51.混乱と愛情
気がつくと、
女神のいた場所から弾き出されて、
わたしは祈祷室の扉の外に呆然と立っていた。
清廉な森から、
贅沢な香油の香りが充満した空間への突然の移動に、
軽くめまいを感じた。
こんなこと、
ひとりで抱え切れない。
だけど、
――女神と話したことを、
いったい、誰に言えばいい?
女神は、
自分は、
ただの傍観者だと言った。
『この世界に、神はいない』
そんな絶望を、
サシャには――
神官として、
信仰を揺るがすことなんて……
絶対に、
言えない。
ギグに――
……だめ。
ギグも、神殿で育った。
女神への信仰は心の支えになっているかもしれない。
「聖女様」
通路を出てサシャと合流すると、
水色の瞳が、心配そうにわたしを覗き込んだ。
「……顔色が、真っ青です。
神託は、受けられましたか?」
「いいえ」
わたしは、はっきり、
嘘をついた。
「神託なんて、なかったわ」
女神を、何の疑いもなく信じているサシャ。
その純粋さが、胸に痛い。
かわいそうで、愛おしくて、
衝動的に抱きしめてしまいそうになる。
――だめ。
ここは神殿だ。
男女が触れ合うことすら許されない場所。
大神殿奥深くでは、
まだ粛清の名残りがあっても、
外回廊には、
いつも通り、
祈る人々が溢れ、
誰もが天を仰いでいる。
どれだけ祈っても……
女神は、
ただ見ているだけなのに――
「……っ」
じくじくとした痛みとともに、
聖痕が光りだす。
すぐにサシャが手を握り魔力を送ってくれる。
「聖女様……」
サシャの言葉が途切れ、
はっとしたようにわたしを見つめる。
「蓄積してきた聖力が……
完全に無くなっていますね?」
「気がついたのね……
勇者の魔剣に、
貯めていた聖力を、
全て吸い取られたの」
苦笑する。
魔力がない――
それだけで、
痛みだす聖女の証。
聖力を使い切って身体の奥から押し寄せる、
ひどい脱力感と飢餓感。
これが、
あの女神が造った、
聖女の身体。
粛清の血の匂いが漂うこの冷え切った神殿で、
自分がただの『器』であることを、嫌というほど思い知った。
察したサシャが、迷いなく、男性らしい力でわたしを抱き上げた。
「手を握るだけでは、回復しそうにありませんね」
サシャの低い声が、前髪をくすぐる。
「昼間の神殿内でも、客室なら……
なにをしても咎められることはありません。
わたし達は夫婦なのですから」
サシャの指先にかすかに残る『誰か』の血の気配は、
今はたまらなく恐ろしく、
そして同時に、空っぽのわたしには抗いようもなく甘美だった。
――魔力を……
そう、力が欲しい。
わたしはサシャの胸に顔を埋めながら、
強く、強くそう願った。
女神への怒りは、
抑えきれないほど、
燃えたぎっているのに、
頭は冷たい水を浴びたように冴え渡っていた。
暗黒竜の復活は、
致命的なダメージを
この世界に与えてしまう。
聖女が、膨大な魔力を
勇者に届けない限り、
人々の悲鳴や苦痛に満ちた声は消えない。
その思いが、
もっと、
もっとと、
魔力を求めた。
その欲にサシャは静かに応えた。
同じ色のわたしたちの髪は絡まり合い、ひとつになる。
呼吸が近く、鼓動が重なり、
言葉よりも確かな何かが満ちていく。
サシャは、粛清の昏い熱が残っているのか、
いつもの人形のような冷たさを脱ぎ捨てていた。
色のない頬と唇に、
薔薇のような赤が差し、
声は掠れ、
聖女ではなく何度も、
わたしの名を呼ぶ。
水色の瞳だけが限りなく澄み、
白い魔力がまっすぐに、
深く、
わたしの中へ溶け込んでくる。
午後の光が傾きだしたころ。
