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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第三部・悪魔残党 / 旧共存国家編
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第101話 黒い影はまだ遠い

 祝宴の翌朝は、妙に清々しかった。


 広場には昨夜の飾りつけが残っていて、誰かが焚き火の周りに並べた丸太が、まだそのままになっていた。朝靄の中、リザードマンの若い戦士二人が屋根の修繕をしていて、その下をラミアの子供たちが通り過ぎた。


「おはよう」


 声をかけたのはラミアの子供の方だった。戦士の一人が手を止め、短く「ああ」と答えた。昨日まではどちらも目を合わせようとしなかった。


 それだけのことだった。でも、エルクにはそれが嬉しかった。


「なんか昨日と空気ちがうね」


 エルクが呟くと、隣を歩いていたクラウが書類から顔を上げた。


「そりゃそうだ。昨日、皆で名前を決めたんだから」


「モンスターの国、か」


「決めたのは住民たちだけどな」


 クラウは羊皮紙を丸めながら言った。


「今日は昨日の片付けと、区画の見直しだ。のんびりしたい気持ちは分かるが、お前も少しは頭を使え」


「うん、分かってる」


 エルクは欠伸を一つした。分かってはいたが、今日はできれば昼寝がしたかった。昨日はいっぱい話した。人前で話すのは疲れる。


 広場の端で、メルがラネと一緒に飾りつけの布を回収していた。


「おはよ、エルク。クラウ」


「おはよう。メア、まだ起きてないの?」


 エルクが何気なく聞くと、メルの手がわずかに止まった。


「メアなら、もう起きてたよ。早いな〜と思って声かけたら、なんか空ばかり見てた」


「空?」


「うん。顔色も良くなかったし……気になるなら声かけてあげたら?」


 エルクは少し考えてから、広場を見回した。


・・・・・


 メアは砦の壁際にいた。


 石段に腰を下ろして、膝の上に手を置いたまま、動かずにいる。朝靄がまだ薄く漂っていて、その中に一人でいる姿は、どこか切り絵のように見えた。


「メア、おはよう」


 エルクが声をかけると、メアはゆっくり顔を上げた。


「……主様。おはようございます」


「眠れてないの?」


 少しの間があった。


「いいえ、少しは」


「嘘だよ」


 メアの目が静かにエルクを見た。驚いた様子でも、否定する様子でも、なかった。


「目の下、昨日より濃くなってる。あと、さっきから手を見てないで空を見てる。皆の顔を見てない。メアがそういうときって、だいたい何か気になってることがあるときじゃないかな」


 メアは静かに息を吐いた。


「……主様は、よく気づかれるのですね」


「そんなことないよ。ただ、メアのことは見てるから」


 その言葉に、メアは少しだけ目を伏せた。


「夢を見たのです」


「夢?」


「夢、と言えばいいのかどうか、分かりません。眠っているわけでもなく、起きているわけでもない、境のあたりで……黒い影が見えました。形のはっきりしない、でも確かにそこにある、影です」


 エルクは石段の横に腰を下ろした。


「怖かった?」


「はい」


 メアは静かに、でも正直に答えた。


「形が分からないから、説明ができないのです。危ないと言えるほど具体的ではない。でも、見てはいけないものを見たような……あの感覚は、今朝もまだ消えません」


 エルクはしばらく空を見上げた。


 朝の光がゆっくりと広場に差し込んでいた。鳥の声がした。どこかでウーゴが木材を運ぶ音がした。モンスターの国の一日が、静かに始まっていた。


「それ、クラウたちにも言った方がいいと思う」


「ですが、まだ具体的なことは何も見えていません。昨日の集会が終わったばかりで、皆さんを不安にさせるのは」


「メアが一人で抱えてても、解決しないじゃない」


 エルクは立ち上がった。


「怖いなら、皆で見た方がいいよ。一人で怖いより、皆で怖い方がましだし、皆で見れば皆で考えられる」


 メアは少しの間、動かなかった。


 それから、「……はい」と小さく言った。


・・・・・


 集まったのは、クラウ、ソウ、メル、ライ、エルク、そしてメアだった。


 砦の詰所の隅、作業台の前に立って、クラウがメアの話を聞いた。


 メアは言葉を選びながら、昨夜から今朝にかけて見えたものを説明した。形のない黒い影。方向としては地下の方から上がってくるような感覚。何かが「近い」というより、「動き始めている」ような予感。


