第112話 地下へ向かう影
異変が起きたのはそれから三日目の夜だった。
ライの結界は毎晩ノノの悪夢をちゃんと中に閉じ込めていた。誰も悪い夢を見なくなった。皆が少しずつノノを受け入れ始めていた。
だがその夜結界の光がふいに揺らいだ。
見回りをしていたウルが最初に気づいた。狼の従魔は低く唸ってエルクの天幕へ駆け込んだ。
「エルク」とウルとともに走ってきたエネが声を震わせた。
「ノノがいない。寝床にいないの」
エルクは跳ね起きた。
・・・・・
ノノは外周の門の方へゆっくりと歩いていた。
月明かりの下小さな影がふらりふらりと進んでいく。目は閉じていた。
「ノノ……?」とエネが呼びかけた。
返事はなかった。ノノは眠っていた。眠ったまま歩いていた。その足取りに迷いはない。何かにまっすぐ呼ばれているような歩き方だった。
「黒いのが濃くなってる」と追いついたライが息を切らして言った。
「あの子の体から前よりずっと強い黒い魔力が滲んでる。結界を内側から押し破ったんだ。誰かがあの子を呼んでる」
「呼んでる……どこへ」とエルクが言った。
ライはノノの向かう先を指でたどった。外周の門を抜けたその先。前に壁画を見つけたあの地下遺構の入口だった。
「地下だ」とライは言った。
「あの子は地下の入口へ向かってる」
・・・・・
地下入口には警備の者が二人立っていた。
だがその二人は近づいてくるノノを見て戸惑っていた。
「と止めようとしたんですが」と警備のひとりが青い顔で言った。
「ゴーレムが……いつもなら許可のない者が近づけば立ち塞がるはずのゴーレムがあの子には道を空けたんです」
エルクは地下入口を見た。
封印を守るために据えられた土の防衛ゴーレム。それがノノの前でゆっくりと身を引いていた。攻撃するどころか奥の重い扉に手をかけ開けようと――まるでノノを中へ迎え入れようとするように動いていた。
「黒い魔力が」とライがぞっとした声で言った。
「封印を開ける鍵になってる。あの子の体に付いた黒いのをゴーレムが『正しい鍵』だと勘違いしてるんだ」
エルクはようやく悪魔残党の狙いを理解した。
「あいつらが欲しいのは避難民でもこの国でもない」とエルクは言った。
「この地下の封印だ。封印を開けるために鍵になる黒い魔力を子供に付けてここまで歩かせてる」
・・・・・
ゴーレムの手が扉の取っ手にかかった。
「止めなきゃ」とエルクは叫んだ。
「でもノノを傷つけるな。あの子は敵じゃない。操られてるだけだ」
力ずくで子供を引き倒すことはエルクにはできなかった。代わりに地面に手をついた。
土が盛り上がる。エルクの土魔法がノノの行く手にゆるやかな土の壁をせり上げた。ノノを傷つけない柔らかな壁。けれどその足を確かに止める壁だった。
「ソウ防衛線を」とエルクは言った。
「ゴーレムが扉を開けきる前に入口を固める」
ソウがすかさず地下入口の周りに人を配した。ゴーレムと扉の間に割って入る。
「ウルノノを傷つけずにそばを離れるな」とエルクは続けた。
「アラーネラネ。あの子の足を糸で。痛くないようにそっとだ」
蜘蛛の従魔たちが細い糸をノノの足元へそっと巻きつけた。締めつけない。ただこれ以上進めないように。眠ったままのノノが土の壁と柔らかな糸にようやく足を止めた。
・・・・・
だがそこで本当の悪意が牙を剥いた。
集まってきた住民の何人かが突然頭を押さえてふらついた。
「……殺せ」とそのうちのひとりがうわごとのように呟いた。
「その子を殺せば……止まる。その子さえいなければ……」
黒い魔力が住民の心に直に囁いていた。その子を殺せと。
囁かれた住民のひとりが近くの杭を震える手で握った。
