朝粥三十杯は、祝典菓子の試作費ではありません
北の冷遇塔の朝は、昨日より少しだけ人間らしくなった。
洗濯桶のそばで、ミナは赤く荒れた手を湯に入れずに済んでいる。ルイとロイは寝台布を畳み、俺の前に小さな木椀を三つ並べた。
すばらしい。
水と寝床があるだけで、人間はだいぶ国に寛容になれる。
あとは朝飯だ。
「殿下、今日の朝粥は……薄めです」
ミナが申し訳なさそうに言った。
椀の底に、麦の影がうっすら沈んでいる。湯ではない。だが粥と呼ぶには、麦が遠い。
ロイの腹が、ぐう、と正直な監査音を立てた。
「今の音は重要証言だな」
「ち、違います。ぼくではありません」
「では誰の腹だ」
「……北塔全体です」
ロイは顔を赤くした。
俺は配膳台に置かれた朝の配膳表を広げた。七歳の指で紙を押さえると、前世の監査係だった目が、数字の目的語を勝手に探し始める。
北塔朝粥 三十杯 一時停止。
祝灯式白パン試作 三十個 追加。
麦粉振替済。
受領者 儀礼厨房。
試食係 未定。
「なるほど」
俺は椀の中の薄い湯を見た。
「未定の試食係は、よく食うらしい」
「殿下?」
「存在しない腹が、ここにいる三十人分の朝を食べている」
ミナが配膳表をのぞきこみ、眉を寄せた。
「祝灯式の白パンは、王宮の格式を示すものだと……厨房長が」
「格式は腹に入らない」
俺は眠かった。
朝飯を抜いた人間は昼前に倒れる。倒れた人間が出ると、呼ばれる。呼ばれると、俺の昼寝が消える。
つまりこれは国家問題ではなく、俺の睡眠問題である。
「麦粉という同じ言葉でも、目的語が違う。儀礼厨房の白パンは、誰に食べさせるか未定だ。北塔の朝粥は、ミナ、ルイ、ロイ、それから洗濯番、薪番、掃除番の腹へ届く」
俺は配膳表の余白に、青い保留札を一枚置いた。
「配膳完了条件を追加する」
「完了条件、ですか」
「厨房から出たら完了、ではない。椀を受け取り、座り、一口食べて、名前が確認されて初めて完了だ」
ルイが椀を抱えたまま首をかしげた。
「座るのも、書くの?」
「書く。立ったまま流し込む食事は、食事ではなく作業の続きだ」
前世の役所にもあった。
会議用菓子は山ほど買うのに、残業者の夕飯は各自負担という謎の文明が。
異世界まで同じだと知って、俺は深い悲しみを覚えた。
「ミナ。麦粉の保管箱はどこだ」
「厨房から来た分なら、奥の小箱に。けれど、振替済みの印が」
「振替済みは、食べたという意味ではない」
奥の小箱には、白い封紙が貼られていた。
祝灯式菓子試作費へ移管済。
北塔使用不可。
俺は封紙をはがさない。破るとただの反抗になる。
代わりに、その下へ青札を重ねた。
生活到着条件未完了。
対象 北塔朝粥三十杯。
理由 受領者名あり、試食係名なし。
暫定処理 朝分のみ先渡し。
「殿下、それで使ってよいのですか」
「よくはない。だから暫定だ。監査では、よくない状態を隠すのが一番悪い。よくないまま、誰の朝が止まるか書く」
ミナは一度だけ息を吸い、それから小箱を開けた。
麦粉の匂いがした。
それだけで、ルイとロイの目が丸くなる。
「三十杯、全部戻せますか」
「今日の朝分だけなら戻せる。祝灯式の白パン試作は一回減るが、未定の腹は文句を言わない」
俺たちは小さなかまどに火を入れた。
湯が白く濁り、麦の粒がふくらむ。端粉をこねて、薄い丸パンも焼いた。豪華ではない。王宮の食卓なら皿の飾りにもならないだろう。
だが、湯気は確かに人間のほうへ伸びていた。
「ルイ、ロイ。立つな。座れ」
「でも、配るのを手伝わないと」
「まず食え。空腹の手伝いは事故を増やす」
二人はおそるおそる椅子に座った。
ミナが配膳表の新しい欄に名前を書いていく。
ミナ 受椀、着席、一口確認。
ルイ 受椀、着席、一口確認。
ロイ 受椀、着席、一口確認。
その下に、洗濯番の少女、薪番の少年、掃除番の老女の名が続いた。
三十の椀。
三十の名前。
三十回の小さな「いただきます」。
ロイが丸パンを半分に割り、湯気に目を細めた。
「これ、白くないけど、あったかいです」
「白さで国は回らない。朝粥で人は動く」
ミナが笑いそうになって、すぐに口元を押さえた。
俺は満足した。
これで午前中に倒れる人数が減る。倒れる人数が減れば、呼ばれる回数も減る。呼ばれる回数が減れば、俺は昼寝できる。
完璧な改革だ。
食後、俺が食堂の隅で短い午前寝の姿勢に入ろうとしたとき、外階段を上がる硬い足音がした。
教育卿室の封筒だった。
通知には、整った字でこう書かれていた。
北塔における未承認配膳改善について。
第八王子ノエルは、祝灯式糧秣の優先順位を不当に変更した疑いあり。
なお、関係従者の勤務評価を再確認する。
ミナの顔から、さっき戻った血の色が引いた。
ルイとロイが、食べ終わった椀を両手で抱え直す。
俺は昼寝用の毛布を畳んだ。
「俺の昼寝を奪うだけなら、まだ許した」
青い保留札を一枚、通知の上に置く。
「だが、朝飯を食べた子供の名前を罰に使うなら、監査対象だ」




