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辺境の村のモンスターテイマー  作者: スルメイカ
第二部・辺境建国編
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第98話 戦わずに勝つ防衛戦

「誰も傷つけない。誰も死なせない。でも、来させない」


 ソウが地図を広げながら言った。その前にクラウ、エルク、レオルが座っている。


「それが今回の方針よ。向こうは情報を取りに来る。なら、情報として与えてやればいい。この場所には手が出せない、と」


 クラウが頷いた。


「俺は降伏勧告の文を書いておく。部隊が一定ラインまで来たら、矢に括りつけて撃ち込む。攻撃ではなく、警告として」


「賛成。で、エルク」


 ソウがエルクを見た。


「今日は通信役を頼む。従魔への指示は全部あなた経由。私の言葉を念話で各所に伝えて、向こうの状況も随時教えてちょうだい」


「うん、分かった」


 エルクが頷いた。珍しく、真剣な顔だった。


・・・・・


 準備は三日前から始まっていた。


 ウルが森に眷族を送り込んだのは最初だった。黒銀の大狼が夜の森の中を走り、次々と配置についていく。木陰に、岩陰に、沢の向こうに。姿は見えないが、確かにそこにいる気配が森全体に満ちていった。


 アラーネとラネは糸の仕込みに一晩かけた。足元に透明な糸を張り、木々の間に誘導用の複雑な網を仕込む。踏めば足を取られ、進めば方向が狂う。視覚ではなく足裏で迷わせる仕掛けだ。


 ライは幻惑の術式を要所要所に展開した。道を曲げて見せる幻。前方に霧を漂わせる障壁。砦の方角を示す方位感覚を鈍らせる魔法の揺らぎ。エルクへの念話でライが言った。


『エルクさん。術式の配置、完了しました。私の幻惑は音と視覚を組み合わせています。解除しようとしても、解除点を見つけにくい構造にしてあります』


「ライ、ありがとう」


 スラは自分の体を十数個に分裂させ、森の各所で待機していた。念話がエルクに届く。


『兄貴! 分裂完了ッスよ! おいらたち全員、バッチリッス!』


「ありがとう。何があっても先に動かないでよ」


『合点承知ッス!』


 グリフは上空を旋回し始めていた。部隊が見上げれば、白銀の翼が空を切る影が見える。それだけで十分だった。


 砦の裏手の崖に、ドラゴは静かに待っていた。姿は見えない。しかしその気配だけが、ひっそりと夜の山に沈んでいた。


・・・・・


 部隊が山道に入ったのは、夜明け前だった。


 三十五名。整然とした隊列。隊長は中堅の騎士で、辺境経験がある。指揮は落ち着いていた。


 森の入り口で、ウルの眷族の一頭がエルクへ念話を送った。


『主よ。来た。三十五。隊列は整っている』


「ソウ、来た。三十五人、隊列は整ってる」


「分かった。第一段階、始めて」


 エルクがウルへ念話で中継する。


 森の中で、何かが動いた。


 木の上から、一頭の黒狼がゆっくりと降りてきた。隊列の左側、斜め前方、三十メートルほどの距離。ただ立って、見ている。


 部隊の先頭が足を止めた。


「……狼だ。一頭だけか?」


「大きい。普通じゃない」


「警戒しながら進め。散開するな」


 隊長が冷静に指示を出した。部隊は動いた。しかし五十メートルほど進んだところで、今度は右側に二頭。後方に一頭。


 包囲されていることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。


・・・・・


 「攻撃してこない……なのに、前に進めない」


 部隊内の斥候が報告した。


 確かに、狼たちは何もしていなかった。ただ、そこにいた。しかし一歩踏み出すたびに、足元の感覚がおかしくなった。踏み込んだはずの地面が、微かにずれる。方向感覚が揺らいでいる。