 クラウは黙って聞いていた。


「昨夜の祝宴に感化されて、疲れが出た、という可能性は?」


「否定はできません。ただ……この感覚は以前にも経験があります。ここに来てから、地下の方を気にするたびに、同じ冷たさを感じるのです」


「地下、か」


 クラウが腕を組んだ。


 その時、エルクへの念話が届いた。ライだ。


『エルクさん。少し前から、地下の方向の魔力の流れが乱れています。昨日の夜から、ずっと確認しているのですが……通常の魔力脈の揺れとは少し違う動きなのです』


「ライが言ってる。地下の魔力の流れが乱れてるって。昨夜から変で、普通の魔力脈と違う動きだって」


 緑色の小さなスライムが詰所の隅から少し前に出てきて、静かに揺れた。


 ソウが少し目を細めた。


「それは私も気になってた。今朝、外周の確認をしたんだけど、南側の警戒線、アラーネが張った糸の一部がわずかに張力を持ってた。でも、周りに何もいない。動物が触れた形跡もなかった」


「アラーネの糸が震えてたの?」


「震えたというか……引っ張られてる感じ、かな。地面の方から」


 全員が少しの間、沈黙した。


 エルクは頬に手を当てた。個別に見れば、大したことではないかもしれない。メアの予知も、ライの魔力乱れも、アラーネの糸も。でも、三つが同じ方向を向いているとなると、話は違う。


「クラウ、どう思う?」


「今すぐ何かが起きるとは思わない」


 クラウは羊皮紙を取り出して、短くメモを書き始めた。


「だが、放置していい理由もない。昨日の集会で皆の気持ちが盛り上がっているのは分かる。それを冷やしたくはないが、危険を見て見ぬふりをするのはもっとまずい」


「じゃあ、どうする?」


「地下入口を一時封鎖する。今日の作業中に住民が入らないよう、ウーゴに補強してもらう。夜間の見回りも増やす。ライに頼んで、魔力反応の推移を引き続き見てもらう」


 クラウがエルクを見た。


「住民への説明は、地下に異常があるため、当分の間は近づかないように、それだけだ。詳しい話をすれば、昨日の晴れやかな気分が一気に消える。メアの予知がまだ具体的でない以上、不安を煽る必要はない」


「うん、それがいいと思う」


 メアが静かに頷いた。


「……ありがとうございます、皆様。一人で抱えていたより、ずっと楽になりました」


「そりゃそうよ」


 メルが笑った。


「メアは一人で抱え込みすぎる癖があるんだから。次から早めに言いなさいね」


・・・・・


 問題は、午後に起きた。


 地下入口の封鎖作業を終えたウーゴが広場へ戻るところで、ケインが声を上げた。


「ちょっと待ってください。なんで地下が封鎖されてるんですか?」


 ケインは昨年イェール村からやってきた若い移住者の一人だ。王国軍を退けた防衛成功のあとから、ここに来ることを決めた。エルクへの信頼は厚い方だが、勢いのある性格でもある。


