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67.湖中の星


部屋の外には、

カイルが立っていた。


長い廊下の窓越しに、

雨が激しく打ちつけるのが見える。


窓を叩く音が、まるで苛立ちをぶつけるように響いていた。


「フェリ…どうだった?」


「説得できなかったわ」

わたしは平坦に答えた。


「クソ兄貴め!」


拳を握りしめたまま、吐き捨てるように言ったカイルが、ふと顔を上げる。


「……フェリ?」


わたしは、

身体のどこも温かいところがなかった。


「グレンにアスラン兄様の側近につくようお願いするわ」

声は、自分でも驚くほど静かだった。


「フェリ…大丈夫か?

俺はこれから、兄貴と話すつもりだけど……天候が崩れて、道が悪い。

公爵家に泊まっていけよ」


「ううん、帰るわ」

身体に大きな穴が空いていた。


でも、それを悟られたくない。


「じゃあ俺も一緒に……」


「護衛がいるから大丈夫。

ギグ、来て」


呼びかけると、足元の影がゆらりと揺れ、

黒い靄のような輪郭からギグが姿を現した。


突然現れたギグに、

カイルはぎょっとして、怯んだ。


「あっ、ギグ。

じゃあ、フェリを頼んだ」


目を瞬かせてから、苦笑する。


心配そうに見送るカイルを置いて、

馬車に乗る。



馬車の中は、革張りの座席に湿った空気がこもっている。


雨に打たれた屋根が、

一定のリズムで低く鳴り続けていた。


ギグと二人きりで馬車に乗るのは、

初めてだった。


「カイル様にわたしのことを

知られても、よかったんですか?」


「わたしが自らギグを

神殿から別荘に連れてきたから、

ヤキモチ焼いてたくらいだもの。

灰色の村で闇魔法のことは知っているし……」


「カイルは逆に安心したんじゃないかしら?」


そう言いながら、

わたしは身体を横にして、

ギグの膝にそっと頭を預けた。


硬いはずの膝は、不思議と温かだった。


影を通してすべてを見てきたギグは、

他人というより、

わたしの一部だ。


守られる時に、

抱えられたりすることはあっても、

意思を持って手以外で

ギグと触れ合ったのは、

はじめてかもしれない。


微かな感情揺れが、

ギグの漏れ出た闇魔法にのって

わたしに伝わってくる。


こんな風に、あなたの心を知れたのね。


ギグまで、

傷つかなくてもいいのに……


わたしは目を閉じた。


激しい雨が屋根を叩き、

ぬかるんだ道を進むたびに

馬車は大きく揺れる。


そんな中、

わたしはギグの膝で眠りながら帰った。


別荘に着く前に、

ギグは影の中へ溶けるように、

自分の部屋の座標に

帰って行った。


そして、わたしの馬車を、

別荘の門前でサシャと並んで待っていた。



郊外にある別荘は、

王都とは天候が違って、

雨雲はすでに去っていた。


空には

雲ひとつない。


月のない夜だ。


アスランを、

説得できなかったことだけを伝え、

グレンに領地戦への同行を頼み、

淡々と夕食を済ませ、

部屋に戻る。


今日は、カイルの日だった。


聖女が夜を共にする予定の日。


カイルは公爵家に泊まる。


だから、

今夜は、

ひとりで眠れる。


 

窓辺に立ち、

何も考えずに外を眺める。


やがて、


そっと窓を開け、

テラスへ出た。


晩夏の空気が、

肌にひんやりと触れる。


そのまま、

湖へ向かう。


風のない夜。


湖面は

鏡のように静まり返り、


月のない空の

無数の星を映していた。



空にあるはずの星が、

水の中に落ちている。


 

旅人の星は、

どこだろう?



わたしは空を見上げず、

湖面に映る星を探した。


昔、

アスラン兄様が教えてくれた。


動かない、旅人の星。



わたしは部屋ばきを脱ぎ、


水に足をつける。


冷たい。


それでも、


一歩、


また一歩と――


水の中を、


目指す場所へ向かって歩いた。



急に、


深くなり


落ちるように


足が届かなくなり、


身体がそのまま沈み込む。


 

闇と静寂。


音も、

光も、

遠のいていく。


ここに、

星なんて無かった。


 


――暗闇の奥から、


小さなカイルが

駆けてくる。


「子豚!


お前の大好きな兄貴が

婚約するってさ!


残念だったな!」



「えっ!」


「アスラン、兄様がっ……」


口を開けたまま、

涙がぽろぽろと落ちる。


「うそっ! うそだわ!」


必死に、


アスランがいそうな場所を


探して走る。


見つからない。


地べたにうずくまり、

大声で泣いた。


「わぁぁん、

わぁぁぁん、

やだぁ、やだよぉ」


苦しくて、悲しくて、

心のままに

泣きわめいた。



「王子の婚約者が、

そんな風に泣くんじゃないよ……」


 

顔を上げると、

驚くほど近くに、


アスランの顔があった。


「うぇぇ。

アスラン兄様が

婚約するって、

ひっく、

カイルが……」


「僕は、

誰とも婚約しないよ」


エメラルドグリーンの瞳が、

じっと、

わたしを覗き込む。


「フェリは愚かだな。

いつものカイルの意地悪だよ」


「ほんと?」


「ああ、僕は誰とも

婚約したりしない」


「約束するよ」


「ほんとうね……」


「ああ、

ほんとうだよ、フェリ」


 

――約束は、


本当だった。


アスランは婚約せずに、


わたしの最初の夫になったのだから。


 

ずっと――


手に入らないと思っていたアスラン。


痛みは、消えない。


身体中が、

鼓動が、

呼吸が、

全てが、

痛くて――


苦しくて。


アスランの愛を

失ったことが、

ただ、

苦しくて。


 

沈み込んでいく。


苦しい。


だから、



もっと深くに……


――


「死ぬ気なのかっ!」


目を開けると、


荒く息をする、

ずぶ濡れのミゲルに

抱えられて

水際にいた。



「聖女は死なないわ……

知ってるでしょ」


わたしの心を、

誰よりもわかっているギグは、

来ていない。


それはわたしに、

危険がないから。


「夏の夜の湖で泳いでも、

死んだりしない」


「君はほとんど、

泳げないじゃないか……」


ミゲルの震える指が、


わたしの頬に張り付いた髪を

優しくすく。


「少し潜っただけ」


「だからって……

深いところまで

入っていくのは……

やめてくれ。


……お願いだから」


ミゲルは、苦しげに

濡れたまつ毛を伏せた。



「湖の中に星を見たのよ。


空だと届かないけど……


捕まえられると思ったの」



わたしはすんなりと

立ち上がった。


聖女の回復力で、

よろめきすらしない。


昏い湖を見た。


足元の砂を

穏やかな波がさらっていく。


あそこにはなにも無かった。



思い出以外は。



「僕がっ、

アスランの代わりに……

ならないのもわかってる。


だけど……うっ、

ぐっ……

おねがいだから、


やめて……」


びしょ濡れで、

わたしの足にすがりついて、

嗚咽を漏らす

ミゲルを見下ろす。



「王子が、

そんな風に泣かないで……」


ミゲルの背中に手を伸ばす。


わたしは、

身体も心も冷え切っていて――



泣き止まない彼を、

どんなに抱きしめても、


温めることはできなかった。



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