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社畜監査官だった俺、貧乏第八王子に転生したので王宮の無駄手順を全部“昼寝できる仕組み”に変えます  作者: 花守りつ


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洗濯水便は、濡れた前掛けが乾く場所へ戻るまで完了ではありません

厨房奥の配送表で、洗濯水便の行だけが早く乾いていた。


 黒い文字はきれいだった。


 ――処理済み。北塔経由、返却不要。


 けれど、返却口の床には水の跡が残っている。夜のあいだに桶を運んだ誰かが、ここで一度だけ立ち止まった跡だ。ニルが帰り灯の赤紐を外した場所より、半歩だけ暗い。


「殿下、この桶、空です」


 テオが持ち上げた桶の底から、冷たい雫が落ちた。


 ミナは洗い場の隅から、濡れた前掛けを一枚つまみ上げる。小柄な子どもの腰に結ぶには大きいが、大人の洗濯女が使うには紐が短い。


「これ、マラさんのです。夜番の皿を洗ったあと、乾かす場所がなくて」


 マラ。昨日、木皿を返しに来たミトの母親だ。昼は洗濯場、夜は厨房外で水桶を運ぶ。配送表には、彼女の名前がない。ただ「洗濯水便」とだけ書かれていた。


 前世の監査室で、僕は似た言葉を何度も見た。外注処理済み。便宜対応済み。委託完了。


 人の手が濡れたまま帰っていない時ほど、紙はよく乾く。


「水が届いたら完了、ではありません」


 僕は配送表の横に、低い木箱を置いてもらった。ルカがその上に三つの欄を書き出す。


 一、桶の水が誰の作業へ届いたか。

 二、濡れた前掛けをどこで乾かすか。

 三、運んだ人の賃金札と帰宅灯が残っているか。


「マラさんは?」


「洗濯場の裏で、次の桶を待ってます。帰ったことになってるから、休憩札が出ません」


 ミトが小さく言った。昨日より声は震えている。けれど、母親の名だけは消さなかった。


 ミナは温い湯を半桶だけ残し、冷水桶と並べた。


「皿洗いは冷水でもできます。でも、前掛けを絞る手が紫になります」


「じゃあ、半桶は手を戻す水です」


 僕がそう言うと、テオは入口灯を洗い場角へ一つ移した。光が届くと、床の水跡が途中で切れているのが見えた。そこから先は、暗いまま走った足跡だ。


 ルカが「帰宅灯未確認」と青字で書く。ニルは昨日の赤紐を見てから、今度は自分で小さな釘をもう一本打った。


「ここ、マラさんの前掛け用でいいですか」


「本人が掛けて、本人が外します」


 洗濯場の裏から呼ばれたマラは、最初に桶ではなくミトを見た。


「また迷惑を」


「迷惑じゃありません。完了していないものを、完了にしないだけです」


 僕は濡れた前掛けを渡した。マラは自分の名を、ルカの低い紙にゆっくり書く。字は少し曲がっていたが、乾いた処理済み印よりずっと読みやすかった。


 半桶の湯で手を温め、前掛けを絞り、入口灯の下の釘へ掛ける。ミトが乾きやすいように端を広げた。


 その瞬間、洗濯水便の札は青紐へ移った。


 水が届いたからではない。


 水を運んだ人の手が戻り、前掛けが乾く場所を持ち、賃金札が休憩前に呼ばれたからだ。


「マラ、半刻休憩。賃金札はここで預かります」


 ミナが声に出して読むと、マラは濡れた手を胸の前で握った。


「……帰ってから、乾かしていいんですね」


「乾く場所があるまで、仕事は終わっていません」


 僕はそう答えた。


 けれど配送表の一番下で、残った行が黒く光っている。


 夜薬補助便、処理済み。

 受取人欄、厨房代表。

 本人投薬確認、後日まとめ。


 薬瓶の冷たい輪だけが、紙の端に丸く残っていた。

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