていったほうがいい」
受け入れる側は「入れなければよかった」と言い入れられた側は「どうせ追い出される」と言う。悪魔が一言も囁かなくても恐怖はひとりでに両側から国を裂こうとしていた。
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「だったら」とエルクは集まった皆の前で口を開いた。
立派な演説ではなかった。いつもの素朴な調子だった。
「昔の国と同じにしなきゃいいんじゃないかな。内側から壊れたんなら内側を壊れないようにすればいい。……うんそれだけだよ」
「言うのは簡単です」とクラウが静かに言った。
「エルクさん。わたしはあなたの言うことが正しいと思う。でも簡単じゃない。昔の国の人たちだって最初はきっと仲良くやっていた。それが少しずつの疑いで崩れた。『同じにしない』と決めるだけでは足りないんです。疑いが芽を出す前にそれをどう扱うか。仕組みが要る」
「仕組みかあ」とエルクは繰り返した。
「ええ」とクラウは頷いた。
彼女はすでに紙を広げ始めていた。
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「不安は口に出していい場所を作りましょう」とメルが言った。
「子どもらと一緒で怖いことを黙って抱え込むのがいちばん良くない。怖い嫌だ疑ってる。それを言ってもいい場所があれば悪魔に囁かれる前にこっちで拾える」
「それと」とエネが横から付け加えた。
「怖がられる者を追い出さない仕組みも要る。あたしはバジリスクやマンティスと暮らしてる。怖がられるのは慣れてるんだ。怖いから出ていけをやり始めたら次は角の生えた子その次は鱗のある子ってきりがない。ノノみたいな子を最初に切り捨てた国がどうなったか。さっき地下で見たろう」
クラウは二人の言葉を紙に書き留めていった。受け入れの決まり。疑いが出たときの相談先。何か異変を感じたときの報告の仕方。立派な法ではなかった。ただ怖さを一人に抱え込ませないささやかな手順だった。
「これを仮の決まりにします」とクラウは言った。
「足りなければその都度直す。完成を待っていたら間に合わない」
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エルクは最後に住民たちへ頼みごとをした。
「みんなに一個だけお願いしてもいい?」とエルクは言った。
「怖いこと隠さないでほしいんだ。誰かを疑っちゃったとかあいつが怖いとか。そういうの恥ずかしくないからさ。黙って抱えてるとあの悪魔が嗅ぎつけて餌にしちゃうんだよ。だから怖いと思ったら言ってよ。クラウでもメルでも僕でもいい。隠さないのがいちばんの守りになるからさ」
住民たちはすぐには頷かなかった。だが何人かが隣の者と小さく目を合わせていた。怖いと口に出すことを少しだけ許された顔だった。
エルクはそれで今日は十分だと思った。仕組みが一枚の紙でも皆が顔を見合わせられるなら昔の国とはもう違う一歩を踏み出している。
だが――その晩。
地下の奥でまた黒い霧がざわめき始めた。今度は扉の前に集まるのではなかった。霧は細く裂けて地上のあちこちへ忍び込もうとしていた。一人ひとりの心に残ったほんの小さな恐怖の種をいっせいに芽吹かせるために。
その夜国のあちこちで悪夢にうなされる声が同時に上がり始めた。




