第99話 国ではなく、居場所
翌朝の広場は、初めて聞くような喧騒に包まれていた。
「追い払ったぞ! 王国の部隊を、誰一人死なせずに!」
ケインが大声で言った。リュックを背負って移住してきたあの若者が、今は頬を紅潮させてリザードマンの戦士たちに混じって立っている。
「すごかった。ドラゴさんのあのブレス、山が消し飛んだんだよな。俺も見てたよ」
「俺たちは本当に守られてるんだ。この場所で」
若者たちの声が、広場に広がっていく。大工の兄弟が「やったな」と笑い、薬草係の老婆がにこにこしていた。ラミアの子供たちが何が起きたか分からないまま大人たちの興奮を感じて一緒に跳ねていた。
エルクはその様子をのんびり眺めながらお茶を飲んでいた。メルが隣で「よかったね」と言ったので、「うん」と答えた。
昼前になって、ケインが広場の中央で声を上げた。
「ここ、もう独立宣言した方がいいんじゃないか。王国を追い払ったんだし、正式に国として名乗り出れば、外からも認められる。エルクさん、どう思いますか!」
広場が少しざわめいた。
クラウがその言葉を聞いて、静かに目を細めた。
・・・・・
代表者会議の面々が、夕方に部屋に集まった。
クラウ、ソウ、メル、エネ、レオル、ラミアの長、メア、そしてエルク。いつものメンバーだ。
「ケインの言葉に、他の若い連中も同調してる」
クラウが言った。声は穏やかだが、慎重さが滲んでいた。
「気持ちは分かる。防衛が成功して、士気が上がってる。正式に独立を宣言すれば、士気はさらに上がるだろう。住民たちに、ここは本物の場所だという確信を持たせることができる」
「でも」
ソウが続けた。
「正式に独立を名乗ることは、王国との対立を決定的にする。今まではグレーゾーンに留まっていた。でも独立宣言をすれば、向こうは正面から戦争の大義名分を得る。威力偵察部隊ではなく、本物の討伐軍を出す理由ができる」
「それは困るな」
レオルが低い声で言った。
「ただ……名乗らないままでは、ここにいる者たちの立場はずっと不安定だ。王国の臣民でも、独立国の住民でもない。宙ぶらりんのまま生きることになる」
メアを通じて、ラミアの長の言葉が届いた。
「長は申しております。ラミアにとって、王国に認められることは望んでいないと。ただ、安心して暮らせる場所があることが必要だと」
「安心して暮らせる場所」
クラウが繰り返した。
「それが本質か」
「そうよね」
ソウが腕を組んだ。
「リザードマンもラミアも、王国の承認が欲しいわけじゃない。安全と安心が欲しいだけ。人間の移住者たちも、権威が欲しいわけじゃなくて、ここでちゃんと生きていけると確信したい」
レオルが頷いた。
「我々が戦ってきたのは、認められるためではない。ここを奪われないためだ。王国が独立を認めようが認めまいが、この場所が失われなければ、それでいい」
部屋がしばらく静かになった。
ソウが全員を見回してから言った。
「それを聞いた上で、一つ確認したいことがある」
彼女の視線が、エルクに向いた。
「エルク。お前はどうしたい? 共同体代表としてではなく、エルク個人として」
・・・・・
エルクは少しの間、黙っていた。
珍しいことだった。エルクはいつも、問われれば比較的すぐに何か言う。でも今は、お茶の湯気を眺めながら、ゆっくりと考えているようだった。
メルが横で静かに待っていた。急かさなかった。
「……僕、王様になりたいわけじゃないんだよ」
エルクがゆっくり口を開いた。
「独立宣言して、国として認められて、すごい国にしたいわけでもない。もっと大きくしたいとか、もっと強くなりたいとか、そういうことを考えたことが……あんまりない」
「じゃあ、何が欲しいんだ?」
クラウが静かに聞いた。
エルクはお茶を一口飲んでから、言った。
「昼寝できて、笑ってられれば、それでいいんだよ」
誰も笑わなかった。
「皆がご飯を食べられて、夜に安心して眠れて、朝起きたら顔を見て笑えれば。それだけでいいんだよ。人間もモンスターも関係なく。そういう場所を作りたくて、ここまで来た。それだけなんだよ」
エルクはどこか申し訳なさそうな顔をした。
「もっと立派な答えを言うべきなのかもしれないけど、本当にそれだけなんだ。国として認められるとか、王都に勝つとか、そういうことは……僕にはよく分からない」
部屋が静かだった。
