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63.兄弟との記憶


あれは、

まだマーカス王子と婚約する前。

だから、十歳よりもずっと昔のことだ。


わたしは、祖母に叱責されていた。


あの頃は母方の祖母が、

公爵家に居候していた。


「お前が生まれたせいで、あんたの母親はまともに結婚もできなかった。

公爵様に助けてもらうまで、

わたしがどんなに苦労したと思ってるの?」


終わりの見えない言葉の刃。

低く、鋭く、逃げ場のない声。


うつむいた視界の先で、

青い絨毯が滲む。


ぽた、ぽた、と落ちた涙が、

深い色に吸い込まれていった。


周囲に人はいない。


祖母は、いつもそうだった。


人目のない時間と場所を選び、

自室にわたしを連れ込み、

叱る。



――逃げられない

と思った、その時。


ノックの音。


返事を待たず、扉が開いた。


「フェリシア。

お父様が呼んでいる」


入ってきたのは、

アスラン兄様だった。


祖母は驚いたように目を見開き、

言葉を失う。


「ごきげんよう、カッツ婦人」


アスランは、膝を降り

完璧な貴族の挨拶をしてから、

何も言わず、

わたしの手を取った。


少しだけ強く引かれ、

わたしはそのまま部屋の外へ

連れ出される。


扉が閉まる音と同時に、

涙が、不思議と引っ込んだ。


――アスラン兄様の手。


それだけで、

心がじんわり温かくなる。


手を引かれ長い廊下を、

二人きりで歩く。


足音だけが、静かに響く。


だけど、

わたしの身体は、

鼓動が激しくなって

爆発しそうだった。


南廊下の突き当たり。

大きな窓から光が差し込む、

図書室。


窓際のソファに、

わたしを座らせる。


そこは、アスランがよく

本を読んでいる場所だった。


「ここで、心を落ち着かせて」


そう言って、ハンカチで、

涙に濡れた頬をそっと拭われる。


何か言いたいのに、

声が出ない。


代わりに、しゃっくりだけが

漏れる。


ひっ。


アスランの唇に、ほんの少しだけ白い歯が見えた。


「……仕方がないな」


軽く抱き寄せられ、

子どもをあやすみたいに、

背中を

ぽん、

ぽん、

と叩かれる。


しゃっくりが止まると、

もう一度、

エメラルドグリーンの瞳が

わたしを見た。


何も言わず、

アスランは、

そのまま立ち去った。


――もう、

戻ってこないのかな。


少し、がっかりした。

その時。


ばたばたと、

騒がしい足音が近づいてくる。


カイルが、息を切らして駆けてきた。

額には、はっきりと汗が光っている。


「泣いたのか、子豚。

カッツ夫人に捕まってたな?

相変わらず鈍臭い」


乱暴な声。

でも、距離は近い。


「次からは、ちゃんと逃げろ」


「……うん」


わたしはうつむいて、

手の中のハンカチを、

ぎゅっと握りしめる。


「兄貴のハンカチか」


カイルがぼそりと呟く。


「やっぱ、見つけるの早いなぁ」


わたしは顔をあげる。


「俺たちの部屋まで、

フェリを探して、

侍女が来たんだ」


カイルは、わたしの隣に、

ぽすんと腰を下ろす。


「兄貴さ、

お前がいなくなったって聞いた途端、

家庭教師が止めるのも聞かずに、

すぐ飛び出してった」


そう言って、

突然、鼻をつままれる。


驚いて目を閉じた瞬間、

頬に、軽く

カイルの唇が触れた。


「次は俺の方が、先に見つけるからな」

真ん中に赤が滲む明るい緑の瞳。



アスランとカイル。


どちらも、

わたしの世界だった。


考えられなかった。


それが欠けるなんて……




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