第102話 地下の目覚め
朝一番に異変を知らせてきたのは、ウーゴだった。
夜明け前から地下入口の番をしていたウーゴが、エルクの部屋の扉を静かに叩いた。コン、コン。念話もなく、ただ二回だけ。
エルクが目を覚まして出てみると、ウーゴが廊下に立っていた。大きな木の腕で、自分の腹部の一部を指し示している。その部分の木目が、黒く変色していた。
「ウーゴ、それ……地下の方で触れたところ?」
ウーゴがゆっくりと頷いた。
補強した木材が黒く変色している。ウーゴ自身の腕がその影響を受けたということは、地下の入口付近に触れ続けていた木材も同様だということだ。
エルクはウーゴを連れて地下入口へ向かった。
封鎖された扉の前に立つと、すぐに分かった。
音がしていた。
壁の向こうから、微かな音。魔力が物を通り抜けるときのような、低くて細い振動音だ。押しつけた手のひらに、じわりとした冷たさが伝わってくる。昨夜より冷気が強くなっていた。
ウーゴが補強した木材は、扉の表面に添わせた二本が、根元から先端にかけて黒く染まっていた。焦げた色ではなく、何かが染み込んでいくような、内側からの変色だ。
「クラウを呼ばないといけないね」
・・・・・
起こされたクラウは、目をこすりながら地下入口の前に立って五秒ほど黙っていた。それから、「分かった」とだけ言った。
集合したのは、エルク、クラウ、ソウ、メア、ライ、ウーゴ、ダクトの七人だ。
集合場所の詰所で、クラウが全員に向かって言った。
「地下に入る。ただし、全員では行かない」
「何人で?」
ソウが確認した。
「今ここにいる面子だけだ。住民には知らせない。ウルとドラゴには外で待機してもらう」
エルクは頷いた。昨夜もクラウと話して、同じ結論に至っていた。大人数で動けば、住民の目につく。今はまだ、地下に何があるのかも分からない段階だ。分からないまま皆を不安にさせる必要はない。
それを伝えた上でウルに念話を入れると、間を置かずに返ってきた。
『……主よ。地下に入るのか』
「うん。少し調べてくる」
『危険ではないのか』
「危険かどうかを確かめに行くんだよ。分からないまま放置する方が危ない」
『……俺も行く』
「ウルが入れる広さかどうか分からないし、何かあったときに外から助けに来てほしいから、外で待っててほしい」
ウルはしばらく沈黙した。
『分かった。だが、何かあれば即座に呼べ。主が呼べない状況になったなら、俺が判断する』
「ありがとう、ウル」
続いてドラゴへも念話を入れた。
『地下に行くのだな。我も行くのだ』
「ドラゴは大きいから通路が難しい。外で待っててほしい」
『ならば入口ごと破壊すればよいのだ。広くなるのだ』
「それは絶対にだめだよ」
『なぜだ。広くなれば問題ないのだ』
「地下に何かあるとしたら、壊したら全部終わりになるんだよ。壊さないで調べに行くんだから」
ドラゴは少し間を置いた。
『……つまらないのだ。しかし、分かったのだ』
渋々という返答だったが、了承してくれた。
・・・・・
地下入口の封鎖を一時的に開け、調査班が一列で階段を降り始めた。
先頭はソウ。次にエルク、メア、クラウ。ライはエルクの肩の上。ウーゴとダクトが最後尾に続く。
ランタンの光が石の壁を照らした。空気が一段と冷たくなる。昨夜より、確実に冷気が強い。
階段を降りきって、保管庫の奥の石板を開け、封鎖通路の入口に立った。
入口の周辺の木材は、補強したものの三分の一が黒く変色していた。エルクが触れてみると、表面がわずかにしっとりしている。木が湿ったのではなく、何かが浸みているような感触だ。
「ライ、ここの魔力はどう?」
エルクが小声で聞くと、ライから念話が届いた。
『かなり動きが活発になっています。昨夜より流量が増しています。ただ……少し変です』
「変って?」
『魔力の動きが、一定ではないんです。波があるというか、強くなったり弱くなったりしています。その周期が……地上の住民の生活リズムに少し似ているんです』
エルクは眉をひそめた。
「どういうこと? 住民の生活リズムに似てるって」
『朝、住民たちが起き出す時間帯に、魔力が少し強くなりました。夜中の静かな時間は弱かった。今もこうして皆さんが地下近くで集まったタイミングで、また強くなっています』
エルクはクラウを振り向いた。
「ライが、この魔力の動きが地上の住民の感情に反応しているみたいだって言ってる」
クラウの眉が上がった。
「……住民の感情に?」
「皆が起きる時間に強くなって、夜中は弱くなって、さっき俺たちが集まったら強くなったって」
クラウは少しの間黙った。
「それは……地下の何かが、住民の感情の変動を読み取っている、ということか」
「ライが言うには、そういう感じに見えるって」
ソウが前を向いたまま、静かに言った。
