第113話 囁きの悪魔
次の夜地下入口に黒い霧が集まり始めた。
昨夜まで声だけの存在だった。だが今は違った。封鎖された扉の前に墨を流したような霧がゆっくりと渦を巻き少しずつ人のような輪郭を取ろうとしていた。
「来るぞ」とライがエルクの隣で身構えた。
「昨日の声の主だ。形を取ろうとしてる。これが悪魔残党の先遣――地下を狙ってた囁きの正体だ」
エルクはウルとともに地下入口の前に立った。クラウは住民を後ろへ下げソウが防衛線を敷いていた。
霧がひときわ濃くなりやがて薄い影のような姿が立ち上がった。
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「やあ」とその影は言った。
穏やかな人懐こいとさえ言える声だった。それがかえってぞっとした。
「随分と賑やかな国を作ったものだ。人もリザードマンもラミアも空のものも。仲良く肩を並べて。――いつまで続くと思う?」
「ライ」とエルクは影をのんびり眺めながら言った。
「これ強いの?」
「いや」とライは影をじっと観察してから言った。
「本体は大したことない。今すぐ消せる程度だ。でも――おかしい。本体は小さいのに影だけがやたら大きい。こいつ自分の力で大きく見せてるんじゃない。周りの恐怖や疑いを吸って膨らんでる」
「ふうん」とエルクは合点がいった。
「みんなが怖がるほどこいつ強くなるんだ。へんなの」
「そういうことだ」とライは油断なく影を見据えたまま言った。
「だから本体と影を分けて考えないとだめだ。影はみんなの恐怖でできてる。剣で斬っても火で焼いても消えない。消えるどころか焼こうとして怖がったぶんまた膨らむ。倒すべきは奥の小さな本体だけだ。でもその本体に届くにはまず影への餌――みんなの恐怖を断たないといけない」
「なるほどね順番が逆かあ」とエルクは言った。
「先にこいつを倒そうとしちゃだめなんだね。先にみんなを落ち着かせる。話はそれからだ」
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囁きの悪魔はエルクには目もくれず後ろの住民たちへ語りかけ始めた。
「お前たち」と影は優しく言った。
「忘れたのか。人間は必ず巣を焼く。お前たちラミアを追い立てたのは誰だ。お前たちリザードマンの沼を奪ったのは誰だ。――今は笑っていてもいずれ同じことが起きる。人間とはそういう生き物だ」
住民の何人かが足を止めた。古い傷を突かれた者たちだった。
空の上からグリフが低く鳴いて舞い降りた。その羽が小刻みに震えていた。
「お前もだ空のもの」と影はグリフの方を向いた。
「お前の主は巣を焼かれた。雛もろともに。覚えているだろう。人間は必ず裏切る。モンスターは必ず裏切られる。お前はまた同じ火を見ることになる」
「グリフ」とエルクはすぐに呼んだ。
「ゼルガに知らせてくれ。こいつが空のみんなの傷を突いてる。一人にしちゃだめだ」
グリフは迷うように一度エルクを見たがやがて翼を広げ空へ駆け上がっていった。ゼルガのもとへ。
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「メア」とエルクは振り返らずに聞いた。
「これなんて返せばいいかな」
「返しちゃだめ」とメアが青い顔で言った。
「言葉に言葉で返すと――悪い未来が強くなる。今わたしの見てる先が揺れてる。誰かがこいつに言い返して怒鳴り返すたびに暗いほうへ傾いていく。こいつは返事がほしいの。怖がった返事がこいつの餌なの。無視されることがこいつにはいちばん効く」
「分かった」とエルクは言った。
彼はソウに目をやった。ソウは心得たように傷を突かれて立ち尽くす住民たちを影の声の届かない後方の広場へと静かに誘導し始めた。声を聞かせない。それがいちばんの守りだった。
クラウはその広場で集まってきた住民に落ち着いた声で話していた。
「いいですか」とクラウは言った。
「あれはわたしたちのいちばん痛いところを正確に突いてきます。だから刺さるんです。刺さって当然です。でも刺さったからといってそれが本当になるわけじゃない。痛いところを突かれたら一人で抱えずわたしかメルに言ってください。声に出してしまえばあれの囁きよりこっちの声のほうが大きくなる」
メルがその隣で怯えるノノの手をしっかりと握っていた。ノノは自分のせいで悪魔が来たと思い込んでまた泣きそうになっていた。
「あんたのせいじゃないよ」とメルはノノに囁いた。
「呼ばれただけ。あんたはもうこっち側の子だ」
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「どうしたテイマー」と囁きの悪魔が初めてエルクに向き直った。
「お前は言い返さないのか。お前の仲間が侮辱されているのだぞ。怒れ。憎め。その力で私を焼いてみろ。お前の従魔は一体で村を焼けるそうじゃないか」
ドラゴで焼けば確かにこの影は消せるかもしれない。エルクの中で一瞬熱いものがせり上がった。
だがエルクは奥歯を噛んでそれを飲み下した。今怒ればメアの見る未来が暗いほうへ傾く。今焼けば住民の悪夢がもっと濃くなる。この悪魔はエルクが怒るのを待っている。
「僕は」とエルクは静かに言った。
「勝手に傷つけない」
「……なに?」と影がわずかに揺れた。
「お前の言うことは半分本当だ」とエルクは続けた。
「人間が巣を焼いたこともある。裏切られたやつもいる。それはなかったことにはしない。でもそれを聞いて僕がここでお前を焼いたり誰かを疑い始めたりしたらそれこそお前の思う通りだ。だからしない。怒鳴らない。焼かない。僕は勝手に誰も傷つけない。お前のこともまだな」
エルクは後ろの住民たちへ声を張った。
「みんな! こいつに返事をするな! 怖くてもいい。怖いって思うのは悪いことじゃない。でもこいつの言葉に言い返さないでくれ。返事をするほどこいつはでかくなる。黙って僕の後ろにいてくれればいい」
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囁きの悪魔の影がほんの少しだけ縮んだ。
餌を断たれたのだ。怒鳴り返す声も怯えて応える声も来なかった。影は不満げにゆらりと揺れた。
後方の広場では住民たちが互いに小さく声をかけ合い始めていた。怖いねと誰かが言いうん怖いねと誰かが返す。傷を一人で抱え込まずに口に出していた。その素朴なやり取りの一つひとつが影への餌を少しずつ細らせていた。
エルクはその様子を背中で感じながらほっと息をついた。倒したわけではない。だがこいつの一番の武器が自分たちの恐怖そのものなら奪い返す方法はある。そう分かっただけでも今夜は大きかった。
「強情だな」と悪魔は言った。
その声から人懐こさが少し剥がれていた。
「だが無駄だ。この国もいずれ内側から崩れる。私は知っている。なにしろ――」
影が地下の扉をなぞるように撫でた。
「一度見たのだからな。同じことを同じ言葉で。あの国も最後はこう言って終わったのだ」
エルクはその一言だけは聞き流さなかった。あの国。地下に眠る旧い共存の国。この悪魔はそれが壊れる瞬間を見ていたらしい。同じ言葉で。
影はそれきりゆっくりと霧に戻り扉の隙間へとすうっと吸い込まれていった。その最後の言葉だけが地下の闇に嫌な余韻を残して漂っていた。エルクは閉ざされた扉を見上げてふうと息をついた。次はどの子の手を借りようか――悪魔はそう言い残していった。そう簡単に貸すと思うなよ。胸の内でそうつぶやいてエルクは扉に背を向けた。




