77. 辺境のアスラン
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聖女についての文献は、
五百年前、聖女の後見を務めていた
スタイルズ公爵家の書庫にも残されていた。
神殿の書が、
聖女を神話の存在として美化するのに対し、
そこに記されていたのは、
生身の女としての聖女の姿だった。
欲望も、恐怖も、弱さも隠されていない。
だからこそ、それは禁書だった。
アスランは、
その書物からサシャの知らない
ルールを知っていた。
それでも――
フェリの前では、理性など役に立たなかった。
ただひとりの大切な弟でさえ、
彼女を巡るライバルだったのだから。
子供の頃、
悪戯で階段の手すりを滑り降りるフェリシアを受け止めた。
その時できた
アスランの頬を走る小さな傷は、
今も消えていない。
傷のことで泣きじゃくる彼女を抱き寄せ、
優しく慰めた。
――この子は弱い人間に優しい。
自分が傷つくことで、
彼女の愛情を得ることを覚えた。
自分はずるい男だと
アスランは思う。
完璧とは、程遠い。
嫉妬で、
幼いサシャを傷つけた。
わざとフェリに会わせなかった。
サシャがどれほど純粋に
フェリを想っていたかを知りながら。
無垢なフェリが、
清廉な愛を持つサシャを知るのが怖かった。
フェリが聖女になれば、
最初の夫はアスランと決まっていた。
なにもしなくても、フェリが手に入る。
フェリが聖女にさえなれば――
「浅ましいのは、僕の方だよ、フェリ」
――フェリとの初めての夜。
互いの想いを吐き出し、
人生のすべてを賭けてもいいと思えた
幸福の頂点。
あのまま、
フェリを殺し、
自分も死ねばよかった。
何度も、
そう思った。
だが、自分はそんなことはしない。
フェリも、そんな結末を望まない。
褪せた紫のリボンを、
指でなぞる。
領地戦の間も、
肌身離さず胸に忍ばせていた。
幼い頃、
フェリから口づけを受けた日に、
手に入れたものだ。
――僕達の初恋は終わりを告げた。
アスランは窓の外の真っ暗な荒野を眺めた。
この北の地には
王都のような煌びやかさも、
宝石のように輝くあの子もいない。
この腕の中から向けられた、
はにかんだ愛しい笑顔、
しなやかな肢体を思い出す。
絶世の美女と呼ばれても
不思議ではないのに。
あの子は、
自己評価が低い。
王妃やその側近に
『白くて気味が悪い』と言われ、
泣いて王宮から帰ってきたことが、
何度もあった。
周囲がいくら慰めても、
僕のような黒髪こそが
一番美しいのだと、
信じて疑わなかった。
マーカス王子と婚約していた間、
王子の独占欲に怒りを覚えた日もあったが、
二人の仲が冷え切っていると知り、
胸のつかえが下りたのも事実だ。
弟のカイル、
ミゲル殿下、
サシャ神官……
美しく優しいスタイルズ公爵令嬢のフェリシアが、
彼らの誰の想いに応えても
おかしくなかった。
だけど――
聖力のためだけに、
見ず知らずの男を夫にすることは、
どうしても許せなかった。
本気で、
世界が滅びてもいいと思った。
アスランは、
女神の対極に立っていた。
僕の愛は、生涯ひとつでいい。
北の冷たい風が、
窓の外で吹き荒れていた。
アスランは
しばらく闇を見つめたあと、
手の中の紫のリボンを静かにしまい込んだ。
そして、
机の上に積まれた書類へと
視線を戻した。
――
執務室に、
黒髪の美しく妖艶な女が姿を現した。
「小公爵さま。調査が終わりました」
潜入し情報を集める、
公爵家の手足となる影の者。
「では、スカーレット、
トロイア国とイライザ嬢の関係を聞こうか」
アスランの静かな声が、
室内に落ちた。
次回 クライマックス
フェリシアの大きな転機です。
是非読んでください。
更新は金曜日
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