第101話 黒い影はまだ遠い
祝宴の翌朝は、妙に清々しかった。
広場には昨夜の飾りつけが残っていて、誰かが焚き火の周りに並べた丸太が、まだそのままになっていた。朝靄の中、リザードマンの若い戦士二人が屋根の修繕をしていて、その下をラミアの子供たちが通り過ぎた。
「おはよう」
声をかけたのはラミアの子供の方だった。戦士の一人が手を止め、短く「ああ」と答えた。昨日まではどちらも目を合わせようとしなかった。
それだけのことだった。でも、エルクにはそれが嬉しかった。
「なんか昨日と空気ちがうね」
エルクが呟くと、隣を歩いていたクラウが書類から顔を上げた。
「そりゃそうだ。昨日、皆で名前を決めたんだから」
「モンスターの国、か」
「決めたのは住民たちだけどな」
クラウは羊皮紙を丸めながら言った。
「今日は昨日の片付けと、区画の見直しだ。のんびりしたい気持ちは分かるが、お前も少しは頭を使え」
「うん、分かってる」
エルクは欠伸を一つした。分かってはいたが、今日はできれば昼寝がしたかった。昨日はいっぱい話した。人前で話すのは疲れる。
広場の端で、メルがラネと一緒に飾りつけの布を回収していた。
「おはよ、エルク。クラウ」
「おはよう。メア、まだ起きてないの?」
エルクが何気なく聞くと、メルの手がわずかに止まった。
「メアなら、もう起きてたよ。早いな〜と思って声かけたら、なんか空ばかり見てた」
「空?」
「うん。顔色も良くなかったし……気になるなら声かけてあげたら?」
エルクは少し考えてから、広場を見回した。
・・・・・
メアは砦の壁際にいた。
石段に腰を下ろして、膝の上に手を置いたまま、動かずにいる。朝靄がまだ薄く漂っていて、その中に一人でいる姿は、どこか切り絵のように見えた。
「メア、おはよう」
エルクが声をかけると、メアはゆっくり顔を上げた。
「……主様。おはようございます」
「眠れてないの?」
少しの間があった。
「いいえ、少しは」
「嘘だよ」
メアの目が静かにエルクを見た。驚いた様子でも、否定する様子でも、なかった。
「目の下、昨日より濃くなってる。あと、さっきから手を見てないで空を見てる。皆の顔を見てない。メアがそういうときって、だいたい何か気になってることがあるときじゃないかな」
メアは静かに息を吐いた。
「……主様は、よく気づかれるのですね」
「そんなことないよ。ただ、メアのことは見てるから」
その言葉に、メアは少しだけ目を伏せた。
「夢を見たのです」
「夢?」
「夢、と言えばいいのかどうか、分かりません。眠っているわけでもなく、起きているわけでもない、境のあたりで……黒い影が見えました。形のはっきりしない、でも確かにそこにある、影です」
エルクは石段の横に腰を下ろした。
「怖かった?」
「はい」
メアは静かに、でも正直に答えた。
「形が分からないから、説明ができないのです。危ないと言えるほど具体的ではない。でも、見てはいけないものを見たような……あの感覚は、今朝もまだ消えません」
エルクはしばらく空を見上げた。
朝の光がゆっくりと広場に差し込んでいた。鳥の声がした。どこかでウーゴが木材を運ぶ音がした。モンスターの国の一日が、静かに始まっていた。
「それ、クラウたちにも言った方がいいと思う」
「ですが、まだ具体的なことは何も見えていません。昨日の集会が終わったばかりで、皆さんを不安にさせるのは」
「メアが一人で抱えてても、解決しないじゃない」
エルクは立ち上がった。
「怖いなら、皆で見た方がいいよ。一人で怖いより、皆で怖い方がましだし、皆で見れば皆で考えられる」
メアは少しの間、動かなかった。
それから、「……はい」と小さく言った。
・・・・・
集まったのは、クラウ、ソウ、メル、ライ、エルク、そしてメアだった。
砦の詰所の隅、作業台の前に立って、クラウがメアの話を聞いた。
