66. 答え合わせ
分かり合えないのも恋
前に、
ミゲルが歌うように言っていた。
そんな、
少女の恋を、
わたしはずっとしていた。
⸻
アスランの部屋は、
いつもと変わらないように見えた。
整然と並んだ本。
装飾がほとんどない家具。
子供の頃から、
何度も訪れた部屋。
なのに――
今日は、
ひどく遠く感じた。
雨が窓を濡らす。
よく見ると、
本棚の一角が空いている。
机の上にも、
いつも置かれていたものがない。
アスランは、
旅支度の最中だった。
それだけで、
身体がどんどん冷たくなってゆく。
アスランは一瞬だけ、
こちらを見る。
けれど、
すぐに視線は荷物へと戻された。
開かれた鞄の中には、
アスランの愛読書が数冊と、
それに、
見覚えのある褪せた紫のリボン。
――わたしが子供の頃に
していたリボン。
アスランが、
まだ、持っていてくれた。
その事実に、
心が揺れる。
思わず駆け寄ろうとした
その時――
「結婚式には僕は出ないよ」
落ち着いた穏やかな声に、
わたしは動けなくなった。
「フェリが他の男と、
祝福される姿を見る必要はないからね」
アスランは本を一冊、
鞄の中におさめる。
責められているわけじゃない。
ただ、
当たり前のことを言われただけなのに、
唇がわなわなと震える。
「式には、
たくさんの人が集まるわ……
異国の人は大きな魔力を持ってるから」
自分でも、
なぜそんなことを言っているのか、
よく分からない。
言葉にした瞬間、
どこかで、警鐘が鳴った。
――言っちゃいけない。
これは、
アスランに言う言葉じゃない。
だめだ。
頭の奥で、
うるさいほど大きく
警鐘が鳴り響く。
――危険、だと。
それでも、
言ってしまった。
「聖力を貯めるために必要なの。
新しい伴侶が」
アスランは顔をあげない。
けれど、手が止まった。
わたしは、
酔ったように
ぼうっとしたまま、
言葉を重ねる。
「領地戦は、ミゲル王子が、
援軍をすぐに出してくれるわ。
指揮官にはグレンを派遣すれば、
すぐに鎮圧できるから……
……だからアスラン兄様は、
そんな危険な所に
行かなくていいのよ」
――これでいい。
そうだ、
これで説得できる。
ミゲルが用意したカードで……
「軍か……」
ぽつりと呟いて、
アスランがようやく顔をあげた。
「やっぱり、
ミゲル殿下はフェリに甘いね」
その声で、
空気が変わる。
エメラルドグリーンの瞳が、
静かにわたしを見つめていた。
「僕は知ってたよ。
ずっと前から……」
アスランの指が、
鞄の縁をなぞる。
「ミゲル殿下が、
王宮でこっそり
フェリを庇ってたこと」
――どうして、
今、その話を?
わたしは、
アスランが行かなくていい
理由を、
話しているだけなのに。
「ずっと前から……
マーカス殿下がフェリを気に入らないなら、
フェリを自分の婚約者にして欲しいって、
何度も、ミゲル殿下が、
陛下に願い出ていたことも……」
「そんなこと……
知らない」
胸の奥が、
ざらりと削られる。
ミゲルが、
わたしをそんな風に見ていたなんて。
だって、
彼は――
過去のことを、
一言も、
口にしない。
「フェリは愚かだね……」
アスランは悲しげに目を細めた。
「認知する世界はあまりにも狭くて、
人の心を知るすべを持たない」
否定できなかった。
わたしは、
人の心を推し量ることなんて、
できない。
ずっと、
マーカス王子の婚約者として、
守られた籠の中で生きてきたから。
「僕は、何年も前から、
サシャを知っていた」
公爵家と神殿は親密だ。
アスランの視線が、
遠い記憶を探すように揺れる。
「サシャは、
公爵令嬢のフェリシアに恋をしてたよ」
少しだけ、
アスランの口元に苦い笑みが浮かぶ。
「人形のようなサシャの、
あの熱を持った視線だけで、
彼の心は切ないほど伝わるのに、
フェリは全く気づかなかったね」
神殿へ行くのは、
年に数度。
祈って、
帰るだけ。
――そんなわたしが、
気づけるはずない。
いったい、
アスランは
なんの話をしているの……?