「道が……変わっている?」


「いや、道は同じだ。でも何かがおかしい」


 ライの幻惑が機能していた。視覚ではなく、前後左右の方位感覚そのものを少しずつ歪める術式。歩いているつもりで、少しずつ螺旋を描いている。


 斥候が「待て」と言った。


「足元に糸がある。細い。透明だ」


 アラーネの罠だった。踏んだ瞬間に締まる糸ではなく、踏んでも切れない繊維が足首に絡みつく仕掛けだ。ゆっくり歩いていれば気づかない。気づいた時には数本が絡んでいる。


 その時、上空から声が降ってきた。


 全員の頭に直接、念話として響いた。


『ニンゲンドモヨ。コノ山ハ、ワレノ領域ダ。引キ返セ』


 低く、地の底から湧き上がるような声。誰もが空を見上げた。


 雲の合間に、巨大な影が見えた。翼の幅だけで、軍馬が何頭も並ぶほどの大きさ。


「あれは……何だ」


 声が出た兵士が一人いた。それだけで、部隊内の緊張が跳ね上がったのが分かった。


・・・・・


 砦側では、ソウが状況を受け取りながら淡々と指示を出していた。


「エルク、今の状況は?」


「ゼルガが声をかけた。部隊は足が止まってる。糸の罠にも気づいてる。混乱はしてるけど、まだ隊列は崩れてない」


「じゃあ、降伏勧告を送る」


 クラウが矢に羊皮紙を巻きつけた。内容はシンプルだった。


「これ以上の前進は勧めない。この場所は、知性ある種族が共に暮らす場所だ。危害を加えるつもりがないなら、今すぐ引き返してほしい」


 矢が部隊の前方に落ちた。地面に刺さって揺れる。


 隊長が拾い上げた。読んだ。表情は変わらなかったが、視線だけが少し揺れた。


 しかし、隊長は引き返さなかった。


「強行する。前を開けろ」


・・・・・


 その宣言が聞こえた瞬間、エルクへの念話が三方向から同時に届いた。


 アラーネからだった。


『主様。強行なら、糸を締めます。足首を固定するだけです。怪我はさせません』


 ライからだった。


『エルクさん。障壁を展開します。前進を物理的に阻みます。痛くはありません』


 スラからだった。


『兄貴! おいらたち、前に出ていいッスか! ちょっと脅かすだけッスよ!』


 エルクはソウに三人の内容をまとめて伝えた。


「アラーネが糸で足首を固定する、ライが障壁を張る、スラが牽制に出る、って三つ同時に来た」


「全部やって。でも傷はつけないこと」


 エルクが三方向に念話を返す。


 部隊の先頭が、透明な壁に当たった。


 次の瞬間、足元が引き絞られた。ゆっくりと、しかし確実に。走ることができなくなる。


 さらに、分裂したスラの十数体が、木々の合間から一斉に顔を出した。それぞれが水や土の魔法を展開し、部隊の周囲をぐるりと包む。


 部隊が止まった。


・・・・・


 隊長は前を見た。障壁があった。後ろを見た。狼がいた。上を見た。グリフが円を描いていた。さらに上に、ゼルガの影があった。


「これは……」


 副官が小声で言った。


「隊長。全包囲です。しかも攻撃してきていない」


「分かってる」


「これは、やろうと思えばいつでも終わらせられる状況だということを、見せられているんです」


 隊長は黙っていた。


 そこで、後方の兵士の一人が声を上げた。


「い、いつの間に……! 後ろの道が消えている!」


 ライの幻惑が後方に展開されていた。道は消えていない。ただ、そう見えるように誘導している。


 部隊の中に、ざわめきが広がり始めた。


「隊長! これ以上は無理です! 前は壁、後ろは分からない、空には化け物がいる!」


「前進だ! 強行突破を——」


 隊長が叫びかけた、その瞬間。


 遠くで、山が鳴った。


・・・・・


 ドラゴが姿を現したのは、砦跡から東へ二キロ離れた山の稜線の上だった。


 漆黒の翼を広げ、朝の光の中に巨大な影として立っている。


 遠すぎて顔は見えない。ただ、その大きさだけが見えた。


 部隊の誰かが「竜だ」と言った。


 次の瞬間、ドラゴが首を向けた。人間のいない岩壁の方向へ。


 白く輝く何かが、口から放たれた。


 ブレスが岩山に着弾した。


 音が届いたのは、一拍後だった。


 轟音。


 岩山の一面が、煙と土埃と共に消し飛んだ。跡形もなく。削られた岩肌が剥き出しになり、崩れた岩石が谷へ向かって崩れ落ちていった。


 部隊が動かなくなった。


 完全に、動かなくなった。


 誰も叫ばなかった。叫ぶより先に、体が動かなくなっていた。


