第103話 山道から来た怯えた群れ
最初に気づいたのはグリフだった。
朝から上空の見回りに出ていたグリフが、砦の南側、山道の折れ曲がった先に差し掛かったとき、小さな気配を複数感じた。エルクへの念話が届いたのは、それから少しして。
『エルク、南の山道に何かいる。小さいのが何体か。ゆっくり動いてる。急いでる感じじゃないけど、追われてる感じもする』
「追われてる感じ?」
『うまく言えないけど……必死な感じ』
エルクはちょうど広場でお茶を飲んでいた。急いで立ち上がって詰所へ走る。クラウが書類をめくっていた。
「グリフから連絡が来た。南の山道に何かいる。小さいものが複数、急いでるわけじゃないけど追われてる感じがするって」
クラウが手を止めた。
「南の山道。外周警備の範囲か」
「グリフが今確認してる。でも、どうする?」
「まず見に行く。ウルを連れていけ。ウル、匂いを探れるか?」
ウルへの念話を入れると、すぐに応答が来た。
『承知した。すでに南の方角に気配を感じていた。合流する』
・・・・・
山道の折れ曲がりを二つ越えたあたりで、エルクはグリフから「見えた」という念話を受けた。上空から見下ろすグリフの伝える内容はこうだ。
『七体か八体。種族は全部違う。小さい。子供も混じってる。一体はかなり足を引きずってる。追ってくる影は見えない』
「追ってくるものはいないの?」
『いない。でも……あいつら、後ろを何度も振り返ってる』
それを聞いて、エルクは少し急いだ。クラウは念のため少し距離を取って後ろについてくる。
山道の曲がり角を回ったとき、エルクは彼らを見つけた。
岩の陰に身を寄せあうようにして固まっている小さな群れだ。
全員が小柄だった。大人でも人間の子供ほどの背丈しかない。種族もばらばらだ。頭に短い角を二本持つ者、耳が長く鋭い者、体の一部が淡く発光している者。そして、まだ幼い顔つきの子供たちが、大人たちの陰に隠れるように縮こまっている。
一体が足を引きずっていた。包帯代わりに布を巻いているが、それも血が滲んで変色している。
エルクが近づこうとした。
そのとき、群れの中の一体が顔を上げた。
視線がエルクと合った瞬間、その者の顔が凍りついた。声もなく、ただ真っ白な顔のまま、一歩だけ後ずさった。
「怖がらせるつもりはないよ。助けたいんだけど」
エルクが声をかけた瞬間、群れ全体がびくりと揺れた。
逃げなかった。でも、近づいてこようともしなかった。全員がエルクを見ていたが、その目には怯えが張り付いていた。人間を見て安堵するのではなく、人間を見て余計に固まっていた。
・・・・・
ウルが静かに山道に降り立った。
エルクの隣に来て、群れの方へ鼻を向ける。
『主よ。追ってくる者の匂いはない。ただ……少し変だ』
「変?」
『この者たちの周りに、薄く嫌な匂いがある。血の匂いではない。何か焦げるような、腐るような……うまく言えないが、知っている匂いに似ている』
「知ってる匂いに似てるって、何に?」
『……かつて王都の空を割った悪魔に。ごく薄いが、同じ種類だ』
エルクは少しの間、ウルの言葉を噛み締めた。
群れの中の一体、頭に短い角を二本持つ少女が、岩の陰から体だけ少し前に出した。年の頃は、十二、三くらいだろうか。目が合うと、引っ込みそうになったが、踏みとどまった。
「影が、来ます」
少女が言った。人間の言葉だった。声が震えていた。
「追ってる者はいないはずなんだけど」
「見える追手じゃないです。黒い影が……来るんです。足音も形もない。でも、ずっと後ろにいる」
エルクはその言葉を聞いて、メアが言っていたことを思い出した。黒い影。悪魔の残り香。
「どこから逃げてきたの?」
「山の向こう。もともと住んでた場所が……あるとき急に冷たくなって、夜になると黒い霧みたいなものが来るようになって、怖くて出てきました」
「一人じゃないんだよね」
「みんな一緒に逃げました。途中ではぐれた子もいます」
少女の声に、奥で固まっていた子供の一人がしゃくり上げる声が混じった。
・・・・・
クラウが前に出てきた。
群れを観察してから、静かにエルクの横に並ぶ。
「聞いてた」
「うん。助けた方がいいよ」
「そうだな」
「じゃあ中に連れていこう」
「待て」
クラウがエルクを止めた。エルクが少し不満そうな顔をする。
「クラウ、でもあの子たちを見てよ。怪我してる子もいるし、子供もいるし」
「分かってる。見てる。だから急ぐなと言ってる」
「急がないと悪化するじゃない」
「今すぐ中心区画に入れることと、怪我を手当てすることは別の話だ」
