68.壊れたフェリシア
わたしが星を探しに湖へ入った、その翌日。
部屋のテラスへ続く大きな窓は、
サシャの判断で釘打ちされ、二度と開かなくなった。
夜風も、月明かりも、
湖の匂いも、もうここには届かない。
それと同時に、
ミゲルが窓から忍び込んでくることも、
完全になくなった。
アスランは、数日後には、
わたしに、言った通り、
領地戦の待つ公爵領へ行ってしまった。
もう、帰ってこないのだろう。
少なくともわたしのところへは。
グレンはすぐに後を追って、
アスランの補佐についてくれている。
不思議なことに、
涙は出なくて、
毎日が、
ただただ苦しかった。
自分がここに居ないような、
不思議な感覚になった。
心はずっと悲鳴をあげているのに、
普段通りに振る舞える自分を、
ちょっと離れたところから傍観しているようだった。
神殿では、
聖女の奇跡を施し、熱狂的な歓声を浴びる。
王宮では、
婚礼の準備の打ち合わせを重ねる。
王宮でのミゲルは、完璧な王子だった。
人を惹きつける明るい笑顔、
非の打ちどころのない立ち居振る舞い。
わたしを丁寧にエスコートし、
些細な悪意さえ寄せつけない。
まるで、誰にも触れさせないように。
公爵への毒殺未遂。
侯爵令嬢の黒焦げの遺体。
そうした不穏な噂は、
華やかな結婚式準備の喧騒に紛れ、
いつの間にか曖昧になっていった。
夜は、
ミゲルとイスファ語で会話をした。
冗談を言い合い、
異国のスラングを教わる。
笑っていても、
眠る時には、
彼は一瞬たりともわたしを離さない。
「そばにいるわ」
そう囁くと、
ミゲルはようやく安心したように、
腕の力を緩める。
置き去りにしない。
誓いは、破らないからと、
何度も言い聞かせる。
サシャからは、
神殿で仕込まれたという、
房事の手ほどきを受けた。
わたし達は、
二人で楽しむ方法を覚えた。
義父の体調は、
少しずつ回復しているらしい。
それでも、完全な回復は難しいようだ。
「兄貴も、
気持ちが落ち着いたら戻ってくるよ」
カイルはそう言った。
気休めだ。
アスラン兄様が、
一度決めたことを変えない人だと、
わたしたち兄妹は、
誰よりもよく知っている。
「フェリ、人形みたいな顔してる」
カイルの手は、いつも優しい。
「人形みたいに綺麗なのはサシャだわ」
「サシャは最近、
人間になったけどな。
フェリは……まるで、
ここにいないみたいだ」
冗談めかした声に、曇りが混じる。
「ふふ。御伽噺の精霊みたいって
ことにしておくね」
わたしは痩せた指で、
カイルの伴侶の印にそっと触れた。
わたしが湖に沈んだことは、
カイルには伝えていない。
心配させたくなかったからだ。
口には出さなくても、
ミゲルも、サシャも、ギグも、
食べられず、
眠れなくなったわたしを見て、
何も言わずに気遣っている。
わたしは失敗したくない。
聖女であることを、
選んだから。
絶対に、
魔力の多い者を伴侶にする。
それが、わたしの役目だ。
それなのに――
眠ると、
夢を見る。
アスランと一緒に見た、
エメラルドグリーンの海。
息が詰まり、苦しくなる。
振り返らない背中。
お願い、もう一度だけ。
せめて、振り向いて――
はっ、
と息が途切れる。
喉が詰まり、
呼吸ができない。
ベッドから落ちるように
床へ膝をつき、
声にならない嗚咽が、
喉から漏れる。
「来ないで……」
気配を感じて、
振り向かずに命じた。
ギグにも、
そばに来てほしくなかった。
今、欲しいのは――
アスランだけ。
暗い部屋の中で、
わたしの中のフェリシアが
音もなく砕けていく。
鏡に映る顔は、
血の気がなく、
別人のようだ。
大丈夫。
わたしは、大丈夫。
呪文のように、
何度も繰り返す。
やっぱり涙は出なかった。




