73.それぞれの不安
婚礼は一日では終わらない。
祝宴、謁見、舞踏、儀礼――
数日にわたり続く
華やかな行事のあいだ、
各国の国賓たちは王宮に滞在する。
夜、主役が退席しても、
贅沢な祝宴はまだ続いていた。
そんな宴の賑わいからは遠い、
王宮の奥深くに
ミゲル私室はあった。
高い天井から落ちる灯りは柔らかく、
香木の匂いが薄く漂っている。
「フェリシア、
お願いがあるんだけどいいかな?」
目を合わせず話をきり出すのは、
ミゲルには珍しい。
「僕の――王子の妃として、
国賓を迎えてほしい」
彼はそう言って、
ためらうように一瞬言葉を切る。
「挨拶だけ。
形式的なものでいいから……」
そう続けた彼は、
まるで許しを請う子どものように、
椅子に座るわたしの膝に顔を埋めた。
「それくらい、いいわよ」
聖女としての職務ではない。
けれど、
王室の一員としては
ごく当たり前の役目だ。
わたしはそう思いながら、
彼の髪にそっと指を通した。
丹念に手入れされた、
柔らかな黄金色。
指先が沈み込むたび、
ミゲルは小さく甘やかな息をはく。
「ありがとう、フェリシア」
低く、甘えるような声。
「愛してるよ。
ずっと……僕の隣に
いてくれたらいいのに……」
ミゲルは、
人の心を溶かす術をよく知っている。
彼に関わった女性たちは、
別れたあとでさえ
彼に心を奪われたまま――
そんな噂を、
カイルから聞いたことがあった。
「今は、いっしょにいるわ」
わたしは静かに答える。
「そばにいる」
その言葉に、
ミゲルは応えなかった。
膝に額を押しつけたまま、
ほんのわずかに身体が震える。
夜のとばりの中
ただ、
わたしは彼の金色の髪を
撫で続けた。
⸻
わたしの髪は、
腰まで伸びている。
切りたいと思ったことは、
何度もあった。
けれど、
この白銀の長い髪は、
それだけで“神聖”に見えるのだと、
周囲は言う。
――聖女は、
そうあるべきだと。
わたしも、まだ若い娘だ。
どれほど豪奢であっても、
白一色の衣に包まれ続けるのには、
正直、飽きていた。
来賓への挨拶の時くらい、
王子の妃として、
普通のドレスを着てみたかった。
「濃い色は、
やはり好ましくありません」
そう言われ続けて、
ようやく許されたのが、
薄い水色のドレスだった。
鏡の中の自分は、
白よりは少しだけ
普通の女性らしく見えた。
「聖女様、これは好機です」
控えめな声で、
鏡の中のサシャが言う。
ドレスの色はサシャの瞳の色と、
どこか似ていた。
「異教の国イスファからの来賓は、
若い皇子だと聞いています」
――つまり、
そういうことだ。
「……全く知らない人に、
自分を売り込むなんて」
わたしは、
鏡から目を逸らした。
聖女の魅了の力が
無いとわかった今、
わたしは弱気だった。
サシャは、即座に否定した。
「どうして?
あなたは、十分に魅力的です」
柔らかな声。
サシャは慰めるのが上手い。
「現に、わたしたちは、
あなたに愛を捧げています」
その言葉に、心がざわつく。
「兄たちは……ずるだわ」
思わず、本音がこぼれた。
「家族からだもの。
ミゲルも……子供の頃からの
顔見知りだったし……」
ミゲルとは、
あちらから仕掛けた
ゲームのような恋から
始まったと思っていた。
それがずっと前から
愛されていたなんて、
本当だろうか……
やっぱり、
ミゲルは一言も言わない。
言葉を選びながら、続ける。
「あなたにだって、
どうして
こんなに愛してもらえるのか、
正直、よくわからないのよ」
サシャは、
少しだけ目を見開いた。
そして――
なぜか、泣きそうな笑顔を浮かべた。
「口づけても、いいですか?」
「いいけど……どうしたの?」
問いかけると、
サシャは少し息を吸って
「少しだけ、
不安になっただけです」
そう言って、
静かに顔を近づけてくる。
触れるほど近い距離で、
彼の声が、かすかに震えた。
「そう……少しだけ……」
わたしは静かにその口づけを受けた。




