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70.ふぬけ


わたしは、テラスに出て、

欄干に手を添えた。


聖女の奇跡がしばらく

無いと知った人々でいっぱいだ。


大神殿広場を埋め尽くすほどの群衆が、

一斉にこちらを見上げた。


祈りの声と

熱気が、

空気を震わせ

息苦しい。


こんなにたくさんの人々を、

一度に治癒させるのは初めてだ。


わたしは、

厳かに両手を広げる。


目を閉じ、

胸の奥から湧き上がる

聖女の癒しの力を


解き放つ。


淡い光が、テラスから

波のように広場へ流れ落ちた。


光に触れた者から、

次々と変化が起こる。


曲がっていた背が伸び、

血に濡れていた包帯がほどけ、

青白かった顔に血の色が戻っていく。


「……治った……」


「痛みが、消えている……!」


ざわめきが、

やがて歓声へと変わった。


効果がゆきわたっている。


良かった。


わたしは、胸を撫で下ろし、

微笑んだ。


だけど

そんな満足感も


――束の間


「聖女様!」


「聖女様万歳!」


「奇跡だ!」


興奮した信徒たちが、

口々に叫ぶ。


奇跡を目の当たりにしたことで、

人々の興奮は、

祈りの域を越えていった。


理性は熱狂に飲み込まれ、


群衆は一つの生き物のように

前へと動き出した。


押し合い、

へし合い、

倒れた者の上に、

さらに人が重なる。


「近くで拝みたい!」


「触れれば、もっと癒されるはずだ!」


人の波は暴徒と化し、


神殿の壁に取り付き、


テラスへよじ登ろうとする者まで現れた。



急激な群衆の変化に、

わたしの足がすくむ。


「聖女様、危険です!」


サシャがすぐに

わたしの身体を支え、

後方へ引こうとする。


「でも……」


わたしは動揺した。


こんなつもりじゃなかった!


……なんとかしないと、


だけど、

どうしたらいいの?


