40.ベルと八つの世界
着替えは自分ですると伝え、
手伝いを断ってひとりになった。
扉が閉まる音を確認してから、
わたしは小さく息を吸う。
「……ギグ」
声に出して呼んでみる。
けれど、やはり反応はない。
影の中にも、
あの慣れ親しんだ気配は感じられなかった。
落胆して、ため息をついた――
その時だった。
いきなり、手に温かさを感じた。
「え?!」
ぎょっとして視線を落とす。
小さな女の子が、わたしの手を握っていた。
まるで、最初からそうしていたかのように、自然に――
「お姉さん、とてもきれい……」
灰色の長い巻き毛。
灰色の、大きく潤んだ瞳。
少女は、無垢な表情でわたしを見上げている。
「……あなたは誰なの?
どこから来たの?」
心臓が一気に早鐘を打つ。
部屋には、
確かにわたしひとりだったはずだ。
少女は、
幼い仕草で首をこてんと傾げた。
「わたし、ベル。
お姉さんの影に、
道ができているから。
そこを通ってきたの」
「影に……道って……?」
わたしが問いかけると、
少女は困ったような顔をして――
すぅっと、溶けるように消えた。
それは、ギグが姿を消す時と、
まったく同じだった。
残された影は、
やはり空っぽで、
ギグの気配はどこにもない。
「いま……小さな女の子が、
わたしの部屋に……」
慌てて、
人を探して廊下を抜け、
隣の部屋を覗いた――
ついさっき、
消えたばかりの女の子が、
そこにいた。
「あっ!その子だわ」
母親らしき女性の後ろに隠れながら、
同じ灰色の瞳で、
こちらを見上げている。
「申し訳ございません、
聖女様」
若い母親が、深く頭を下げた。
「娘はまだ幼く……無意識に、
他の方が創った『道』を使って
移動してしまうのです」
「謝ることはないわ」
胸の鼓動を抑えながら、
わたしは首を振る。
「ただ、本当に、
いきなりだったから驚いて……
『道』って、なに?」
その時だった。
ノックもなく、
薄い扉が勢いよく開く。
血と泥を落とし、
さっぱりしたカイルが姿を現した。
「あっ、聖女様……お許しください……」
若い母親は、言葉を濁して身を引く。
「声が聞こえたから……
フェリ、大丈夫か?」
カイルは、わたしの顔を見て、
すぐに駆け寄ってきた。
「顔色悪いな」
「……少し、驚いただけ」
そのやり取りをじっと見ていた少女が、
ぱっと表情を明るくして呟く。
「お姫様と、
王子様みたい……」
「残念だけど、
王子様じゃないんだ」
カイルは、少女に向かって
華やかに笑いかけた。
「この娘は、
俺のお姫様だけどね」
その言葉に、
小さな少女は満面の笑顔になる。
いたいけな灰色の瞳が、
きらきらと輝いていた。
――
テーブルを囲んだ夕食の席は、
素朴ながら温かな匂いに満ちていた。
煮込みの湯気の温度、
焼いたパンの香ばしさ。
襲撃の緊張を引きずった身体が、
ようやく、休んでいいと思える空気になった。
椅子の間をすり抜ける小さな足音がして、
さっきわたしを驚かせた少女が、
駆け寄ってきた。
「聖女さま、すっぱい実、食べる?」
両手で大事そうに抱えた果実を差し出してくる。
「フェリ、すっかり懐かれてるなぁ」
カイルが、くすっと笑ってわたしを見る。
「ベル、だめよ!」
母親の制止の声が飛ぶが、
ベルは振り返りもせず、
ちゃっかりと、
カイルの膝に登り腰を下ろした。
「……こら」
言葉とは裏腹に、
カイルは肩をすくめて受け入れている。
その光景に、皆の顔から自然と緊張が消え、
襲撃の余韻が、少しずつほどけていく。
それでも、
ギグがいない不安はわたしの口を重くする。
ベルはテーブルの上に果物を置き、
小さなナイフを器用に握ると、
楽しげに歌い始めた。
「♪ 女神さまは、世界を八つに分けられた ♪」
実を切る時によく歌うという、
女神の創世神話。
幼い声が、食堂の静けさに柔らかく溶け込む。
「♪ 果実を半分に
その片方を十字に切って、四等分
もう片方も同じに、四つに切って
ぜんぶで、八つ ♪」
ナイフが、ことり、ことりと音を立てる。
「♪ 剥いた皮を広げたひとつが、わたしたちの世界
世界は大きいけど、果てがある
三角みたいな、わたしたちの世界 ♪」
最後に、ぱっと顔を上げて、満面の笑み。
「はい、世界を召し上がれ!」
小さな手が、
切り分けた八つの果実を皆に配っていく。
無愛想なグレンでさえ、わずかに口元を緩めた。
わたしは、自分の前に置かれた果実を、
しばらく見つめていた。
世界の頂点。北の果て。
ほかの世界と最も近く、氷壁に守られた場所。
近いうちに、
光の聖女は勇者と共にそこへ向かい、
暗黒竜を討つ――。
子供の頃から、絵本で何度も読んだ物語――
あまりにも当たり前に知っている話だ。
女神を信じて祈ることはあっても、
女神が実在し、
言葉を交わせる存在だなんて、
考えたこともなかった。
でも、神託があるのなら――
女神は、人と話している?
そうだ――少なくとも、
神託が下った大神官は、
女神の言葉を聞いているはずだ。
けれど、
神託で造られたわたしには、
神託がない。
女神は、
曖昧な伝説だけわたしに押し付けて、
あとは、知らん顔だ。
その事実に指先が冷えていく。
「フェリ?」
カイルが、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
わたしは小さく首を振り、
手にした果実を口に運んだ。
甘さと酸っぱさが混ざり合い、
瑞々しい香りが、口いっぱいに広がった。