・・・・・


 隊長の前に、人影が現れた。


 転移だった。音もなく、ただそこに立っていた。


 年齢相応の少年。強者らしい気配はない。ただ、後ろにウルが来て、空にドラゴの影が戻っていた。


「帰ってくれる? 怪我しないうちに」


 穏やかな声だった。のんびりとした口調だった。


 しかし隊長は、その言葉の重さを、骨の髄まで理解した。


 あの竜が本気で動いたら。あの狼が命じられたら。あの糸が締められたら。あの幻惑が解除されなかったら。


 この少年が笑顔で「帰ってくれる?」と言っているという事実が、言い換えれば「まだ帰れる」ということを意味していた。


 隊長は一度だけ深く息を吐いた。


「……撤退する」


 短く、しかし明確に言った。


「全員、武器を収めろ。急ぐな。落ち着いて後退する」


 副官が「しかし——」と言いかけた。


「命令だ」


 副官は口を閉じた。


・・・・・


 ライの障壁が消えた。


 糸が緩んだ。


 狼たちが道を開けた。


 部隊は一歩ずつ、後退した。先頭だった者が最後尾になり、最後尾だった者が先頭になって、来た道を戻っていく。誰も走らなかった。走れなかった、ともいえるが、走らなかった。


 エルクはその場に立ったまま、彼らが見えなくなるまで見ていた。


 隊長が最後に一度だけ振り返った。エルクを見た。何も言わなかった。それから前を向いて、歩いていった。


・・・・・


 部隊が山道を下って消えた後、ウルの眷族が一体ずつ森の奥へ戻っていった。アラーネとラネが糸の回収を始めた。スラの分裂体が一つずつ本体に戻っていく。ライの術式がゆっくりと解除され、幻惑に使っていた霧が晴れていった。


 ゼルガの影が、稜線の向こうへ消えた。


 ドラゴが、エルクのところへ戻ってきた。


『燃やしてよかったのだ? 岩山は空だったのだ』


「うん。誰もいないと確認してからだったよね?」


『当然なのだ。エルクが傷つけるなと言ったのだ』


「ありがとう、ドラゴ」


 ドラゴはエルクの隣に座り、翼をたたんだ。


 砦の広場に戻ると、クラウとソウ、メル、エネ、レオル、メアが待っていた。


「終わった」


 ソウが言った。確認ではなく、記録のような言い方だった。


「死傷者、なし。相手側もなし。これで防衛成功よ」


 メルが「よかった!」と声を上げた。エネが「本当に誰も怪我しなかった……」と呟いた。レオルは「見事だった」と短く言った。


 エルクはのんびりとお茶を受け取りながら、「うん、よかった」と言った。


・・・・・


 その夜、クラウは砦内の小さな事務室で羊皮紙に書いていた。


 防衛記録。出来事の経緯、各従魔の動き、部隊の動向、ソウの指揮の経過。淡々と、丁寧に書いていく。


 そして、最後の一行に差し掛かった。


 インクを含ませた筆が、紙の上で一度だけ静止した。


 それから、書いた。


「初防衛戦、死傷者なし」


 そのまま筆を置いて、クラウは椅子の背に深く体を預けた。


 天井を見た。


 想定通りだった。準備した通りだった。それでも、当事者として、実際にそれが機能した事実を確認した時の感覚は、違うものがあった。


 扉が開いた。


 エルクが顔を出した。


「まだ起きてたの?」


「記録を書いてた。見るか?」


 エルクが手元の羊皮紙を覗き込んだ。最後の一行で目が止まった。


「初防衛戦、死傷者なし」


 それを読んで、エルクはゆっくりと笑った。


 のんびりした笑い方ではなかった。何かが嬉しくて、それを素直に顔に出しているような笑い方だった。


「……これが一番大事なことだよね」


「ああ」


「誰も死ななかった。向こうも、こっちも」


「ああ」


「それが一番だよ」


 エルクはもう一度「初防衛戦、死傷者なし」という文字を見て、それから顔を上げた。


「ありがとう、クラウ」


「俺じゃない。皆のおかげだ」


「クラウも、でしょ」


 クラウは特に答えなかった。かわりに羊皮紙を閉じて、棚に片付けた。


「寝ろ。明日からまた忙しい」


「はーい」


 エルクが出ていった。


 クラウはランタンを消した。暗くなった部屋の窓の外に、砦を囲む土壁のシルエットが月明かりに浮かんでいた。


 壁の向こうから、夜風が来た。


 穏やかな、静かな夜だった。

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