「やめて!」とエネがノノを庇って両腕を広げた。
「この子はなんにも悪くない!」
エルクは間に飛び込んだ。
「囁きに乗るな!」とエルクは住民に向かって叫んだ。
「それはお前の考えじゃない。悪魔がお前の口を借りてるだけだ。ここで子供を殺したらあいつらの思う壺だ。それこそがあいつらの狙いなんだ!」
メルが囁かれた住民の肩を強く掴んだ。ライがその額に手を当て黒い気配を押し戻す。住民ははっと我に返り握った杭を取り落とした。
・・・・・
メアが地下入口の前で目を閉じていた。
封印が開いたその先の未来を視ようとしていた。
「だめ……開いたらだめ」とメアが震える声で言った。
「この奥にあるものはまだ出しちゃいけない。今開けたら取り返しがつかなくなる」
「分かってる」とエルクは言った。
「絶対に開けさせない」
エルクはライとともにノノの体から黒い魔力を少しずつ引き剥がしていった。ライが気配を緩めエルクが土の温もりで子供の体を現実につなぎ留める。
やがてノノの体から黒い濃さがゆっくりと薄れていった。鍵を失ったゴーレムが取っ手から手を離し元の位置へのろのろと戻っていく。重い扉は開ききる寸前で止まった。
ノノが目を覚ました。自分が門の外にいることに気づいてわっと泣き出した。エネがその小さな体を強く抱きしめた。
「ぼく……またみんなにわるいこと……」とノノがしゃくりあげた。
「違う」とエルクはしゃがんでノノの目を見た。
「悪いのはお前を呼んだ奴らだ。お前は呼ばれただけだ。一つもお前のせいじゃない」
さっき囁きに乗りかけた住民が青ざめた顔でノノの前に膝をついた。
「すまなかった」とその男は言った。
「俺はこの子を手にかけようとした。悪魔の声に乗せられて。お前さんたちが止めてくれなかったら俺は取り返しのつかないことをするところだった」
「あんたのせいでもない」とエルクは言った。
「あいつらはいちばん優しい人の心の隙にいちばん残酷な囁きを入れる。あんたが踏みとどまったのはあんたがちゃんと人だったからだ」
少し離れて見ていたミナがゆっくりと近づいてきた。かつて避難民の受け入れに誰より強く反対していた娘だった。
ミナは泣いているノノの前にしゃがんだ。そして何も言わずにその背をそっと撫でた。
「……あたしもあんたのことこわいって思ってた」とミナは小さく言った。
「ごめんね」
・・・・・
地下入口はその夜のうちにもう一度固く封鎖された。
ソウが防衛線を厚くしライが扉に新しい封印の補強を施した。ひとまず最悪は防がれた。
だがエルクの胸に消えない引っかかりが残った。
扉は開ききる寸前まで反応してしまった。封印の一部が確かに目を覚ましかけた。完全に元通りに眠ってはくれなかった。
エルクが補強の済んだ扉にそっと手を当てたときだった。
扉のずっと奥――封鎖された通路のさらに深いところから声が滲み出してきた。
誰の耳にも届かないエルクだけに向けた低い黒い声だった。
「――惜しかったな」とその声は言った。
「だが鍵はもうお前たちの中にある。次はどの子の手を借りようか」
エルクは扉に当てた手をゆっくりと離した。地下の奥から悪魔が初めて直接エルクに語りかけていた。
声はそれきり途切れた。エルクは小さく肩をすくめた。今夜は防いだ。相手はもうこの国の中に種を蒔いているらしい。次に呼ばれるのがノノだとは限らない。守るべき相手の中に開けるための鍵が紛れ込んでいる。――めんどくさいことになったなあ。そう思いながらもエルクは夜明け前の門をのんびりと見上げた。たいていの面倒は慌てなければどうにかなる。そういうものだとエルクは知っていた。