クラウは腕を組んだ。
「考えてみろ。あの者たちがどこから来て、何を連れてきたのか、まだ分かっていない。ウルが言ったことを聞いてたか。悪魔に似た匂いがすると」
「……うん」
「中に入れれば、住民が不安になる。今でさえ地下のことで皆が落ち着いていない状態だ。手順を踏まないまま入れれば、かえって混乱が大きくなる。助けたいなら、きちんと助けられる準備をしてからだ」
エルクはしばらく何も言わなかった。
群れの方を見ると、少女がじっとこちらを見ていた。大人の一人が、足を引きずりながら少女の前に出るように立っていた。庇おうとしているのだと分かった。
「……分かった」
エルクが言った。
「ただ、このまま山道に置いていくのはだめだよ」
「そのつもりはない。外周の近くに仮の場所を作る。食料と水を持っていく。そこで話を聞いて、安全が確認できれば中に入れる」
「それはできる? 早く?」
「ウーゴに頼めば早い。ダクトに食料を出してもらう。今すぐ動く」
クラウが念話でエルクを通じてウーゴへ指示を出すよう頼んだ。エルクがウーゴへ伝えると、短く「ウケタ」という返事が来た。
・・・・・
外周のすぐ内側、見通しの良い岩棚に仮の屋根が作られた。ウーゴが木を組んで風雨を凌げる程度の空間を短時間で作り上げる。ダクトが食料と水を運んできた。薬草係の老婆が自ら足を運んで、怪我を負った一体の応急手当を申し出た。
群れは最初、そこに近づこうとしなかった。
入口に立ったエルクが手を振っても、全員が十歩ほど離れた場所から動かない。
「メル、来てもらっていい?」
エルクが念話を飛ばすと、メルがすぐに現れた。状況を見て、「あ〜」と小さく言ってから、エルクの横に並んだ。
「とりあえず私が行ってみるわ」
メルが一人で群れの方へ歩いていった。途中、大人の一人が一歩前に出て「来るな」という動作をした。でもメルは止まらなかった。止まらずに、数歩のところで腰を下ろした。立ったままではなく、しゃがんで相手と目線を合わせる。
「ここに来るように言いに来たわけじゃないわよ。ちょっとだけ話したかっただけ」
大人が答えなかった。
「怖いよね。知らない場所で、知らない人間に囲まれて」
「……人間は信用できない」
大人が口を開いた。女性の声だった。
「信用しなくていいわよ。ただ、怪我してる子を手当てさせてくれない? それだけ」
「手当て?」
「この老婆が一人で行く。武器は持ってない。見てれば分かるでしょ」
老婆が杖をついてゆっくりと歩み出た。背が曲がった小さな老婆は、どう見ても脅威には見えなかった。
群れの中に、少しの間があった。
足を引きずっていた一体の子供が、こっそりと老婆の方へ顔を向けた。
・・・・・
砦の中では、それとは別の動きがあった。
仮避難場所が作られているという話が、どこからか住民の間に広がっていた。
昼過ぎ、ケインが広場でクラウを捕まえた。
「外に怪しい連中が来たって聞きましたけど、本当ですか」
「一時保護中だ。詳しくはこれから確認する」
「悪魔関係じゃないですか。地下も変になってるのに、外から何かが来るなんて、おかしくないですか」
「今は判断できる段階じゃない」
「でも、もし悪魔を連れてきてたら……」
「だから確認するんだ」
クラウが静かに言い返した。
「ケイン、怖いのは分かる。俺も気になっている。でも何も分からない状態で決めつけることと、確認してから判断することは、全然違う。今はまず話を聞く段階だ」
ケインは黙った。納得した顔ではなかった。でも、それ以上は言わなかった。
レオルが少し離れた場所でその会話を聞いていた。
腕を組んだまま、ケインが立ち去るのを見届けてから、静かに歩いてきた。
「クラウよ。連れてきた者たちの種族は確認できたか」
「小角族が一人、耳長族が二人、あとは種族が分からないものが複数。子供が三人」
「小角族か」
レオルが低い声で呟いた。
「知ってる?」
「山の向こうに、かつて小規模な集落があったと聞いたことがある。滅んだと思っていたが……」
「彼らが言うには、黒い影に追われて逃げてきたと」
レオルはしばらく何も言わなかった。
「……急いで入れるべきではないな」
「そうだ」
「だが、見捨てる気にもなれない。我らリザードマンも、かつては追われた側だった」
クラウが頷いた。
「だから外周で仮保護にした。中には入れないが、雨風は凌げる。食料も出す。それ以上は状況次第だ」
「……妥当だ」
レオルが短く言った。その顔には、判断を下した男の静かな表情があった。
・・・・・