「早く、こちらへ!」


グレンの隊が飛び出してきて

わたしの周りを囲んだ。


その瞬間――


ヒュン

ヒュン


空気を切り裂く

鋭い音が走った。


銀色の

魔力を纏った

二本の矢が、


閃光のように

群衆の頭上を

貫いた。


テラスから垂れ下がる王国旗を

支える二本のロープを

正確に射抜く。


次の瞬間、

巨大な王国旗が、

ゆっくりと

群衆の前に落下した。


突然、

視界を覆うように落ちた旗は、

群衆の行く先を遮った。


人々は、

思わず足を止める。


押し寄せていた波が、

そこで、

動きを鈍らせる。


広場に

静寂が落ちた。



わたしは息を呑み、

視線を走らせた。


矢を放った人を探して――


伝説の女神の伴侶、

トレース神像の方へ。


大型彫像の台座の上に、


弓を構えた

人影が立っていた。



灰色のマントが

風に揺れ、

その顔は深い影に隠れている。



「……まさか」


グレンが、

信じられないものを見るように呟いた。


「あの距離から、

ロープを……矢で?」



距離も、正確さも、

常人のものではない。


「あの矢、魔法をまとっていたわ」


サシャが無言で、

強くわたしの肩を引き寄せた。

彼の鼓動が耳に響く。


なぜか聖女の印が疼き、

言葉にならない予感が、

わたしの身体の中を

静かに波打った。


⸻


「さっきの暴動での怪我人は?」


広場のざわめきが、

まだ耳の奥で鳴っていた。


人々の叫び、

倒れた者のうめき、

血と埃の匂い。


わたしは落ち着かず、

無駄に豪奢な部屋の中を

イライラと歩き回っていた。


ここ、聖女の間は、

大神殿でわたしがあてがわれた部屋だ。


わたしはサシャを振り返った。


「重軽傷合わせて、四十人ほどかと」


淡々とした報告だったが、

サシャの声もわずかに硬い。


「わたしが、治療を……」


言いかけた瞬間、サシャは首を振った。


「いけません。

聖女様の魔力が、底をついてしまいます。

怪我人は神官たちで治療できます。

こんな時は、お任せください」


広場ではすでに神官たちが動いていた。


担架が運ばれ、

神官たちの治癒魔法が

次々と怪我人にかけられている。


――聖女の癒しの魔法のせいで、

怪我人が出るなんて。


わたしは肩を落とした。


足元の白い石床に、

心細げな自分の影が落ちている。


「……暴徒化するとは、

わたしも思いませんでした。

聖女様のせいではありません。

わたしの落ち度です。」


サシャが、

そっとわたしの手を握る。


その温もりで、

初めて気づいた。


震えている。


サシャの手ではなく、

わたしの手が。


「……矢を放った者に、会いたいわ」


「神聖な場所に

武器を持ち込んだ賊ですよ」


サシャが美しい眉をひそめる。


「でも、あの矢に助けられたの。

お願い……」


そう、

あの矢には魔法が乗っていた。


わたしの見間違いじゃなければ、

あれは――


しばらく迷ったあと、

サシャは小さく息を吐き、

扉の外にいる護衛に命じた。



ほどなくして――


足音と、金属の擦れる音が

近づく。



グレンに連れられ、

痩せた男が入ってきた。


両手は、

後ろ手に縛られている。


男を見て、

わたしは一瞬言葉を失った


埃にまみれた粗末な灰色のマント。


短く刈られた白銀の髪。


日焼けして荒れた肌と

無精髭。


――けれど。


深い泉の底のような、


澄み切った真っ青な瞳。


わたしと話をした、

女神の瞳に似ている……



「聖女様、近づかないでください」


ふらりと一歩踏み出したわたしを、

グレンが制する。


周囲では護衛騎士たちが剣を抜き、

男に向けている。



「聖女様のおかげで」

痩せた男がいきなり口を開いた。

「折れてた手首が治ったよ」


砂塵でかすれたような声だった。


男は剣先を気にする様子もなく、

縛られたまま、

にやにやと笑った。


その不遜な態度に、

グレンは男の腕を後ろに

捻り上げた。


「つっ……」


顔をしかめた男は、

そのまま地面に押さえつけられ、

わたしの前に跪かされた。


「あなたは……

だれ?」


「弓の腕を見ただろ?

俺は狩り人だ」


顔を上げ、

深い青い瞳で、

真っ直ぐにわたしを見る。



――この人、

どこかで見たことが……



「だれなの?

どうして、助けてくれたの?」


「あんたを助けたわけじゃない。

聖女にすがる連中を止めただけだ」


冷淡に聞こえる言葉。


グレンの男を抑える手に、

さらに力がこもる。


「あなた……」


かすれた声が、

男の喉からこぼれる。


「なんだ、

ただの、ふぬけか。

女神の手先の、

愚かな女。

ゴードンの言うとおりだ。」


――愚か。

女神の手先。


胸が、チクリと痛む。


以前、勇者に、

同じ言葉を投げつけられた。


そうだ。


青い目の、

この男――



勇者と邂逅した視察の時、


ふたつの騎馬が森へ消える直前、

わたしを振り返った、

あの視線。



「あなた、

勇者の傍らにいたわ!」


「気づくのが遅すぎだよ。

つまんねぇ……」


男は、鼻で笑った。


そして、

口の中で小さく、

なにかを唱えた。



ぐにゃり



と、

視界が歪む。


――この波動。


女神と、

同じ……!


白銀の髪、

泉の青の瞳……


「この人、

聖力があるわ!

女神の末裔――

月の一族よ!」


声を上げた瞬間、


視界が揺れ、


空間が溶ける。


わたしも、

サシャも、

グレンも、

護衛騎士たちも――


一斉に幻惑に囚われた。



たくさんの神官たちが

幾重にも呪文を重ねて、

ようやく完成する幻影魔法。


それを、

こんな短い呪文で――

この男は….



