第106話 空の主はまだ信じない
朝から、グリフが落ち着かなかった。
止まり木の上に留まっているかと思えば、また空へ出て、戻ってきて、また出る。飛ぶというより、何かを確かめたくて飛んで、答えが出なくて戻る、という動きだった。
エルクがパスで呼びかけると、少し間が空いてから返事が来た。
『ゼルガの群れが、おかしい』
「おかしい、というのは」
『昨夜、二体がうなされた。ゼルガ直属の若いのが。朝になっても飛び方が乱れている。一体は高度が低い。高度が低い嵐鷲は、怯えているときだ』
エルクは空を見上げた。青い空の中に、遠く翼が見える。確かに、高度が低い。
・・・・・
メアに話を聞いたのは、朝食の後だった。
「ゼルガの群れにも出始めた、ということですね」
「うん。昨夜のグリフのことと、多分つながってる」
「空のモンスターの悪夢の内容を聞けますか。グリフに聞いてみたんですけど」
「グリフは何と」
「巣が焼かれる夢って言ってた。それが昨夜も来たって。でも昨夜は、ゼルガの群れも一緒に見ていたような感じがした、って言ってた」
メアは少し考えた。
「同じ夢を、同時に。……地上の避難民と似ています。ライが地上側は薄い魔力の介入を記録しているけど、空でも同じことが起きているとしたら、範囲が広がっています」
「止められそう?」
「今すぐは難しいです。でも、どういうルートで来ているかを絞れれば、対処できるかもしれない。……一番近くにいるのは、ゼルガです。直接話を聞けるなら、聞いた方がいい」
「ゼルガは、話してくれると思う?」
メアは少しだけ困った顔をした。
「それは分かりません。でも、ゼルガが一番長く空にいる。一番よく見ている。聞かない理由もないです」
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ゼルガのいる山頂側へ向かうとき、グリフが先に立った。
「俺も行く」と短く言った。
「ゼルガは、断りなく来られるのを好まない。先に声をかけた方がいい」
「ありがとう。でも、ゼルガが嫌だと言ったら、無理に話は聞かなくていいから」
グリフは少し翼を動かした。返事はしなかったが、分かった、という感触が来た。
山の斜面に沿って、一時間ほど歩いた。
ゼルガはいつも同じ岩の上にいる。嵐鷲王の止まり場だ。大きい。エルクの二倍以上ある。翼をたたんでいても、岩の上でその存在感は消えない。
グリフが先に鳴いた。短い、確認の鳴き声だ。
ゼルガが、エルクの方を見た。視線が重かった。
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「来たな、テイマー」
ゼルガの声は低かった。人語を話すのは、ゼルガの格式の示し方だ。テイマー以外には話さない、という意思の表れでもある。
「グリフが心配してたから、一緒に来た。昨夜、空でも同じ悪夢が出たって聞いて。……何か知ってることがあれば、教えてほしい」
「知っていることを、なぜ人間に話さなければならない」
「……そうか。でも、地上でも同じことが起きてる。どこかでつながってると思ったから来た。一緒に考えてもらえたら助かる」
ゼルガは視線をエルクから外した。空の方を見た。
「一緒に、か」
「強制はしないよ」
「人間はいつもそう言う。最初は。……旧き国も、最初は同じことを言った。知っていることを教えてほしい、一緒に考えよう、と」
エルクは答えなかった。ゼルガが続けた。
「その後どうなったか、知っているか」
「知らない。でも、話してくれるなら聞く」
ゼルガは長く沈黙した。風が岩の上を通り過ぎた。
「……知らないならいい。知ろうとすることと、知っていることは別だ。お前はまだ知ろうとしている。それだけは、旧き国の者と違う」
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ゼルガが語ったのは短かった。
「我々の群れで昨夜うなされた者が見た夢は、巣を焼かれる場面だ。火と、人間の声と、空が赤くなる夜の色。その色は、我が記憶の中にある。直接見た記憶だ」
「ゼルガが実際に経験した」
「経験した。若い頃だ。旧き共存の国が終わる前の話だ。……我々の夢の中にあったのは、我が記憶だ。正確ではない。歪んでいる。だが、元の記憶は我のものだ」
エルクはゆっくりと言葉を置いた。
「メアが言っていた。これは未来を見せているのではなく、過去の記憶を引き出して歪めている、と。ゼルガの記憶が使われている」
