32.不安の足音
サシャが夫に加わったことを、
わたしはどうしてもアスランに言えなかった。
視察の計画も、神殿との調整も、
現実的な話題はすべて胸の奥に押し込む。
公爵邸のアスランの部屋で過ごす二人きりの時間は、
ただ甘い恋人同士のように過ごした。
それでいい、と
どこかで思っていた。
アスランは、いつもと変わらなかったから。
静かな声。
穏やかな視線。
わたしを抱く腕の強さも、口づけの温度も。
わたしたちは何も確かめなかった。
知っていることも、知らないことも、
言葉にすれば崩れてしまう気がして。
――だから。
「視察は、僕は留守番だね」
その一言に、思わずアスランを見つめた。
彼は、寝台に横になり、ひどく消耗してみえる。
薄く開いたまぶたの奥で、
エメラルドグリーンの瞳がかすかに揺れている。
わたしはこんなアスランを、いつも美しいと思う。
長い黒い睫毛が影を落とし、
呼吸は浅く、規則正しい。
魔力をもらったあとは、いつもこうだ。
急激に体力が落ちて、
二日ほど眠っていることが多くなる。
そのたびに、
いたたまれないほど身体の奥がきりきりと痛む。
アスランだけがこうなるのは、
わたしが愛しすぎているから、
なのかもしれない。
それでも、こんな情事をやめられない。
アスランの全てがわたしのものだと、
昏い満足感が宿るからだ。
いつもの夜、
隣りにいるアスランが唐突に言葉を紡ぐ――
「乗馬が上手くて領地戦の経験のあるカイル、
それに騎士のグレンを連れて行くのは、
いい選択だよ、フェリ」
責めるでも、寂しがるでもなく、
ただ事実を整理する声。
「だけどサシャをあまり、
公爵家に呼びつけない方がいい……」
聞き返す間もなく、言葉が途切れて、
アスランは静かに眠りに落ちた。
その横顔が、ひどく遠く感じられて――
(ああ、こういう時だったんだ)
不安で、言葉にできなくて、
代わりに身体を寄せてしまう。
ミゲルが、突然わたしを抱きしめた夜の気持ちが、
初めて、少しだけわかった気がした。
眠っているアスランの身体は、
わたしの小さな手でも支えられそうに儚く感じて、
起こさないように、
縋るように、そっと抱きしめる。
手のひらの聖痕が、
アスランから奪った魔力に反応して、
トクンと、
不気味に脈打つ。
満たされていくわたしの身体とは裏腹に、
泥のような不安が溜まっていく。
その理由を知ろうとする勇気もないまま、
わたしはただ――
夜のしじまに消えてゆきそうな、
彼の体温を、
確かめることしかできなかった。