気づいた時には、

男の姿は、

忽然と消えていた。



――残されたのは、

揺れる空気と、


わたしの胸に残った、


灼けるような感覚だけ。



いつの間にか、

部屋の扉は開いている。


騎士たちが

遅れて飛び出していく。


「……追っても、無駄だわ」


大神殿は、

女神の眷属が築いた場所。


この空間そのものが

聖力を増幅し、

末裔の力を助長する。


「月の一族……でしたか……」


そばにいるサシャの呟きが、

遠くに聞こえる。



――女神の血を受け継ぐ

――月の一族


「荒んだ外見に、騙されたわ」


胸の奥から、

怒りが

込み上げてくる。


――遥か昔。


膨大な聖力を自在に操った

女神の眷属『月の一族』が、

この

アストリア王国を建国した。


混血が進み、

今では失われた一族。


「はじめて見ました……

まだ、どこかにいたんですね」


サシャは祈るように

胸の女神のペンダントに触れた。


「……勇者は、

あの人から聖力をもらって、

魔剣を使っていたのね」


口にした瞬間、

理解が繋がる。


だから、

勇者は――

聖女を罵倒できた。


背中に、

ぞわりと寒気が走った。


「……でも、

あの人の聖力だけじゃ、

暗黒竜は倒せないじゃないの」


「そのために、

聖女様が遣わされたのですから、

当然です」


サシャがなだめるように、

わたしが握りしめていた拳に触れる。


勇者は、

ひとつの竜脈を封じるだけで、

あれほど苦戦していた。



暗黒竜と戦うには、

到底及ばない。



多くの聖力を、

バッテリーのように貯められるのは

聖女だけだ。


――あの痩せた男は

膨大な聖力を持っていても、


ただ、

垂れ流すだけのくせに。



それなのに、

勇者はわたしを拒んだ。


女神が元凶だ。

お前は、

『愚かな女』『女神の手先』だと、

吐き捨てて。



わたしの中で、

怒りがはっきりと形を持つ。


――ふざけないで。


わたしは、

逃げなかった。


聖女であることから。


アスラン兄様を、

諦めた。


心を、

引き裂いて。


それでも、

聖女でいることを選んだ。



――その意味を


――その重さを



勇者に、

否定される筋合いなんて、

ない。


女神が仕組んだのなら、

なおさらだ。



この世界は、

女神のゲーム盤の上。


聖女は、

勇者にとって不可欠な切り札。



「……逃げても、必ず探し出すわ」


自分の声が、

怖いほど静かだった。


――絶対に。


聖力をためて、

勇者の前に立ってやる!


わたしは、

心の中で何度も、

そう唱えた。


アスランとともに

失われていた光が

瞳に戻ったのも

気づかずに――




**勇者とトレース


焚き火の赤が、

荒野の闇をかろうじて押し返していた。


少し早く来た秋の

乾いた風が草を騒がせ、

夜の冷えが

じわりと肌に染みる。


「トレース、遅かったな」


赤毛の男ゴードンが、

焚き火のそばから声をかける。


その視線の先、

闇を割るように

一頭の馬が姿を現した。


「ああ、聖女に会ってきた」


トレースは気の抜けた調子で答え、

馬を止めると軽やかに地面へ降りた。


焚き火のそばまで来ると、

冷えた手をかざしながら腰を下ろす。


手綱を受け取るゴードン。


「わざわざご苦労だな……

この馬はどうした?」


「かっぱらって、逃げてきた」


悪びれもなく言うトレースに、

ゴードンは思わず笑みをもらす。


「相変わらず手癖が悪いな」


「骨折が治って、馬を手に入れて、

聖女サマサマだ!」


馬の首筋を撫でるゴードンは、

装具に目をやり表情を変えた。


「おい、これ騎士団の馬じゃないか!

すぐ足がつくぞ……」


「ははっ」


トレースは笑って肩をすくめ、

焚き火で炙っていた串刺しの鳥肉を

ひったくるように取る。


油の垂れる肉にかぶりつき、

無遠慮に咀嚼するその横顔は、

愉快そうだった。


ゴードンが馬具に気を取られている隙に、

トレースは足元に無造作に置かれた魔剣へ、

視線だけを落とす。


唇だけをわずかに動かし、

誰にも聞こえない声で

魔剣に向かって呟いた。


「目の前の答えに気づかないなんて……

あの聖女は、

やっぱり駄目だな。

もうこの世界は、

諦めた方がいいかもしれない」


焚き火の赤を映す

鞘がかすかに揺れ、


魔剣は、

不満げに――


ほんの少しだけ、震えた。




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