25.アンナ
ミゲルは、先回りして気づき、
押しつけがましくなく、
必要なところだけを支えてくれる。
王族とは思えないほど手のかからない夫だった。
あれほど口うるさく、気まぐれで、厄介だったマーカス王子を思えば――
同じ兄弟だということが、未だに信じられないくらいだ。
優秀で、優しくて、頼もしい、
非の打ち所がない伴侶。
だからこそ、わたしは油断していた。
ミゲルが『嘘をついている』なんて、思いもしなかったし――
わたしを毛嫌いしている王妃の存在も、すっかり忘れていた。
懐妊中の王太子妃に祝福の祈りを頼まれて、
王宮に立ち寄ったその帰り、
廊下の向こうから鋭い視線が飛んできた。
王妃だった。
傍らには、彼女のお気に入りの侍女、
アンナ・ハックマン伯爵令嬢。
すらりと長身に濃い栗色の髪。
清楚で儚げな美貌。
マーカス王子の恋人。
わたしの婚約者を奪った女性だ。
「フェリシア、あなた、自分が何をしたかわかっているの?」
王妃の感情を抑えた声の奥に、はっきりとした怒気が滲んでいる。
「いまさら復讐のつもりかしら?
ミゲルを夫にするなんて。
このまま、王室が黙っていると思わないことね」
(なぜわざわざミゲルのことを?)
王妃の息子はマーカス王子だけで、
王太子、第二王子は亡くなった前王妃の子だ。
王子たちの中でも、
側室の子の第四王子ミゲルに、
王妃は関心が無いと思っていた。
しかも、ミゲルが聖女の夫になるのは王命のはず――
胸の奥に小さな違和感が生まれたが、
それより先に、
別の感情が湧き上がった。
――わたしは、もう、
我慢する必要なんてないじゃない!
聖女になって、
初めてはっきりと実感した。
この人の前で、俯く必要はない。
「ミゲル殿下がわたくしを選ばれたのです」
静かに、けれど正面から言い返す。
「愛が何より大切だと、そうマーカス殿下に教えたのは王妃様じゃありませんか?
わたくしも、とても素敵な教えだと思いますわ」
それは、かつてマーカス王子がわたしに投げつけた言葉。
王妃の眉間に、深い皺が刻まれた。
「やはり、父親もわからぬ下賤な女は違うわね」
――来た。
よし! 受けて立とうじゃない!
その瞬間……
「聖女様に、何てことを言うのですか!」
鋭い声が割り込んだ。
王妃が信じられないという顔で、わなわなと震える。
「アンナっ! あなた、フェリシアを庇うつもりなのっ?」
アンナ・ハックマン伯爵令嬢が、一歩前に出ていた。
(わたしの婚約者を奪った女が、
わたしを庇う? どうなってるの?)
「聖女様は尊いお方です!
王妃様、どうか、お控えください」
その声音に、迷いはない。
揺るぎのない聖女への忠誠……これは……!
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
――まさか。
考えるより先に、体が動いた。
わたしはアンナの手首を掴み、声を張り上げた。
「王妃様!」
一礼もせず、堂々と告げる。
「この者は、わたくしと王妃様、双方に無礼を働きました。
罰は、聖女であるわたくしが直接与えます!」
それだけ言い捨て、振り返らず歩き出す。
アンナの手を強く引いたまま、曲がり角をいくつも通り過ぎる。
息が切れる。
驚きと緊張で、胸が痛い。
アンナは黙ってついて来る。
王宮は、十歳から王子の婚約者として通った場所だ。
構造は、体が覚えている。
使われていない部屋に飛び込み、護衛たちを外に下がらせた。
扉が閉まり、二人だけになる。
やっと、聞ける。
「アンナ・ハックマン伯爵令嬢」
彼女と言葉を交わすのはほぼ初めてだ。
だけど、確信を込めて言った。
「あなたも……女神に身を捧げた人ね」
「聖女様……!」
彼女はその場にひざまずいた。
神殿でしか見たことのない、完璧な礼。
やはり、そうだった。
「わたくしは、元・神殿女官でございます」
アンナは、震える声で告げた。
「神殿の命を受け、還俗し、伯爵家の養女となりました」
涙を流すアンナは、まるで宗教画の一部のように清楚で美しかった。
――この容姿のせいで白羽の矢が立ったのね。
「申し訳ございません……命じられたとはいえ、
聖女様の婚約者と寝所を共にいたしました」
アンナは、床に額を擦り付けてひれ伏した。
「偽りで穢れたこの身では、死後も女神の庭にはいけません。
このまま朽ち果てることで――
どうか、どうか、お許しください」
聖女のために、
憎まれ役を、引き受けて……
手を貸して起こしたい衝動を、
自制心で我慢する。
ここは、威厳が必要だ。
それでこそ、説得力がでる。
「立ちなさい、アンナ」
胃がぎゅ、と締めつけられる。
震えるな、声。
「あなたは、命令に従っただけ。
敬虔な信者であることに変わりありません」
「お許しくださるのですか?」
「……今まで、辛かったわね」
思わず、そう言っていた。
わたし自身も、長く、クソったれマーカスの婚約者を演じてきたから!
「捨て置かれた身も……聖女様のお言葉で、すべて報われました」
アンナの柔らかな頬に大粒の涙がこぼれ落ちる。
わたしは、力を振り絞って聖女らしい微笑みを作った。
「あなたが女神の庭へ行けることは、女神の代理人である聖女のわたくしが保証します」
静かに、しかしはっきりと宣言する。
女神の庭なんて死後の世界を信じていなくても……
「聖女の名において、あなたを任から解きます。早く行きなさい」
――
アンナ・ハックマン伯爵令嬢。
彼女は、わたしとマーカス王子を引き裂くために、
神殿が送り込んだ――ハニートラップだった。
わたしの人生に、まだこんな驚くことがあったなんてね……
深く息を吸い、声に力を込める。
「ギグ。サシャを呼んで! 今すぐに」
闇が、わずかに揺れた気がした。
それで、十分だった。
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