「感情に反応する魔力。それ、悪魔の手口に近いわよね」
誰も反論しなかった。
・・・・・
封鎖通路の内側へ進む。
ランタンの光が揺れながら、石の壁に映る。通路は細く、ウーゴがゆっくり進める程度の幅しかない。ソウが前を歩き、クラウが手帳を開いて壁の様子を書き留めながら進んだ。
通路の途中、床の石板の隙間から、細い光が漏れていた。ライがエルクの肩から少し前に出て確認する。
『床の下の魔力脈から、光が漏れています。入ってきたこの通路全体が、魔力脈の直上を通っているようです』
「魔力脈の真上の通路なんだって」
「つまり、この通路自体が意図的に作られたものだ」
クラウが書き留めながら言った。
「偶然ここに通路が通っているのではなく、魔力脈を利用するために、最初からここに作られた」
「昔の人が魔力脈を知っていた、ということね」
ソウが短く言った。
通路の突き当たりに、昨日と同じ空間が広がっていた。
壁画の部屋だ。
・・・・・
ランタンを掲げると、壁画が照らし出された。
人間、獣人、翼の竜、蛇の身体を持つ種族が、中央へ向かって歩いている構図。その上部に、空の裂け目と翼の影。
エルクはその絵を眺めた。何度か見た絵だ。でも、今日は何かが違うような気がした。気のせいかもしれない。それを確かめに来た。
「メア、ここに来てどう? 前と違う感じはある?」
メアが壁画の前に静かに立った。
魔眼をそっと開く。しかし、すぐに眉がかすかに寄った。
「……主様。私の魔眼が、おかしな状態になっています」
「おかしな、って?」
「未来が見えるはずなのですが……代わりに、過去の断片が映ってくるのです」
エルクは少し考えた。
「過去が見える? それって、この場所のせい?」
「分かりません。ただ、先日申し上げた通り、ここでは未来が見えにくい。今日はさらに、未来の代わりに過去のものが流れ込んでくるのです。断片的で、つながっていない。でも……」
メアが壁画に手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
「この壁画を描いた人たちの、声のようなものが聞こえます。言葉ではなく、感情として。怒っているわけでも、悲しいわけでもなく……疲れ果てた、というような」
静かな言い方だった。
クラウが手帳に書き留めながら、静かに聞いた。
「壁画に、何か変わった部分はあるか? 昨日と比べて」
全員が壁画を確認し始めた。
エルクが壁画の中段あたりを見ていると、ソウが低い声で言った。
「……あそこ」
ランタンを近づける。
壁画の中ほど、中央へ向かって歩いている人物たちの部分だ。以前確認したときは、みな中央へ向かって歩いていた。
今は違った。
端の二体、人間と翼の竜に似た種族が、中央から少しだけ離れる方向を向いていた。歩いているわけではない。ただ、顔の向きが、内側ではなく外側を向いている。
「向きが変わってる」
エルクが言うと、クラウがすぐに書き留めた。
「前は全員が中央を向いていた。今は二体が外を向いている」
「壁画が変化してる。生きてるみたいに」
「生きているわけではないが、何かが影響を与えているのは確かだな」
ライから念話が届く。
『エルクさん。この壁面の魔力が、変化しています。表面に近い部分の魔力が、少しずつ動いています。壁画が変化しているのは、魔力の流れが絵の一部を組み替えているからだと思います』
「ライが、壁面の魔力が動いて絵を組み替えてるんじゃないかって言ってる」
クラウが腕を組んだ。
「魔力が絵を変える。それは誰かの意図か、それとも自然現象か」
「悪魔の残滓が動かしてるって考えると、筋が通るわよ」
ソウが言った。
「黒い魔力が住民の感情に反応して動いている。その動きが、地下の壁画にも影響を与えている。つまり、地上の住民の感情の揺れが、地下の壁画の変化と連動している可能性がある」
「そういうこと?」
「まだ確認だけどね」
・・・・・
部屋の奥に、防衛ゴーレムが立っていた。
夜に目が光ったゴーレム。今は目の光が消えている。ただ立ち続けている。しかし昨日確認したときと比べて、体の向きがわずかに変わっていた。入口の方を向いている度合いが、少し増している気がする。
「ゴーレム、動いた?」
エルクがクラウに聞くと、クラウが昨日の手帳のページをめくって確認した。
「昨日の記録と比べると……胴体の角度が五度ほど変わっている。目立たないが、移動したのは確かだ」
「あいつ、俺たちを見てるのかな」
「守護対象かどうかを測っているんじゃないかしら」
ソウが静かに言った。
「まだ攻撃してこない。でも、完全に停止しているわけでもない。私たちを判断している最中なのかもしれない」
「攻撃しない、と思う?」