メアが目を伏せた。レオルが腕を解いた。エネが小さく微笑んだ。メルが「やっぱりエルクだ」と呟いた。
・・・・・
「分かった」
クラウが言った。
立ち上がって、全員を見渡した。
「なら、俺たちは国を名乗るために国を作るんじゃない」
一言ずつ、はっきりと言った。
「皆の居場所を守るために、必要なら国を名乗るんだ」
その言葉が、部屋の空気をすっと変えた。
「独立宣言は、目的じゃない。手段だ。皆が安心して暮らせる場所を守るために、必要になった時に名乗ればいい。今すぐ宣言する必要はないし、王国に認めてもらう必要もない。ただ、この場所を誰にも渡さない。それだけでいい」
レオルが短く言った。
「賛成だ」
ラミアの長の言葉がメアを通じて届いた。
「長も同意です。ラミアは、ここが安心できる場所であり続ける限り、どんな名前でも構わないと」
「私も」
エネが頷いた。
「僕も」
エルクが言った。
「じゃあ決まりね」
ソウが地図を片付けながら言った。
「辺境共生領は、王国への敵対国家ではなく、共存のための自治領として立つ。外には喧嘩を売らない。ただし、この場所と住民を脅かすものには毅然と対応する。それでいいわ」
クラウが羊皮紙に書き留めた。
「以上を、辺境共生領の基本方針とする」
誰も反対しなかった。
・・・・・
会議が終わり、全員が広場へ戻った。
夕暮れが砦の石壁を赤く染めていた。ケインたちに「今日の話し合いの結果を教えてほしい」と言われたので、クラウが丁寧に説明した。
ケインは少し思案してから、言った。
「独立宣言はしないんですね。でも……」
「なんだ」
「居場所を守るために戦う、って言い方の方が、なんか……正直でいいと思います」
クラウが小さく笑った。
「そうだな」
ケインが続けた。
「俺、最初に来た時、ラミアの子供を突き飛ばしてしまったことを後悔してた。あれが最初の印象になっちゃったから。でも今はここにいて、ここが自分の場所だって感じてる。名前とかより、そっちの方が大事なんだと思います」
「よく言った」
クラウはそう言って、肩を叩いた。
・・・・・
夜になった。
広場の焚き火が落ち着いた頃、メアが砦の東側の壁際に立っていた。
星が出ていた。風がなかった。
エルクが気づいて近づいた。
「どうしたの?」
「少し、外を見ていました」
メアはそのまま空を見上げていた。その妖しい瞳が、何もない暗闇の中を静かに見通していた。
「メア」
エルクが横に立って、同じ方向を見た。
しばらく、二人は黙っていた。
それからメアが口を開いた。
「……見えます」
「何が?」
「この場所へ向かってくる、たくさんの者たちの姿です。人間も、リザードマンも、ラミアも、それ以外の種族も。みんな、この方向へ歩いてきています」
「それは……いいことじゃないの?」
「ええ、いいことです」
メアは静かに答えた。
しかし、続きがあった。
「……ただ、その列の後ろに、黒い影が混じっています」
メアの声のトーンが変わった。ほんの僅かに、しかし確実に。
「遠いです。まだ遠いです。でも、確かに存在しています」
エルクがメアを見た。
「悪魔?」
「……悪魔の残り香がします」
その言葉が、夜の空気に溶けた。
焚き火の煙が真っ直ぐ上に昇っていた。風がないから、揺れない。
エルクはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと前を向いた。
「そっか」
「怖くないのですか」
「怖いよ」
エルクが静かに言った。
「でも、地下の壁画を見た時から、多分来るだろうなとは思ってた。昔ここで同じことをしようとした人たちが、悪魔の暗躍で終わったっていう話があったから」
「……そうですね」
「だから、来ることは仕方ないと思う。来た時に、ちゃんと終わらせればいい」
エルクはのんびりした口調で言ったが、その目は静かだった。
「ただ、今夜は来ない」
「ええ。まだ遠いです」
「なら今夜は、皆でちゃんと眠れる」
エルクがそう言って、砦の方へ歩き始めた。
「明日も、皆でご飯食べて、ちゃんと笑えればいいよ」
メアはエルクの背中を見ていた。
その背中は、今夜の星明かりの中で、普段より少しだけ大きく見えた。
メアは小さく息を吐いて、砦の内側へと向き直った。
黒い影は、まだ遠い。
それが今夜の、唯一の救いだった。