「そういうことだ。我の記憶の中で、一番深い恐怖の場面。それを使えば、空の群れ全体が揺れる。我は群れの長だから、我が恐怖は群れに広がりやすい」
「それは、分かった上で使っている」
「当然だ。相手が何をしているか分かっているから、対処したい。だが、対処するには、相手がどこにいるかが要る。それが、まだ分からない」
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ゼルガは翼を少し開いた。広げるのではなく、体を落ち着けるような動きだった。
「テイマー。お前と共に動く気はない。人間と地上で肩を並べて動くことは、まだできない」
「分かった」
「だが、空を監視することならできる。どこから夢が来ているか、我らの目で見続ける。おかしな方向や、おかしな気配があれば、グリフを通じて知らせる。それだけだ」
「それだけで十分!ありがとう!」
「礼は要らない。我のためにやる。群れを守るためだ。お前と同じ目的が、たまたま重なっているだけだ」
エルクは頷いた。それ以上は言わなかった。
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下り道で、グリフがエルクの横に並んで歩いた。大きな体のわりに、歩き方は静かだ。
「ゼルガが話してくれるとは思わなかった」
「話してくれてよかったね」
「ゼルガは、人間を信じていない。旧き国の話を、普通は外には出さない。……でも、今日は少し話した」
「怒っていたわけじゃないと思う。測っていた、という感じがした」
グリフは少し止まった。
「……そうかもしれない。ゼルガは、ちゃんと見てからじゃないと動かない。昨日今日でお前に会ったわけじゃないから、少し積み上がっているのかもしれない」
「グリフが橋渡ししてくれたおかげでもあるよ」
「俺はただ先に鳴いただけだ」
「それが大事なんだよ」
グリフは答えなかったが、翼の先が少しだけ動いた。
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戻ってから、ソウに話した。
「空の監視は引き受けてもらえた。でも、もし空のモンスターが暴走した場合の地上側の備えをしておきたい」
「もう準備はある」とソウが言った。
「昨日から外周の警戒を一段上げている。ただ、空から来る相手への対応と、地上が混乱する場合の対応は分けて考えた方がいい」
「空から来る相手は、グリフとゼルガ側が対処する。地上が混乱した場合の話をしておきたい」
「分かった。今夜、外周の当番を集めて確認する」
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夜、メアが戻ってきた。ゼルガの周辺の未来分岐を確認しに、少し高い場所まで行っていた。
「はっきりは見えなかったです。でも、ゼルガが空から監視を続けた場合の分岐と、そうでない場合の分岐は、少し違う。前者の方が、選択肢が増えています」
「どういう意味で」
「見える、ということは対処できるということです。今は見えていないから、どこから来るか分からない。ゼルガが空から観測して、何か気配を掴んでくれれば、次の手が打てます」
「完全な信頼じゃないけど、動き始めてる」
「はい。お互いに、今できることだけをやっている。それで十分だと思います」
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夜が更けてから、ゼルガから短い報せがグリフを通じて届いた。
「ゼルガが言った。今日の夜空に、南の方から何かが流れてくる気配があった。風ではない。でも、まだはっきり見えていない」
「南の方から」
「方角だけ。今夜はそれだけ分かった。明日また確認する、ということだ」
エルクは夜空を見た。星が出ている。どこから来るのか、目には見えない。
ゼルガはまだ、こちらを信じていない。でも、南の空を見続けている。
「共存の国が壊れる時、最初に空が裂けた」
エルクはグリフにその言葉の意味を聞いた。
『ゼルガが言っていたことか?』
「うん。前に何かそういうことを言ってたと聞いて」
グリフは少し止まった。
『ゼルガは、空が裂けてから地が乱れると考えている。最初に壊れるのは、いつも空の側からだ、と言っている。……だから、空を守れなかった自分を、今も引きずっている』
エルクはそれをゆっくりと聞いた。
今は、南の空をゼルガが見ている。それで、今夜はいい。