エネは仮避難場所からなるべく離れた位置に、ティスとバジちゃんを連れて待機していた。
バジちゃんが、屋根の陰で丸まって群れの方角を向いている。その目が、時折細く光る。
「バジちゃん、何か感じてる?」
エネが小声で聞くと、バジちゃんが一度だけ頭を持ち上げた。感じているのだと思った。何かを、エネには見えないものを。
「分かった。じゃあここで待ってて。近づいたら余計に怖がらせちゃうから」
エネは群れを遠くから見ていた。老婆が怪我した子供の足を包み直している。その子が、最初はびくびくしていたが、手当てが終わる頃には少しだけ硬さが取れていた。
老婆が立ち上がって戻ってきたとき、エネに目が合った。
「びっくりするくらい、怖がっとったよ」
老婆がそっと言った。
「でも逃げなかったね」
「うん。それくらいには疲れとったんだと思う。足はひどくなかったが、体が限界に近い。食べてないんだろね」
・・・・・
夕方になって、ダクトが運んできた食料を群れに渡した。
最初は誰も手を伸ばさなかった。
エルクが食料の一つを手に取って、自分で口に入れてみせた。毒でも何でもないということを見せた。
子供の一人が、そろそろと前に出た。小さな手が食料を掴む。一口かじる。それを見て、他の子供が続いた。
大人の一人が、ため息をついてからようやく手を伸ばした。
しばらくして、角を持つ少女が仮の屋根の端に腰を下ろした。エルクが少し離れたところに同じように腰を下ろす。
「名前、聞いていい?」
少女は少しの間考えてから、答えた。
「ミナ」
「ミナか。僕はエルク。ここで生活してる者の一人だよ」
「……人間が、リザードマンやラミアと一緒に暮らしてるって、本当なんですか」
「本当だよ。見た?」
「遠くから。信じられなくて」
「なんで信じられないの?」
ミナはしばらく黙っていた。
風が吹いて、山の木々が揺れた。遠くで、グリフがゆっくりと旋回している影が見えた。
「前にも……そういう場所があったと、聞いたことがあるから」
「前に?」
「私たちの先祖が語り継いでいます。むかし、人間とモンスターが一緒に暮らした国があったって」
エルクは少し背筋が伸びた。
「その国、どうなったの?」
ミナが顔を伏せた。
答えるまでに、ひと呼吸あった。
「……壊されました。人間に」
その声は静かだったが、震えていた。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、長い時間をかけて何度も繰り返し語り聞かされ、骨に刻み込まれたような、重い言葉だった。
「だから……人間のいる場所は、信用できないって、ずっと」
エルクは何も言わなかった。
すぐには言えなかった。言えることと言えないことがある。「信用してくれ」と言うのは簡単だ。でも、それは今夜言う言葉じゃない。
ただ、ミナの横に座ったままでいた。
・・・・・
夜、クラウが詰所で今日の出来事を記録していた。
エルクが入ってきて、椅子に座った。
「ミナが言ってた。前の共存の国は、人間に壊されたって」
クラウのペンが止まった。
「……旧共存国家のことか」
「多分そうだと思う。彼女たちの先祖から語り継がれてきた話だって」
クラウはしばらく沈黙した。
「旧共存国家が滅んだことは、俺たちも知ってる。悪魔の関与があったことも。でも、人間側に壊されたという認識が彼女たちには残っているとしたら……」
「真実がどうかは分からない。でも、彼女たちにとってはそれが本当のことなんだよ」
「そうだな」
クラウが記録を続けた。
「明日、改めて話を聞く。安全確認も含めて。ウルの言っていた悪魔の匂いについても、ライに見てもらう必要がある」
「うん」
「エルク。今夜はよくやった」
「何が?」
「すぐに中に入れようとしなかったこと、だ」
エルクは少し頬を掻いた。
「クラウが正しかったから」
「それを認めたこと、だ」
二人の間に、短い沈黙があった。
外では、ウルの眷族が夜の見回りを続けていた。仮避難場所の方角から、子供の声が小さく聞こえた。泣き声ではなく、何かを話す声だった。
エルクはその声を少し聞いてから、立ち上がった。
「明日、ちゃんと話せるといいね」
「そのための準備が今夜の仕事だ」
クラウが書き続けた。
エルクは詰所を出て、夜の砦を歩いた。
外周の方角を向くと、ウーゴが組んだ屋根の輪郭がぼんやりと見えた。その中で、ミナたちが夜を過ごしていた。
黒い影に追われて、知らない場所へたどり着いて、信用できないはずの人間たちに食料をもらって、今夜そこで眠ろうとしている。
それだけでも、今日は一歩だと思った。




