2. 長兄アスラン
八年も婚約していたのは、ただ「純潔を守るため」と義父に
言われ衝撃を受けたフェリシア
そこに、初恋泥棒の義兄アスランが……
「アスラン兄様……」
彼は冷たい外気を身体にまとっていた。
外套についた雨粒で、外が雨になったのがわかった。
緩いウェーブの黒髪がわずかに乱れ、額に落ちかかっている。
(慌てて屋敷に戻ったの?)
それに、アスランが大きな声で名前を呼ぶのは珍しい。
いつも決して崩れない完璧なアスランが、
少しだけ乱れている――それだけで胸がさわぐ。
彼はアカデミーでは、
冷たく鋭利な美貌で『翠氷の公子』と呼ばれ、
近寄りがたく憧れの存在だった。
幼いころ“恋”なんて言葉も知らないまま、
わたしの心を奪った、三つ年上の義兄。
こんな気持ち、アスランが困るだけなのは、
わかっていた。
拒絶された幼い日のことは、今でも苦しく、
わたしの世界を灰色にする。
「フェリ、こっちに……」
そう言うと、彼はわたしの手首を掴んだ。
感情を表すことのない冷たい指先。
「兄様?」
思いのほかしっかりと握られていた手に誘われたのは、
公爵家代々の女神に関する収集品がある部屋だ。
暖炉に火が入っていて、ふわりと温かな空気が身体を包む。
アスランが魔法灯に、明かりを灯す。
無造作に置かれた古代聖遺物が、
部屋の空気を異質にしていた。
説明に『デバイス』とだけ書かれた金属の塊は、
いつもなんだろうって思う。
淡く光る魔法灯に照らされた横顔を見上げる。
左頬のわずかな歪みは、
わたしのせいでできた傷の後遺症だ。
見るたびに、罪の意識と独占欲が
わたしの中に渦まく。
「フェリシア。誰か、好きな男ができたのかい?」
「そんなこと……」
(好きなのはアスラン兄様だけだわ……)
わたしはいつものように、
言えない言葉を口の中にため込む。
黙り込むわたしに、
アスランはかすかに眉を寄せた。
「ほかに男ができて、婚約解消されたのか?」
(は?!)
甘い気持ちが吹き飛んだ。
義妹が婚約者に捨てられたのに、
次兄カイルは大笑いし、長兄アスランは不貞を疑う。
この家の義兄たち、本当にどうなってるのよ!
「どうして……アスラン兄様は、
わたしが悪いって決めつけるの?!
そんなわけないって、
十年以上兄妹やってて、わからないの?」
アスランのエメラルドグリーンの瞳が揺れる。
その揺れがまたわたしを混乱させる。
何を考えているのか、いつも読めない。
「……婚約解消をマーカス側から言うなんて、
おかしい」
風が窓を揺らす。
(やっぱりわたしはアスランに信頼されてないんだ……
与えられた役目を放り出すいい加減な人間って思われてる……)
掴まれていた手を振り払う。
「アスラン兄様は、噂に疎いのね。
マーカス殿下が懇意にしている伯爵令嬢の話をご存知ない?」
わたしが皮肉を返すと、アスランは眉間に皺を寄せた。
「噂は知っているよ。だけど、我が公爵家が、
たかが新興伯爵家に負けるわけがない。」
わたしの白銀の髪をすくうように指が触れた。
さらり。冷たくて、熱い。
「まさか。この容姿に家柄……
フェリを手放す男など、いるはずがないだろ?」
褒められてる? いや、違う?
公爵家の矜持? どっちなの?
「わたしじゃなくて、殿下に好きな人ができただけだわ。」
「フェリが誰かに心を寄せたわけじゃないんだね?」
アスランの指はわたしの頬を撫で、顎のラインをそっとなぞる。
想い人にこんなことされて、息が止まりそうだ。
(この人、わたしを殺す気なの?)
緊張で声が震える。
「おかげでわたし、お金と別荘をもらうのよ。
お父さまは怒りもしなくて、それどころか、
こちらから破談にするつもりだったって言われたわ。」
「お父様らしいね。たしかに、
マーカス殿下はフェリの伴侶には相応しくない」
「……わたしが!ふさわしくないって、放り出されたのよ!」
婚約して八年間。
苦手な語学も慣れない王室の作法も
ずっと頑張ったつもりだった。
認められたかった。
王家に嫁いで公爵家の役に立つって。
いつか公爵家を継ぐアスラン兄様の
力になりたかったのに!
「わたし、役立たずだわ」
「役立たずなんかじゃない。
フェリには天命があるから……」
「え?いま、なんて言ったの?天命って、なに?」
アスランは答えなかった。窓を叩く雨音だけが響く。
「マーカスの婚約者じゃなくなった……
フェリは王宮へ行ったりしない。」
独り言のように呟いた。
「……マーカスや王妃の言葉を黙ってきくことはないんだ。
フェリは……もう、傷つかなくていい。」
その声は、驚くほど優しくて――
わたしは、子供のようにうなずいた。
「フェリ。できるなら僕と……」
窓からの稲妻に目が眩み、
言いかけた言葉が苦しげに途切れた。
微かに灰色の影が揺らぐ。
アスランはじっと、わたしの後ろを見ている。
視線の先をたどると、女神が少女と並ぶ大きな絵が掛けてあった。
(あの絵がどうしたの?)
彼は、ひとつため息をついて続ける。
「フェリ、お前は安心して、この家にいるんだ。ずっと。」
アスランのエメラルドグリーンの瞳は、
ただ深く誘うように、穏やかだった……
「わたし、この家にいて良いの?」
「僕がフェリに嘘を言ったことがある?」
ううん、ううん。わたしは首を振る。
そう、アスラン兄様は嘘なんかつかない。
わたしが、心から愛するのはアスラン兄様だけだ。
窓の外を稲妻が走り、追いかけるような低い雷鳴が、硝子を揺らす。
「フェリ!ここにいた!」
雷鳴に混じって声が部屋中に響いた。
カイルが足早にこちらに向かって来る。
「本当に、結婚は無くなったんだな!」
「うるさいのが来たね。フェリ、今日は疲れただろう。部屋に戻るといい」
そうわたしに言うと、アスランはカイルの背中を押して部屋から出す。
「兄貴!なんだよ!
俺はフェリに話があるんだよ!」
「僕からお前への話の方が先だよ、カイル」
ちらりとエメラルドの視線をわたしに向け、部屋を出て行った。
ふたりの会話が廊下の向こうへと遠ざかる。
言ってくれた。ずっと、この家にいていいって。
アスラン兄様のそばにいられるんだ!
破談されたことも、
王妃の冷たい目も、
もうどうでもよかった。
アスラン兄様が、この家にいていいと言ってくれたから。
アスランの飲み込んだ言葉を聞くことができなかったのを、
わたしは、ずっと後悔するのに……
この時のわたしはまるで気がついていなかった。
アスラン 公爵家長男 黒髪緑の瞳