 一緒にいた若い移住者たちも、不思議そうな顔でウーゴを見ていた。


「地下に異常がある可能性があるから、当分は近づかないようにしてほしい」


 クラウが落ち着いた声で答えた。


「異常って何ですか? 昨日やっとモンスターの国ができたって盛り上がったばかりで、その翌朝から異常ですか?」


「まだ具体的なことは分からない。だから一時的な措置だ」


「分からないのに封鎖するって、不安を煽ってるだけじゃないですか」


 ケインの声は責めているというより、困惑している声だった。隣の仲間の一人が頷いた。


「そうだよ。昨日あんなに盛り上がったのに、今日いきなり地下が使えないって言われたら……なんか悪いことが起きそうで、余計に怖くなる」


 エルクはその声を聞いて、少し考えた。


 怖くなる、というのは本当だと思う。理由が分からない方が、人は余計に怖い。でも、何もかも話せるほど今は情報がない。


「ケイン」


 エルクが前に出た。


「地下で何かが起きているかもしれないって、僕たちも気づいたのが今朝のことなんだ。だからまだ、はっきりとは言えない」


「じゃあなぜ封鎖するんですか」


「分からないからこそ、危ないかもしれない。分からないまま皆を入れるよりは、分かるまで待ってもらう方がいいと思ったから」


「それは……」


「昨日のこと、台無しにしたいわけじゃないよ。ただ、モンスターの国を続けたいなら、変なことには変だって言わないといけない。皆に全部話せるようになったら、ちゃんと話す。それまでは、少しだけ待ってほしい」


 ケインは黙った。


 隣の仲間が、小声で「まあ……エルクさんが言うなら」と言った。


 ケインは不満そうな顔のまま、でも「……分かりました」と言って引いた。


・・・・・


 その夜。


 見回りに出たソウとウルが何事もなく戻り、ライの魔力観測でも昼間からの大きな変化はなかった。


 詰所でクラウが記録をまとめていた。エルクはその横で、地図を眺めながらお茶を飲んでいた。メアは少し眠れると言って、早めに部屋へ引き取っていた。


「とりあえず、今日は何もなかったね」


「ああ」


「よかった」


「よかったというか、まだ始まっていないだけかもしれない」


 クラウがペンを置いた。


「黒い影がまだ遠いとしても、近づいているのは確かだろう。メアの予知が外れることはない」


「外れることもあるって本人は言ってたけど」


「それでも、あれだけ確信を持って怖いと言うなら、根拠がある。今日一日は準備のための日間として使えた、そう思うことにする」


 エルクはお茶を一口飲んだ。


「クラウ、ありがとう」


「何が」


「今日の話し合い。うまくまとめてくれたから。僕だけじゃ、あそこまで整理できなかった」


 クラウは少しの間黙ってから、「俺の仕事だ」と短く言った。


 その後、二人とも静かになった。


 夜風が石壁の隙間から入ってきた。ランタンの炎が揺れた。


・・・・・


 エルクが部屋へ戻ろうとしたちょうどその時。


 地下入口の方向から、ウーゴが念話を寄越してきた。


『エルクさン。少シ……変ナ気配がシマス』


「変な気配?」


『壁ガ、ヤワラカクナッテイルヨウナ……木材ハ動イテイマセン。デモ石ノ方ガ』


 エルクはクラウを見た。クラウが立ち上がった。


 二人で地下入口まで足を運ぶと、ウーゴが補強した木材は問題なかった。しかし、その奥の石扉の隙間から、微かな冷気が漏れていた。


 息を吐くと、白くなった。夏の終わりに、地下からこれほどの冷気が上がってくることはない。


「ライ、感じる?」


 エルクが念話を入れると、すぐに返答が来た。


『はい。今、地下の奥の方から魔力の流れが強くなっています。さっきまでと比べると、方向も変わっています……中から外へ、ではなく、何かが一点に集まるような動きです』


「集まってる?」


『まだ私には何かは分かりません。ただ……注意した方がいいと思います』


 エルクとクラウは顔を見合わせた。


「今夜はこのまま監視を続ける。エルク、お前は休んでいい」


「クラウこそ」


「俺は記録が残っている」


 言い合いにならないうちに、エルクは「じゃあ交代制にしよう」と折衷案を出した。クラウが少し考えてから、頷いた。


 その夜、地下入口の近くでウーゴが静かに立ち続けた。


・・・・・


 夜の三刻が過ぎた頃。


 地下の壁画の、空の裂け目が描かれた部分が、わずかに色を濃くした。


 朝には少し灰色がかった程度だったその影が、今は黒と言っていいほどになっていた。


 誰もそれを見ていなかった。


 そして、壁画の奥の通路で、長い時間をかけてただ立ち続けていた防衛ゴーレムがいた。胸に古い紋章を刻んだ、この砦が建てられた時代のものだ。


 その目が、一瞬だけ、赤く光った。


 ほんの一瞬だった。


 次の瞬間には消えて、またただの石の目に戻っていた。


 地下は静かだった。


 しかし、何かが、目を覚まし始めていた。

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