震えが止まらない。
「みんな、
フェリを愛してた。
フェリが聖女になる
ずっと前から」
その言葉は、
わたしの心の記憶の扉を叩く。
「だから、
僕はグレンが伴侶になっても、
おかしくないって考えてた。
彼もフェリを愛してたから」
「そんなはずない……」
強く否定する声が掠れた。
「全て、聖女の力のせいよ。
みんな自分の気持ちに関係なく、
わたしに惹かれてしまった」
伴侶の印の出るタイミング、
ずっと、
違和感はあった。
だけど……
アスランは立ち上がり、
一歩、
こちらへ近づく。
わたしの手を、そっと取った。
大きな手が、
震える指を包み込む。
「フェリは……
聖女が愛せば相手も愛するようになるって……
そんな都合のいい力を、
本気で信じてた?」
――だって、
サシャが、
そう言った。
「フェリは、
ミゲル殿下を愛してた?
カイルのことは?
兄以上に思ってた?」
たしかに、
ちがう……
だけど……
「みんな、
フェリを好きだったからだよ」
アスランの親指が、
わたしの手の甲をゆっくり撫でる。
「フェリはその愛情に
応えただけだ」
動揺するわたしに、
アスランは、
伴侶の刻印を見せる。
今まで何度も触れた印なのに、
なぜか今日は、
よそよそしい。
「聖女が愛したからじゃない。
この印は、
男達のフェリへの愛の証」
優しげなアルトの声が、
ひとつひとつ、
わたしの中の何かを壊していく。
「聖女のお披露目の日、
僕はすぐに気づいたよ。
伴侶の印はフェリが決めたから、
刻まれた」
――サシャが言った。
だから、信じた。
あぁ、
五百年も前の文献。
わたしはそれを鵜呑みにしていた……
間違い
だったなんて。
そう、
最初からおかしかった。
わたしには
聖女の魅了の魔法が、
見えなかった。
ほかの魔法は
全て見えるのに
それだけは
見えなかった……
「フェリは愚かだね」
アスランの声が、
少しだけ震えた。
「こんなに、
僕に愛されていることを
信じないなんて」
昔から変わらない、
謎めいたエメラルドグリーンの瞳を、
わたしは見つめた。
この瞳にこめられた意味を、
わたしは、
気づかずにいたの?
「アスラン兄様は、
わたしが聖女だって、
ずっと前から知ってて、
だから……
わたしを愛してくれて」
そう思って、
聖女になった辛さより、
アスランを手にいれた喜びが大きかった。
「父が再婚して、
僕たち兄弟は、
初めて会ったときから、
愛くるしい妹に夢中になった」
アスランが、
ほんの少し笑う。
けれど、
その笑みはすぐに消えた。
「カイルと競うように、
ずっとずっと、
フェリを、
愛してきた」
カイルも、
同じようなことを言っていた。
それなのに、
わたしは――
「そこに、
聖女なんて関係ある?」
繋がれた手が持ち上げられ、
その甲に、口づけが落ちる。
「聖女だから、
愛してくれてたんじゃないの?」
触れた唇が、
あまりにも優しくて、
愛おしさが溢れてくる。
「フェリが聖女じゃなかったら、
マーカス王子と婚約しても、
結婚しても、僕が奪って逃げてた。
フェリだけを愛してきたんだ。
聖女なんて、
これっぽっちも愛していない」
胸が、痛いほど熱くなる。
「だけど、わたしは聖女だわ。
生まれた時から決められた……」
「本当にそう?
僕と最初の夜を過ごした時は?