「今のところは。でも刺激はしない方がいい」
エルクはゴーレムを見た。
壊せるかどうかは関係なかった。壊したくないのだ。あのゴーレムは昔の人が作った守護者で、何十年もここに立ち続けてきた。それを倒して終わりにするのは、違う気がした。
「ライ、ゴーレムに近づいて調べることはできそう?」
念話が返ってくる。
『今の状態であれば、三メートル程度なら近づけると思います。ただ、もし反応が出たらすぐに下がります』
「ゆっくり見てきてくれる?」
ライが緑色の小さな体で、そろそろとゴーレムの方へ移動した。全員が息を呑んで見守る。
二メートル、一・五メートル。
ゴーレムは動かなかった。
ライが胸部の紋章の近くまで近づき、しばらく観察した。それからエルクへ念話を送ってくる。
『魔力の反応はあります。休眠状態ではなく、低出力で動いています。ただ、攻撃態勢ではないと思います。胸部の制御核に魔力が集中していますが、それは外部への攻撃ではなく、自己維持と情報収集のためのようです』
「ライが言うには、ゴーレムは低出力で動いてるけど攻撃態勢じゃないって。情報収集中みたいだって」
「つまり、俺たちを観察している」
クラウが静かに言った。
「攻撃しない、でも帰ってもいない。こちらが何者かを確認している、ということか」
「そういうことみたい」
「なら、こちらも同じだな。攻撃しない。近づきすぎない。観察だけする」
・・・・・
調査をひとまず切り上げて通路を戻りながら、クラウが手帳を閉じた。
「今日分かったことを整理する」
「うん」
「一つ、木材の黒変と魔力音は、悪魔の残滓が地下の魔力脈に働きかけていることで起きている可能性がある。二つ、魔力の流れが地上の住民の感情に反応して変動している。三つ、壁画が変化している。中央へ向かっていた人物の一部が、外を向き始めた。四つ、防衛ゴーレムは低出力で稼働中。現在は攻撃態勢ではなく観察中」
「多いね」
「まとめきれないが……今日の調査だけでも、地下がただの古い遺構じゃないことは確かになった」
階段を上がりながら、エルクは振り返った。
通路の暗闇の向こうに、壁画がある。向きを変えた人物たちがいる。動いているゴーレムがいる。
「地下の安全範囲、地図にしよう」
「もうそのつもりで書いてる」
「立入禁止にする区域も決めないと。ゴーレムが完全に動き出す前に」
「ゴーレムより内側は禁止にする。通路の入口から壁画の手前まではいい。壁画から奥はゴーレムの区域として、当面は入らない。住民には引き続き、地下全体に無断で近づくなと伝えておく」
「クラウ、ありがとう」
「礼を言う必要はない。これは仕事だ」
・・・・・
地上に戻ると、入口の前でウルが待っていた。
エルクが顔を出すと、ウルは静かに近づいてきて、主の顔をじっと見た。
「怪我してない。大丈夫だよ」
『……そうか』
短い返事だった。安堵しているのが、その声の低さに滲んでいた。
午後、クラウが地下の地図を仕上げた。安全区域と立入禁止区域が線引きされた、今日の調査に基づいた地図だ。調査班全員が確認し、それぞれが内容を把握した。
住民への通達は一文だけ変えた。
「地下に引き続き異常がある。当分の間、地下入口には近づかないこと。安全が確認できれば知らせる」
理由は説明しない。説明できるほど、まだ分かっていないから。
・・・・・
夜、クラウが詰所で記録をまとめていると、ソウが一杯のお茶を持ってきた。
「今日の分、全部書けた?」
「大体は。でも書くほど、疑問が増える」
「どういう疑問?」
「魔力の流れが住民の感情に反応しているとして……それは偶然じゃない可能性がある」
クラウはペンを置いた。
「悪魔の残滓が住民の感情を利用するために、ここへ集まっているとしたら。地下の魔力脈が、その器になっているとしたら」
「それは……つまり、住民の不安や疑いが強くなるほど、地下の何かが強くなる、ということ?」
「ライの話と合わせると、その可能性が高い」
ソウは少しの間黙った。
「なら、地下より先に、住民たちの気持ちの方を気にした方がいいのかもしれないわね」
「そうだな」
クラウが手帳を閉じた。
「地下を封鎖して守ることはできる。でも、住民の不安は封鎖できない。そっちが動いたら、地下も動く」
その夜。
調査班が地上へ戻ってから数時間後。
誰もいなくなった壁画の部屋で、変化が静かに進んでいた。
中央へ向かって歩いていた人物の絵。そのうち、人間の姿をした一体と、竜に似た翼の一体が、今はもう完全に背を向けていた。
互いに、だ。
人間は竜に背を向け、竜は人間に背を向けていた。
かつては同じ方向へ歩いていた者たちが、今は互いから離れようとしているように見えた。
ランタンもなく、誰も見ていない地下で、壁画だけがその変化を刻み続けていた。




