第105話 悪夢を運ぶもの
叫び声で夜が破れた。
仮避難場所の方からだった。見張りのリザードマンが駆けつけたときには、避難民の一人――大人の女が、上体を起こして肩で息をしていた。目は開いているのに、何かをまだ見ているような目だった。
「……燃えてた」
女はそれだけ言って、両手で顔を覆った。隣の子供が、つられて泣き出した。
知らせを受けたエルクが外周に着いたのは、それからすぐだった。
走ってきたわけではない。エルクは慌てて走ると転ぶ。だが、来るのは早かった。
「大丈夫だよ。ここは燃えてない」
エルクは女のそばにしゃがんで、ゆっくり言った。女が顔を上げた。
「……夢、だったんですか」
「うん。たぶん夢。でも、すごく本物みたいだったんでしょ」
女が小さく頷いた。
「怖い夢を見た人が、悪いわけじゃないからね。今は休んでいいよ」
・・・・・
同じ夜、悪夢を見たのは避難民だけではなかった。
中心区画では、ラミアの子供が三人、ほとんど同じ時刻に泣いて目を覚ました。人間移住者の一人が、汗だくで飛び起きた。外周の見回りについていた若いリザードマンが、休憩中にうなされて、起こされた。
翌朝、それぞれが見た夢を聞いて回ったメアが、難しい顔をして戻ってきた。
「みんな、別々の場所で寝てたのに、夢の中身が似てるの」
「似てるって、どんなふうに」とエルクが聞いた。
「人間がモンスターを裏切る場面。モンスターが人間を襲う場面。それから、空が裂けて、黒い影が降りてくる場面。順番は違っても、この三つがどの夢にも出てくる」
エルクは腕を組んだ。考えるとき、エルクはたいてい眠そうな顔になる。
「みんなが同じものを怖がってるってこと?」
「最初はそう思った。怖い人が逃げてきて、その怖さがうつったのかもって。でも、それだけじゃ説明がつかない。移住者やラミアの子は、避難民とほとんど話してない。怖さがうつる暇がなかった子も、同じ夢を見てる」
メアはそこで言葉を選んだ。
「私は、これ、未来を見せる夢じゃないと思う。みんなが本当に体験した昔の記憶を、誰かが引っ張り出して、歪めて、怖い形にして見せてる。そういう感じがする」
「昔の記憶を、歪めて」
「人間とモンスターは、昔、裏切り合った歴史がある。その記憶を掘り起こして、いちばん怖いところだけを大きくして見せれば、誰でも同じ三つの場面を見る」
・・・・・
ライが外周から戻ってきたのは、昼前だった。
ライは群れの中でも、いちばん落ち着いて物を見る一体だ。エルクの言葉を待たずに、自分から報告した。
『悪夢を見た者の周りに、黒い魔力が薄く残っている。濃くはない。霧が晴れたあとの、湿り気くらいの薄さだ。だが、見ていない者の周りには無い』
「魔力、残ってるんだ」
『残っている。寝ている間に、外から何かが触れた跡だと思う。直接襲うのではなく、眠りの中に薄く入り込む。気づかれないくらい薄く』
エルクは、ライの言葉をゆっくり呑み込んだ。
「攻めてきてるんじゃなくて、夢を運んできてる」
『そういうことだ』
「それ、痛くないし、血も出ないけど」
『血が出ないから、たちが悪い。誰も攻撃されたと思わない。ただ、みんなが少しずつ怖くなって、少しずつ疑い合う。気づいたときには、群れの中が割れている』
エルクは黙った。
戦って勝つ相手なら、ウルやドラゴがいる。でも、これは殴って倒せるものではなかった。
・・・・・
恐れは、昼のうちに別の形で出た。
中心区画の住民の何人かが、クラウのところへ来た。
「避難民が来てから、おかしな夢が始まった。あの者たちを、もっと外に離すべきだ。中心に近づけるのは早い」
その声が外周まで届いたのか、避難民の側も怯えた。ミナが、エルクを見つけて小声で言った。
「……私たちのせいで、夢が広がってるって、言われてます」
「言ってる人がいるのは本当。でも、ミナたちのせいじゃないよ」
「でも、私たちが来てから始まった」
「来たから始まったんじゃなくて、追いかけてきたものがあるんだと思う。ミナたちも、夢を見せられてる側だよ」
ミナは、まだ半分しか信じられない顔をしていた。それでも、追い返されなかったことだけは、伝わったようだった。
・・・・・
その日の夕方、エルクは仲間を集めて、対応を決めた。
「悪夢を見た人を、一か所に集めるのはやめよう」
「どうして」とメルが聞いた。
「怖い人を集めると、怖さが大きくなる。ライが言ってた。みんなが少しずつ疑い合うのが、向こうの狙いだから。だから逆に、ばらばらにして、それぞれ安心できる場所で休んでもらう」
メルが頷いた。
「ラミアの子は、ラミアの大人のそばがいい。リザードマンの若いのは、戦士小屋の方が落ち着く。避難民は……ミナのそばだね」
「うん。種族ごとに、いちばん安心できる相手のそばで寝てもらう。一人にしない。集めもしない」
ソウが口を開いた。ソウは普段あまり喋らないが、警備のことになると短くはっきり言う。
「夜の見回りを増やす。ただし、避難民を見張るためじゃない。そう見えないようにする。怯えてる相手を見張りで囲んだら、よけい怯える」
「うん、それでお願い」
メルが子供たちのところへ、ソウが見回りの手配へ向かった。
ライは、悪夢を見た者の周りに残る黒い魔力を、毎晩記録することになった。薄い反応がいつ、どこで、どれだけ出るか。それを並べれば、運んでくるものの正体に近づける。
「叩いて終わる相手じゃないからね」とエルクが言った。「どこから来て、どうやって運んでるか、分からないと止められない」
・・・・・
夜になった。
対応を変えてから、悪夢を見る者は少し減った。だが、ゼロにはならなかった。
そして、その夜うなされたのは、思いがけない相手だった。
グリフだ。
空を駆ける一族の若いグリフォンで、めったに弱音を吐かない。そのグリフが、止まり木の上で羽を震わせていた。エルクがパスで呼びかけると、ようやく目を開けた。
『……巣が』
「巣が、どうしたの」
『ゼルガの巣が、焼けていた。空から見えた。黒い影が降りて、巣が、焼けて――』
グリフの声は、いつもの誇り高さがなかった。ただ怯えた、若い鳥の声だった。
エルクは、止まり木にそっと手を置いた。
「それも、夢だよ。今、ゼルガの巣は焼けてない。……でしょ?」
グリフは、すぐには答えなかった。
空の一族は、遠くの仲間と気配で繋がっている。その気配が、今、どうなっているのか。グリフ自身、確かめるのが怖い、という顔をしていた。
黒い影は、地に逃げてきた者の夢だけでなく、空の上にも手を伸ばし始めていた。




