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71.サシャの女神


この世界を創ったという、


全知全能の美しい女神。


王国だけでなく、

多くの国がその女神を信仰している。


――あの勇者の傍らにいた男。


白銀色の髪に、女神を思わせる青い瞳。


女神の血を濃く宿した、

美しい女神の末裔。

月の一族。


「……生き残りがいたなんて」


昼間の怒りで張りつめていた糸が緩んで、

空っぽだったはずの身体に、

じくじくと悔しさが残った。


夜になっても、

その感情は消えず、

泣き出してしまいそうだった。


「今日は、

神殿に泊まりますか?」


「ええ」

サシャの問いに、

わたしは少し考えてから答える。


「……サシャの

育った部屋が見たいわ」


地下の陽の当たらない

ギグの部屋を見た後から、

サシャは子供の頃

どんな生活をしていたのか、

ずっと気になっていた。


サシャは一瞬だけ言葉に詰まり、

それから静かに答えた。


「………今は、

聖女様の伴侶の部屋として扱われています。

一種の聖地ですね。

時おり、扉に向かって祈る者がいるほどです」


「聖地……」


ただ、

ひとりの男の子が暮らしていた

それだけの部屋なのに。


わたしはそう考えていた。

その部屋を訪れるのは

気分を変えるためだった。




大神殿の片隅に――


ひっそりとその部屋はあった。


普通の神官たちが使う部屋と違い、

浴槽や大きな鏡が置かれている。


はじめて会った時のサシャの、

隅々まで手入れされた、

人形のように美しい姿を思い出した。



ここで、

幼いサシャが眠っていた。


そう思った直後だった。


「房事の手ほどきも、

この部屋で行われました」


淡々と語るサシャ。


ひとりで使うには、

大きすぎるベッド。


そうだ、この部屋はそういう場所だ。


わたしは知っていたのに。

なのに無神経に

気まぐれに来てしまった。


神殿には、

ギグの暗殺技のように

『仕込まれる者』がいる。


わたしの知らない神殿の闇が、

確かに存在している。


サシャも、

ギグと同じ――


幼い子供になされた惨いおこないが、

はじめて、

現実としてわたしの心に

迫ってきた。


手のひらに爪が食い込んでいた。

動揺した時のわたしの癖だ。


サシャは、後ろから近づいて

強く握り締めたわたしの手に

優しく触れた。


「もう、昔のことです。

聖女様が気持ちを割くことでは

ありません」


サシャの吐息が耳にかかり、

その熱に導かれて顔を向ける。


かつて少年だったサシャを

下からのぞいた。


人形のように整っているけれど、

昔とは違う、少しだけ日焼けした顔。



「……子供の頃のサシャは、

わたしに恋をしていたの?」


サシャの頬が、

はっきりと赤く染まった。


「アスラン兄様が……」

そう。

その頃のサシャのことを聞いていた。


サシャは驚いたように水色の目を見開き、

それから視線を落とす。


「……昔、子供の頃です。

スタイルズ公爵様が、

良い子でいたご褒美だと言って、

あなたに会わせてくださると

約束した日がありました」


サシャは、

少し俯いたまま続けた。


「礼拝堂で、

ずっと待っていました。

胸を躍らせて。

けれど……

アスラン様があなたを連れて、

先に帰ってしまいました」


珍しく、

サシャの声に感情が滲む。


幼い悲しみと、

抑えきれない怒り。


「そんなことが何度もありました。

子供のわたしは、

アスラン様を憎みました」


「それはきっと、

アスラン兄様のヤキモチだわ」


そう言うと、

サシャは小さく息を吐いた。


「魔力を与えすぎると……

左手の『伴侶の印』が痛み出します。

そのことを、

私はアスラン様に教えませんでした」


それは、

わたしへの懺悔だった。


気づかずにアスランは、

わたしに過度に魔力を与え続けた。


そして、それを知った後も、

アスランは知らないふりをして

わざと衰弱していった。


サシャへの償いのつもりなのか、

逆に罰なのか……


――けれど


もうどうでもよかった。


アスランは、

去ってしまったのだから。


視線を上げると、

ベッドの枕元に、

目を閉じた

女神の肖像画が掛けてあった。


女神の象徴である

青い瞳を描かない肖像は、

珍しい。


「ここで、眠る前に女神に祈ったのね」


小さな子供がひとり跪き、

必死に祈る姿が、

目に浮かぶ。


孤独の中で、

ただひたすらに。


「……私は」

しばらく沈黙していたサシャが、

おもむろに語り出す。



「この部屋で、

女神に祈ったことは

一度もありません」



「え?」


サシャはひざまずき、

水色の瞳でわたしを見上げる。



「ここで、

いつも想うのは、

フェリシア、

あなたのことでした」



サシャの熱を持った視線……


それは聖女ではなく、

サシャの

わたしへの

告白だった。


わたしを想って跪く

幼い身体……


アスランの言葉が蘇る。


『彼の心は切ないほど伝わるのに、

フェリは全く気づかなかったね』



そう、

想いを抱えた彼は

いつもわたしのそばにいるのに――


わたしは、

かがんで幼いサシャに、

そっと口づけた。


「もう、こんな所で、

ひとりにはしないわ、

サシャ」


「今日は……

私には、

魔力はありません……」


サシャの唇が、

かすかに震える。



「魔力なんて、いらない。

ただ、愛しく思ったから――

それだけじゃ、だめ?」


答える代わりに、

わたしたちは

静かに抱き合った。



わたしが、


魔力を貰わずに

愛し合うのは

はじめてのことだった。




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