76.ミゲル王子の婚礼
***
アスランが、伴侶の座から去った。
彼はフェリシアの心を
連れて行ってしまった。
それでも――
ミゲルの胸の奥には安堵があった。
フェリシアを奪い去る存在。
それが、なによりも恐ろしかった。
ミゲルの周囲からは、
王妃たちの陰湿な嫌がらせで、
多くの者が消えていった。
イスファへ帰ることも許されず、
命を絶った者もいる。
彼の乳母も、そのひとりだった。
ミゲルは王に溺愛されていた。
だからこそ、
守られ、
同時に危うかった。
王の側妃であった
母の死には、
毒殺の噂もあった。
孤独の中、
父を含め、
好意というものは
生き残るために必要なもの――
ただ、それだけだった。
――あれは、十三歳の頃
王宮の長い回廊で、
花瓶が
割れていた。
散らばった花と水、
きらめく破片。
側妃の侍女たちが、
慌てて片付けている。
侍女の誰かが割ったのだろう。
あの侍女たちが仕えるのは、
後ろ盾の弱い側妃のひとり。
間もなく、
王妃がこの通路を通る時刻だ。
物陰では、
他の側妃付きの侍女たちが、
くすくすと笑っている。
(……またか)
側妃同士の権力争いは日常だ。
ミゲルは扉の隙間から、
ただ様子をうかがった。
自分も、
王妃とは顔を合わせたくなかった。
そのとき――
ふわりと、白銀の髪が揺れた。
まだ幼いフェリシアが、回廊に姿を現した。
片付けが終わっていないのを見て、
彼女はその侍女たちに静かに声をかける。
侍女たちは顔色を変え、
そそくさと去っていった。
フェリシアは、
残された破片の上へ、そっと立つ。
ドレスの裾が、
割れた硝子を覆い隠すように。
慎重に重心を落とし、
動かない。
ほどなくして、
王妃が側近を連れて通りかかる。
「ご機嫌よう、フェリシア。
床が濡れているわね」
「もうしわけございません、王妃さま。
グラスのお水をこぼしてしまいました。
侍女が、代わりを取りにいっております」
「こんな場所で水を飲むなんて」
王妃は眉をひそめた。
「のどが、かわいていて……」
フェリシアはうつむいたまま、じっと耐えていた。
「まるで漏らしたようで無様ね。
公爵令嬢とはいえ、子供はこれだから!
作法の教師を増やしなさい」
小さな肩が、かすかに震えた。
フェリシアは、深く頭を下げる。
――僕は、
ただ見ていることしかできなかった。
少し経って、
花瓶を割った侍女たちが戻ってくると、
彼女は赤くなった鼻で笑ってみせた。
「だいじょうぶ。
王妃さまの小言には、なれているから」
フェリシアは、
ミゲルより二歳年下。
まだ十一にもなっていなかったはずだ。
快活そうな大きな紫の瞳。
少しそばかすの散った白い肌。
腰まである白銀の髪がふわりと揺れた。
初めて会った時も思った。
――どうして、
あんな素敵な娘が、
マーカスなんかの婚約者なんだ?
なぜ、
僕じゃなかったんだろう。
もし、
もう少し早く生まれていたら。
今からでも、
父王にお願いすれば、
彼女は、
僕の……
僕のものになるかもしれない。
強く、
強く願った。
……だけど、
機会は訪れなかった。
父王は、ミゲルと
魔力の強いイスファの姫との
婚姻を強く望んでいた。
フェリシアが、
聖女になるまでは。
フェリシア。
王宮の中でも、
君は人気があったんだよ。
みんな、
王妃が怖くて言い出せなかっただけで。
僕も勇気がなかった。
生き残ることに、
必死だったから。
――そして、今。
大神殿は、
かつてないほど華やかに飾られていた。
長い回廊には白い花が連なり、
各国から集まった使節や貴族たちは、
色とりどりの正装に身を包み、
聖女の婚姻を見守っていた。
厳かな楽の音が響き、
神官たちの祈りが重なる。
そのすべての中心に、
純白の衣装を纏ったフェリシアがいる。
「愛のある人の隣で、
このドレスを着るとは思わなかったわ。
ミゲル、わたし、
あなたの隣にいられて嬉しいのよ」
フェリシアは、
儚く微笑む。
たとえ、
他の伴侶と分かち合う形でも。
アスランが彼女の心を
持ち去ってしまっていても。
この、まばゆい場所で、
彼女は僕の隣にいる。
ミゲルは心から溢れる喜びを
隠さずに
妻に微笑みかけた。
聖女が、
女神の前で誓うことは、
無意味だ。
それはミゲルもわかっていた。
聖女自体が、
女神の代理人そのものなのだから。
大神殿の広間の白い大理石に
眩しい光が降り注ぐ。
――ああ、フェリシア、
僕の全てをかけて誓うよ。
透けるような白い肌
紫水晶の瞳が
まっすぐにミゲルを見つめ、
薔薇色の小さな唇が
誓いの言葉を紡ぐ。
ミゲルのためだけに
あの、白いドレスを纏う妻は
誰よりも美しかった。
王の意向により、
大神官の立ち会いのもと、
厳かに
婚姻が宣言された。
****
大神殿には、
祝福の声が満ちていた。
サシャは、
神官たちの列の先頭に立ち、
その光景を見つめていた。
白い花に囲まれ、
真珠を散りばめた
ドレスを纏ったフェリシア。
誰よりも美しく、
誰よりも遠い。
サシャは、
ただフェリシアの姿だけを
追っていた。
フェリシアと私との婚姻は
心を吐露した
あの月の夜
そして、
幼い頃に過ごした自室のベッドで、
目を閉じた女神の肖像の下
魔力も関係なく
愛情だけで抱き合った、
あの瞬間。
――それだけで、
私には充分だ。
女神のペンダントを
握りしめるサシャの足元に、
黒い影が落ちる。
それでもなお、
光に満ちたこの光景を見ると、
身体中を締めつける
どうしようもない
切なさを、
サシャは消すことができなかった。
**
カイルは、
大神殿の後方に、
ひとり立っていた。
前方の公爵家の席に着くつもりだった。
なのに、
どうしても脚が動かなかった。
視界の先には、
溢れるほどの白い花で飾られた祭壇。
その前に、
フェリシアとミゲルが立っている。
大神殿を埋め尽くすほどの人々が、
二人を祝福していた。
カイルにも、
その声は聞こえていた。
――けれど。
カイルの目に映るのは、
フェリシアだけだった。
白いドレスの裾が、
秋の陽の光を受けて
幻のように揺れている。
その隣にいるのは、
自分じゃない。
こんな風に、
ミゲルのように、
フェリシアの隣に立ちたかった。
幼い頃、
結婚式の真似をして、
口づけて、
泣かせてしまったことがある。
いつかは、
本当になると信じていた。
――もっと早く
攫えばよかった。
公爵家の体面なんて
気にしなければ、
フェリが成人するまで待てと言う
兄の口車に乗らなければ――
聖女になってからでは、
遅すぎた。
俺は、いつも
手遅れになってから気づく。
だけど、
今は俺もフェリの伴侶だ。
それを捨てた兄とは違う。
……兄貴は、
今、何を思っているんだろう。
華やかな喧騒の裏で、
北からの風が
冷たく吹き抜けた気がした。