メアは言葉を選びながら、昨夜から今朝にかけて見えたものを説明した。形のない黒い影。方向としては地下の方から上がってくるような感覚。何かが「近い」というより、「動き始めている」ような予感。
クラウは黙って聞いていた。
「昨夜の祝宴に感化されて、疲れが出た、という可能性は?」
「否定はできません。ただ……この感覚は以前にも経験があります。ここに来てから、地下の方を気にするたびに、同じ冷たさを感じるのです」
「地下、か」
クラウが腕を組んだ。
その時、エルクへの念話が届いた。ライだ。
『エルクさん。少し前から、地下の方向の魔力の流れが乱れています。昨日の夜から、ずっと確認しているのですが……通常の魔力脈の揺れとは少し違う動きなのです』
「ライが言ってる。地下の魔力の流れが乱れてるって。昨夜から変で、普通の魔力脈と違う動きだって」
緑色の小さなスライムが詰所の隅から少し前に出てきて、静かに揺れた。
ソウが少し目を細めた。
「それは私も気になってた。今朝、外周の確認をしたんだけど、南側の警戒線、アラーネが張った糸の一部がわずかに張力を持ってた。でも、周りに何もいない。動物が触れた形跡もなかった」
「アラーネの糸が震えてたの?」
「震えたというか……引っ張られてる感じ、かな。地面の方から」
全員が少しの間、沈黙した。
エルクは頬に手を当てた。個別に見れば、大したことではないかもしれない。メアの予知も、ライの魔力乱れも、アラーネの糸も。でも、三つが同じ方向を向いているとなると、話は違う。
「クラウ、どう思う?」
「今すぐ何かが起きるとは思わない」
クラウは羊皮紙を取り出して、短くメモを書き始めた。
「だが、放置していい理由もない。昨日の集会で皆の気持ちが盛り上がっているのは分かる。それを冷やしたくはないが、危険を見て見ぬふりをするのはもっとまずい」
「じゃあ、どうする?」
「地下入口を一時封鎖する。今日の作業中に住民が入らないよう、ウーゴに補強してもらう。夜間の見回りも増やす。ライに頼んで、魔力反応の推移を引き続き見てもらう」
クラウがエルクを見た。
「住民への説明は、地下に異常があるため、当分の間は近づかないように、それだけだ。詳しい話をすれば、昨日の晴れやかな気分が一気に消える。メアの予知がまだ具体的でない以上、不安を煽る必要はない」
「うん、それがいいと思う」
メアが静かに頷いた。
「……ありがとうございます、皆様。一人で抱えていたより、ずっと楽になりました」
「そりゃそうよ」
メルが笑った。
「メアは一人で抱え込みすぎる癖があるんだから。次から早めに言いなさいね」
・・・・・
問題は、午後に起きた。
地下入口の封鎖作業を終えたウーゴが広場へ戻るところで、ケインが声を上げた。
「ちょっと待ってください。なんで地下が封鎖されてるんですか?」
ケインは昨年イェール村からやってきた若い移住者の一人だ。王国軍を退けた防衛成功のあとから、ここに来ることを決めた。エルクへの信頼は厚い方だが、勢いのある性格でもある。
一緒にいた若い移住者たちも、不思議そうな顔でウーゴを見ていた。
「地下に異常がある可能性があるから、当分は近づかないようにしてほしい」
クラウが落ち着いた声で答えた。
「異常って何ですか? 昨日やっとモンスターの国ができたって盛り上がったばかりで、その翌朝から異常ですか?」
「まだ具体的なことは分からない。だから一時的な措置だ」
「分からないのに封鎖するって、不安を煽ってるだけじゃないですか」
ケインの声は責めているというより、困惑している声だった。隣の仲間の一人が頷いた。
「そうだよ。昨日あんなに盛り上がったのに、今日いきなり地下が使えないって言われたら……なんか悪いことが起きそうで、余計に怖くなる」
エルクはその声を聞いて、少し考えた。
怖くなる、というのは本当だと思う。理由が分からない方が、人は余計に怖い。でも、何もかも話せるほど今は情報がない。
「ケイン」
エルクが前に出た。
