75.カイルとアスラン
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カイルは、
出征前の兄と最後に向き合った
夜のことを
思い出していた。
窓の外には、
王都の夜が広がっていた。
曇った夜空に月はなく、
初秋の夜気が、
窓の隙間からわずかに忍び込んでくる。
部屋の灯りは落とされ、
二人の間に置かれた
魔法灯の燭台だけが、
音もなく白い炎を揺らしていた。
「王都に戻らないって……
公爵家はどうなるんだよ」
「爵位はコンラッドに継がせる」
公爵家の息子たちが聖女の伴侶になれば、
戻れなくなるかもしれない。
公爵の孫のコンラッドは、
最初から公爵家を継ぐスペアだった。
「何年先の話だよ……」
カイルは、
苛立ったように椅子の背にもたれた。
カイルのつぶやきに
アスランは答えなかった。
手元の書類から
視線すら上げない。
紙をめくる小さな音だけが、
やけに重く室内に響く。
「カイル、お前は
イライザの交友関係を調べろ」
静かな命令だった。
「兄さん……イライザって……
今になって、なぜ?
あれは事故ってことで、
王宮内で処理されたはず」
「伴侶の力は、
神殿でサシャが使っている。
黒焦げの遺体を多くの者が見ている。
口止めはしていても、
イライザの死とミゲル殿下が
結びつくのは時間の問題だ」
確かに、とカイルは息を呑んだ。
イライザは侯爵令嬢。
王宮がどれほど隠そうとも、
噂は必ず王子の名に辿り着く。
「聞け、カイル。
伴侶の印は――
伴侶に
『殺意を持つ者』にしか、
攻撃しない。
双方に明確な殺意がなければ
発動しないんだよ」
「……え?」
思考がかたまる。
「それじゃ……
貞操を奪おうとしただけじゃ、
反応しない?」
「そうだ。イライザは、
ミゲル殿下を殺そうとしていた」
淡々とした声が、重く胸に落ちる。
自分が伴侶の印を使った時のことが、
脳裏をよぎった。
実際、ただ襲われただけでは
発動していなかった。
「焼けて残っていないが、
おそらく毒の類だろう。
王族は守護魔法で守られてるから、
武器では傷つけられない」
「ミゲル殿下暗殺未遂の
証拠を掴むために、
イライザの周辺を洗えってことか?」
「僕はイライザと
隣国トロイアとの関係をみつける」
アスランの声は、終始穏やかだった。
「トロイア?
それ、
イライザが俺と旅行に行ったって
妄想した国じゃないか!
ん?
なんで兄さんが知ってるんだ?」
「お前に届いた手紙は、
僕がすべて目を通しているよ」
「は?
俺のプライバシーは!?」
カイルが思わず声を荒げると、
アスランの口元が、
ほんの少しだけ緩んだ。
燭台の炎が揺れ、
一瞬だけ、その表情を照らした。
そして、弟の手を取る。
カイルの左手には、
くっきりと伴侶の印が刻まれている。
一方、兄の手には――
かつてあったはずの印は、
もう存在しない。
「印の正確な使い方を教える」
「……兄さん、
どうしてそんなことを知ってるんだ?」
「公爵家は
何人もの聖女を庇護してきた。
跡継ぎは、
秘蔵の禁書――
聖女に関わるものも、
すべて読めるんだよ」
少し間を置いて、
アスランは続けた。
「お前より先に、
僕は聖女を知った。
……ずっと前から、
準備していたんだ」
「いつから……?」
「フェリが婚約した直後に、
父様から聞いた」
「……十年近くも前に?」
カイルの胸が、
ぎり、と締め付けられる。
「そんな前から準備してて……!
それで、フェリから去るのが、
兄さんの選択なのかよ!」
アスランは、
その問いには答えなかった。
「カイル。
フェリの心を、守ってくれ」
その言葉のあとに、
しばらく、沈黙が落ちた。
「なんだよ、
それ……
自分でやれよ!」
声が、震えた。
長い年月をかけて積み重ねてきた、
フェリへの愛
兄への愛――
そのすべてが、
今はただ、
カイルの胸の奥から溢れ出していた。
「兄さんのせいじゃないか!
俺じゃ代わりになんてなれない!
フェリの心は、
いつだって……
アスラン兄さんでいっぱいだ!」
「カイル、
僕じゃだめなんだよ」
アスランのその声は、
揺れず、
苦しそうでも、
悲しそうでもなかった。
ただ、影のように、
感情が削ぎ落とされていた。
「なんであんなに、
フェリを傷つけるんだよ!」
堪えきれず、
カイルは兄に掴みかかる。
「フェリは、ずっと迷って、
苦しんでる!
自分だけが伴侶じゃないのが、
そんなに気に入らないのか?
でも、
それはフェリが望んだことじゃない!
聖女だから……
聖女だから、
仕方なかったんだろ……!」
子供の頃のように、
カイルは兄の胸にしがみついた。
「……聖女だからだよ、カイル」
低く、昏い声が落ちる。
顔を上げた瞬間、
カイルは気づいた。
自分の方が、
兄よりも大きくなっていることに。