サシャは名残を惜しむように、
そっとわたしの肩に歯を立てた。
「……ずっと、カイル様と二人きりでしたね」
甘やかな痛みがはしる。
「そうよ。旅の間、夫はカイルだけだったもの」
わたしは彼の唇の輪郭を指でなぞり、
言葉を遮るように人差し指を当てる。
そのまま、
白い首元に額を寄せながら、
胸の奥で考える。
――全然、足りない。
こうして丁寧に集めた魔力は、
たった一度で魔剣に全て吸い上げられてしまった。
現実は、
優しさだけでは覆えない。
まだなにか、あるはずだ。
「……わたしには、
サシャ、あなたが必要。
ミゲル王子も、カイル兄様も、
アスラン兄様も……
みんなわたしを支えてくれる」
わずかに、
サシャの身体が強張る。
その変化を感じ取って、
わたしは小さく微笑み、
彼の唇を軽く噛んだ。
カイルがよく、
わたしにする仕草だ。
「でも……
それだけじゃ足りない。
そうでしょう?」
答えを待たず、
何度も軽く口づける。
サシャのためらいが、
静かにほどけていく。
「愛してるわ、サシャ」
その瞬間、
そばにいる人を想う――
それが、
わたしが決めたルール。
水色の瞳を、
まっすぐに見つめる。
「伴侶から貰って、
大事に貯めていた聖力は、
勇者の前で、簡単に、
吹き飛んでしまったわ。
教えて。
わたし、どうしたらいいの?」
声が震える。
「どうすれば、
聖力が集まるの?
伴侶を、
増やし続ければいいの?
……何十人も?
それとも、もっと、もっと?」
唇を強く噛む。
涙が溢れた。
涙の雫が、
彼の白い胸元にぽたぽたと落ちる。
「そんな未来を考えると……
苦しくて……」
言葉が途切れる。
「増やし続けたら、きっと、
伴侶を愛せなくなる……
誰も」
サシャは、わたしの涙を、
美しいその指で拭った。
そして、深く息を吸い、
苦しそうに告げた。
「異国の……
異教徒の国イスファに、
特に魔力の多い者がいます」
低い声。
「ミゲル王子に流れる、
異国の血のことよね」
「ミゲル王子は、あくまで
『混血』に過ぎません……
『純血』の魔力の強い、
王族を伴侶にすれば、
人数は、
ずっと少なくて済むはずです」
そう、
それは、サシャが伴侶になる前から、
わたしが薄々感じていた真実。
この国の伴侶だけでは、
じゅうぶんな聖力は貯まらないということ――
ミゲルに流れるあの魔力ですら、
魔剣の前では、
わずかな助けにしかならなかった。
だけど、
純血の異教徒を伴侶にする。
つかえているものが、
少しだけ軽くなる。
「女神を信じる者が、
異教徒を伴侶にしろだなんて、
言いたくなかったの?」
「フェリシア様、
それだけではありません」
サシャは美しい眉を寄せる。
「伴侶なんて増やさなくて済むなら……
そんな方法があったらと、
ずっと、探していました。
ですが……」
サシャの言葉を遮る。
「でも、よかった。
少なくていいなら……
あなたとこんな風にまた過ごせるわ。
そうでしょ?」
泣き笑いで言うと、
サシャの瞳がかすかに熱を帯びた。
「できることなら……このまま」
抱きしめる指に力がこもり、
わずかな痛みが走る。
そんなサシャが、
愛しくなって抱きしめ返した。
――異教徒を伴侶にする
これもまた、
サシャが隠してきた真実のひとつ。
でも、それでずっと、
たくさん魔力は集まるはずだ。
あの一瞬で消し飛んだ聖力を、
補うほど。
秘密を明かしたサシャに、
わたしは優しく口づける。
カーテンの隙間から、
夏の強い光が細く差し込んで、
わたしの影を作る。
その中に、ギグの気配を感じながら……