「地下で何かが起きているかもしれないって、僕たちも気づいたのが今朝のことなんだ。だからまだ、はっきりとは言えない」
「じゃあなぜ封鎖するんですか」
「分からないからこそ、危ないかもしれない。分からないまま皆を入れるよりは、分かるまで待ってもらう方がいいと思ったから」
「それは……」
「昨日のこと、台無しにしたいわけじゃないよ。ただ、モンスターの国を続けたいなら、変なことには変だって言わないといけない。皆に全部話せるようになったら、ちゃんと話す。それまでは、少しだけ待ってほしい」
ケインは黙った。
隣の仲間が、小声で「まあ……エルクさんが言うなら」と言った。
ケインは不満そうな顔のまま、でも「……分かりました」と言って引いた。
・・・・・
その夜。
見回りに出たソウとウルが何事もなく戻り、ライの魔力観測でも昼間からの大きな変化はなかった。
詰所でクラウが記録をまとめていた。エルクはその横で、地図を眺めながらお茶を飲んでいた。メアは少し眠れると言って、早めに部屋へ引き取っていた。
「とりあえず、今日は何もなかったね」
「ああ」
「よかった」
「よかったというか、まだ始まっていないだけかもしれない」
クラウがペンを置いた。
「黒い影がまだ遠いとしても、近づいているのは確かだろう。メアの予知が外れることはない」
「外れることもあるって本人は言ってたけど」
「それでも、あれだけ確信を持って怖いと言うなら、根拠がある。今日一日は準備のための日間として使えた、そう思うことにする」
エルクはお茶を一口飲んだ。
「クラウ、ありがとう」
「何が」
「今日の話し合い。うまくまとめてくれたから。僕だけじゃ、あそこまで整理できなかった」
クラウは少しの間黙ってから、「俺の仕事だ」と短く言った。
その後、二人とも静かになった。
夜風が石壁の隙間から入ってきた。ランタンの炎が揺れた。
・・・・・
エルクが部屋へ戻ろうとしたちょうどその時。
地下入口の方向から、ウーゴが念話を寄越してきた。
『エルクさン。少シ……変ナ気配がシマス』
「変な気配?」
『壁ガ、ヤワラカクナッテイルヨウナ……木材ハ動イテイマセン。デモ石ノ方ガ』
エルクはクラウを見た。クラウが立ち上がった。
二人で地下入口まで足を運ぶと、ウーゴが補強した木材は問題なかった。しかし、その奥の石扉の隙間から、微かな冷気が漏れていた。
息を吐くと、白くなった。夏の終わりに、地下からこれほどの冷気が上がってくることはない。
「ライ、感じる?」
エルクが念話を入れると、すぐに返答が来た。
『はい。今、地下の奥の方から魔力の流れが強くなっています。さっきまでと比べると、方向も変わっています……中から外へ、ではなく、何かが一点に集まるような動きです』
「集まってる?」
『まだ私には何かは分かりません。ただ……注意した方がいいと思います』
エルクとクラウは顔を見合わせた。
「今夜はこのまま監視を続ける。エルク、お前は休んでいい」
「クラウこそ」
「俺は記録が残っている」
言い合いにならないうちに、エルクは「じゃあ交代制にしよう」と折衷案を出した。クラウが少し考えてから、頷いた。
その夜、地下入口の近くでウーゴが静かに立ち続けた。
・・・・・
夜の三刻が過ぎた頃。
地下の壁画の、空の裂け目が描かれた部分が、わずかに色を濃くした。
朝には少し灰色がかった程度だったその影が、今は黒と言っていいほどになっていた。
誰もそれを見ていなかった。
そして、壁画の奥の通路で、長い時間をかけてただ立ち続けていた防衛ゴーレムがいた。胸に古い紋章を刻んだ、この砦が建てられた時代のものだ。
その目が、一瞬だけ、赤く光った。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には消えて、またただの石の目に戻っていた。
地下は静かだった。
しかし、何かが、目を覚まし始めていた。