聖女が僕と愛し合ったのかい?」
「違う!」
あの夜、
わたしの心は、
まだ、ただのフェリだった。
「僕はフェリと結ばれたのが嬉しかった。
これからも、あれは一番幸せな時だ」
「わたしも、
わたしも、そうだわ……」
あの記憶は、
誰にも奪えない。
わたしの宝物だ。
「聖女じゃないフェリは、
ほかの男を愛する?」
降臨祭前のわたしなら、
アスラン以外との口づけさえ、
考えなかった。
「異国の人はフェリの知らない人だよね。
魔力のために伴侶を決めるの?」
わたしは――
言葉が出ない。
「フェリは少しずつ、
聖女になっていったんだよ」
『愛があるところは、汚れない』
ミゲルが言った言葉。
だけど、
フェリなら他の愛を受け入れない。
きっと、
アスラン以外を受け入れない。
わたしの世界が軋む音がした。
アスランが、
わたしを痛いほど
抱きしめる。
「僕は、父の代理として北に行く。
領地戦の指揮をとるよ。
そして、王都には戻らない」
戻らない――?
「いやっ!
そんなこと言わないで!」
「フェリは、
聖女なんて、
全部無しにして、
僕と来たらいい。
追われたら、
逃げればいいんだよ。
二人でいられる場所へ」
わたしを抱きしめる腕が、
吐息が熱い。
「捕まったら兄様は殺される……」
「だから、なに?」
アスランの言葉が
わたしの耳元に落ちる。
「僕達がどこまでも逃げて、
世界が滅んでも、
僕は全然構わないんだ。
どうせ、
世界中の人が消えるんだから。
僕の死なんて瑣末なことだよ」
こんな、こんな……
残酷なことを――
わたしに選ばせる。
まるで、
女神と話しているようだ。
あぁ、そうだ。
わたしの神は、
いつだって、
アスランだった。
「フェリと一緒にいること、
それだけが僕の望みだから」
そう、
フェリなら迷わずに
アスランの手を取った。
アスランが、
逃げようって言ってくれたら、
逃げきれなくて捕まっても、
殺されても、
世界が滅びても、
アスランさえいれば、
わたしの世界は、
幸せだから。
だけど、
もう、
違う……
わたしの世界がゆっくりと、
崩壊してゆく……
「わたしは……
行けないわ」
アスランの手を取れない……
抱きしめるアスランの腕が、
ほどけた。
「フェリが婚約解消された日、
一緒に逃げようって言いかけた。」
アスランは苦しげに笑った。
「あれが、
最後のチャンスだったのかもしれないな」
そう、
あの時なら、
理由なんていらない。
なにも聞かずに黙って
ついて行っていた。
時間を
巻き戻せたら――
婚約解消に怒って泣いてた
世界のことなんて
どうでも良かったあの頃に。
アスラン兄様が、
わたしを愛してくれてるって
あの時知っていたら――
「やっぱり、
僕のフェリは、
どこにもいないんだね」
「わたしは、
この世界を、
見捨てられない……」
わたしの世界が壊れても、
この世界に生きる人の命を、
見捨てられない。
アスランの手が、
わたしから
離れた。
わたしの指先は、
空を掴む。
「僕だけは許さない」
一歩、
後ろへ下がった。
「フェリを奪った、
聖女なんてものは
愛さない」
冷たい言葉を放つ
アスランは
ただ、
ただ、
苦しそうで――
「世界中が
聖女を欲しても、
僕だけは絶対に、
受け入れられないんだ」
わたしから遠ざかる。
アスランの手が、
光を放つ。
伴侶の印が、
光の粒になって
ほどけていく。
消えないはずの
伴侶の証が、
アスランから、
消えていく。
「だめ!」
思わず手を伸ばす。
「せめて印だけでも……」
光の粒をかき集めた。
伴侶の印の力は、
戦場で、
アスランの身を守る助けになる。
「消えないで!
お願い……
お願い……」
光の粒は、
わたしの手をすり抜けていく。
「僕が愛したのは、
フェリだけだ」
アスランの声が遠く聞こえる。
「フェリは消えてしまった。
僕はもう、どこにも、
フェリを見つけることは
できないんだ」
背を向けた。
アスランは振り向かない。
愛を秘めた緑の瞳は、
わたしを見ない。
アスランとわたしは――
断崖のこちらと
向こうに立っていた。
ほんの少し前まで、
手を伸ばせば
届くところにいたのに……
その奈落に
いっしょに落ちていけるほど、
わたし達はもう、
無垢じゃなかった。
だから、
伴侶の印と共に、
ふたりの拙い愛が消えていくのを、
わたしは、なす術もなく、
ただ、
見つめるしかなかった。




