15.ただひとりの人
目を開けると、もう外は明るかった。
部屋には、わたしひとり。
アスランの姿は、どこにもなかった。
兄はいつも朝が早い。
喜びに満ち溢れる朝のはずなのに、
わたしは空っぽの器のように空虚な気持ちでいた。
「……ぐっすり眠ったわ」
ぽつりと、言った言葉は部屋の隅の闇にとけた。
ベルを鳴らして、いつものように人を呼んだ。
「聖女様、もうお目覚めでございますか」
いつもの侍女が、今日はひざまずき、
神職者への完璧な礼を取る。
常に無口で、優秀な侍女たち。
――この人たちも、
最初から『聖女様に仕える人』だったのね。
ふと、アカデミーの女友達のことを思い出す。
侍女と姉妹みたいに笑い合う子たちが、羨ましかった。
そう、わたしはずっと他の女の子とは、違っていたんだ。
だけど、今まで気づかずにいた。
そして、きっと、
もう、あの子達と笑い合うこともない。
「湯浴みはあとでいいわ。先に、軽食を持ってきて」
降臨祭から、ほとんど何も食べていなくて、
おなかが空いていた。
元来、わたしは食べることが好きなのだ。
――聖女だって言われてから、
泣いてばかりだったなぁ……
乱れたままのベッドに腰掛け、フルーツを口に運ぶ。
昨日の出来事は、本当に、すべてが夢のようだった。
サシャに会い、大神官に会い、
ギグをののしり、
皆から『聖女様』と呼ばれ、
カイルを慰めて、
そして、アスランが、夫になった。
聖女の『伴侶の印』が刻まれた、
アスランの左手に浮かぶ銀色の印――
ずっと恋してきたアスラン兄様と結ばれた。
身体を満たす魔力と、鈍い痛みだけが
――それが夢じゃないと教えてくる。
もうわたしは、なにも知らなかった
『フェリシア』には戻れないのだ。
……カイルは、戻ってこない。
降臨祭の夜のように、どこかへ行ってしまった。
お義父様……公爵にすべてを聞いたのだろう。
作られた聖女だと知ったカイルは、
きっと、前みたいにわたしのことを見てはくれない。
遅い朝食を終えると、のろのろとベッドから降り、
そっと、カーテンを閉めた。
部屋は、やさしい暗闇に包まれる。
そして、わたしは慎重に
――薄闇の中、影に向かって呼びかけた。
「昨日の夜のこと、見てたわよね?
わたし、アスラン兄様に聖女の力を使ったわ。
あんなに嫌だったのに……躊躇すらしなかった」
昨夜、彼が触れた自分の身体を、震える指で抱きしめた。
「わたしは、アスラン兄様の心を掴めると思ったら、なんでもする。
浅ましい人間なのよ……」
部屋の黒い影は、ぴくりとも動かない。
それでも、わたしは言葉を続けた。
「わたしの周りの人、全部が嘘かもしれない。
神殿の人たちも、両親も、侍女も、
たぶん兄様も……
すべて『聖女様のため』の存在なのかもしれない」
影は影のままだ。
「ギグが聖女のための存在だってわかってる。
でも、こんなこと言えるのは、あなたしかいないの。
卑しい心をさらけ出せるのは、あなただけなのよ……」
わたしは、暗闇にいる『はず』の人へ向かって呼ぶ。
「ギグ……
……そこに、いるんでしょう?」
静寂が続く――
わたしは、覚悟を決めて言った。
「わたしを見捨てないで、ギグ……
お願い……」
声が、少し震えた。
闇が、わずかに揺れた。
「……フェリシアさま」
手を伸ばす!
――つかまえた!
わたしは、ギグの黒い服を、ぎゅっと掴んだ。
強く、強く。
子供の頃からずっと、ずっと。
わたしを見守り、わたしのために生きてきた人。
それが、たとえ『聖女のため』だったとしても
――それでも、わたしの心を支え続けてくれた人。
影に身を置くその人は、
身体を震わせて、泣いていた。
声を殺して、ただ立ち尽くして。
わたしは、
灰色の瞳から、乾いた唇へと伝う涙を、
黙って、見つめていた。
ギグの涙を見るのは、きっと初めてだった。




