62.情事の痕
アスランに抱き上げられたまま、
彼の部屋へと運ばれる。
廊下の天井は高く、
夜でも冷たい。
燭台の炎が揺れるたび、
壁の影が長く伸びて、
わたしの視界をかすめていく。
――夢じゃない。
この腕、
この呼吸。
本物のアスランだ。
扉が閉まる音がして、
わたしは堪えきれずに、
彼に縋った。
嬉しくて、
怖くて、
確かめたくて。
何度も、唇を重ねる。
痩せた頬。
以前より骨ばった背中。
触れるたび、愛しさと不安が
染みのように広がっていく。
それでも――
アスランが、ここにいる。
それだけで、
全部が報われる気がしていた。
ふと。
わたしの襟元に触れていた
アスランの指が止まる。
ほんの一瞬。
呼吸が変わったのが、
わかった。
「フェリ……
馬車の中でカイルと?」
わたしは凍ついた。
アスランに、
情事の跡を見つけられた……
「魔力が……なくて」
声が、思ったより小さかった。
「癒しを使ったあとで……
急いで、
カイル兄様からもらったの」
カイルも夫だ。
言い訳する必要なんて
ないはずだ――
それでも、言葉を選んだ。
アスランは、何も言わない。
ただ、わたしの衣を、
丁寧に整え始める。
乱れた襟。
ずれた紐。
皺になった裾。
まるで、幼い頃、
夜更かしして眠ってしまったわたしを叱りもせず、
寝かしつけてくれた時みたいに。
触れ方は優しい。
なのに、その優しさは、
遠い。
エメラルドグリーンの瞳は、
何も写していない。
落胆でも、責めるでもなくて、
ただ、穏やかだ。
「飲み物を持ってくるよ」
少し間を置いて。
「馬車も、用意しておく」
アスランはそれだけ言って、
わたしの方を見ずに、
部屋を出た。
扉が閉まる音が、
やけに響いた。
身体が、
じわじわと熱を失っていく。
恥ずかしかった。
聖女になってから――
こんな、
こんな、
気持ちになるなんて。
急いで、部屋を出る。
「……帰ります」
口に出した言葉は、
うつろに響いた。
「聖女様、馬車はまだ……」
使用人たちの声を振り切って、
厩舎へ向かう。
「馬を使うわ。
まだ……わたしの馬よね?」
厩舎番の答えを待たず、
鞍に跨る。
馬を走らせると、
風が涙を攫っていった。
見えない場所に、
きっと護衛がついてきている。
でも、
今は、それすら煩わしかった。
――馬が足を止めた。
さすがに別荘までは遠い。
泣きながら帰るなんて、
聖女がすることじゃない。
やがて、
馬車が迎えに来た。
先導するのは、
グレンだった。
「今日は、
大人しく馬車に乗るわ」
「そうしていただけたら……
安心です」
それだけ言って、
グレンは何も聞かない。
いつも、少しの優しさを
見せるだけ。
「前は、あなたの馬を借りたけど……
今日は、わたしの馬を預けるわ」
彼の手は大きく、迷いがない。
その確かさに、少しだけ、救われる。
馬車のシートに身を横たえた瞬間、力が抜けた。
疲れた……
今日は、二度も聖女の奇跡を起こした。
神殿で。
そして、公爵家で。
わたしの心は、
聖女だったり、フェリだったり、
忙しく行き来している。
壊れそうな一日だった。
アスランに、
あんなふうに、
静かに距離を置かれて――
別荘に着く頃には、
涙は乾いていた。
陽は落ちかけ、
空は、
勇者の髪のように、
濃い赤に染まっていた。
――――
あとがき
ここまで読んで頂きありがとうございます!
あらすじや、人物紹介も少なめで、
わかりにくい中読んでくださる方に本当に感謝です。
おりをみて、あらすじとかもう少し足していきます。
ちょっと辛い展開が続いてますが、
ここから、『答え合わせ」の章が、王国編で一番描きたかったところなので、
伴侶それぞれの想いが伝わればいいなと願いつつ。
リアクション、本当に本当にモチベになります。
少しでも、なにか心に残るものがあれば、うれしく思います。
次回更新は金曜日
少しお待ちくださいね。




