洗濯水は、式典噴水ではありません
北の冷遇塔で、初めてまともな夜が明けた。
第八王子ノエルとして目を覚ました俺の前で、ミナは椅子に座ったまま寝落ちせず、ルイとロイは食堂の床で丸くならず、寝台布にくるまって朝を迎えた。俺も、前世で失ったぶんを取り戻すように、きっちり八時間寝た。
すばらしい。
人間、寝るだけでだいぶ国を許せる。
「殿下、朝の温汁です」
ミナが湯気の立つ椀を置いた。昨日より声が少しだけ明るい。頬にも色が戻っている。
「ありがとう。ミナ、手を見せて」
「え?」
「監査です」
俺が真顔で言うと、ミナは戸惑いながら両手を出した。
赤い。
眠ったぶん震えは減っているが、指の節は切れて、爪の横は白く荒れている。温汁の椀を持つとき、ほんの少し顔をしかめた。
前世の監査室で、俺は数字の赤字より先に、コピー用紙で切れた派遣職員の指を見るべきだった。
今世では、見る。
「洗濯場はどこだ」
ルイとロイが同時に肩を跳ねさせた。
「北塔の裏です。でも、朝は行かないほうが」
「凍ってます」
「水が?」
「水も、桶も、手もです」
ロイが言いにくそうに続けた。
「温水の札は、昨日から止まっています。式典噴水の試運転に回すから、北塔の洗濯水は冷水で足りるって」
なるほど。
睡眠を取り戻した翌朝に、次は手荒れか。
俺は棚から昨日の青い保留札と、王宮から押しつけられた配膳表、薪札の控えを出した。
そして、洗濯水配分表を持ってこさせる。
表題には、きれいな文字でこう書いてあった。
『水路管理表――式典噴水予備水・北塔生活水』
同じ「水」だ。
だが同じ水ではない。
前世の役所にもあった。会議費と研修費と福利厚生費を、都合よく一つの「職員関係費」にまとめる書き方。まとめた瞬間、誰の昼飯が消えたのか分からなくなる。
俺は表の端を指で押さえた。
「ルイ。式典噴水の水は、誰が明日の朝使う?」
「え、と……祝灯式で、偉い人が見る水です」
「ミナ。北塔生活水は?」
ミナは自分の指を見て、小さく答えた。
「洗濯女の手と、寝台布と、殿下の椀を洗う水です」
「正解。水路という同じ言葉で、見るための水と、明日も働くための水を混ぜてはいけない」
俺は筆を取った。
『式典噴水予備水』の横に、赤で「観覧用」と書く。
『北塔生活水』の横に、青で「手・布・椀の維持」と書く。
それから、余白に新しい欄を作った。
『生活影響明細』
一、洗濯女ミナの手荒れ悪化。
二、寝台布の洗浄遅延。
三、朝食椀の衛生低下。
四、昼寝環境の悪化。
「最後だけ急に殿下の私情が入りました」
ルイがぼそっと言った。
「私情ではない。国家継続に関わる」
「昼寝がですか」
「俺の昼寝を守る仕組みは、だいたい皆の生活を守る仕組みと一致する」
言い切ると、ロイが少し笑った。
俺は青い保留札を一枚、洗濯水配分表に結んだ。
「この表は未完了。式典噴水へ移すなら、まず生活影響明細を読み、影響を受ける者の名を呼ぶこと。ミナ」
「はい」
「今日の洗濯は止めない。ただし冷水ではやらない。厨房の鍋を一つ借りて、温汁の残り火で一桶だけ温水を作る。優先は手拭い、食器布、寝台布の順」
ミナの目が丸くなった。
「一桶だけでいいんですか」
「いい。全部を一度に直すと、また『余っている』と見える。一桶が誰の朝を守ったか、札に残す」
俺は新しい札に書いた。
『北塔一桶温水札――ミナ本人確認、手拭い三枚、食器布二枚、寝台布一枚』
ミナに筆を渡す。
「最後に、自分の名を書いて」
ミナはためらった。
「私の名前を、王宮の表に書いてもいいんですか」
「書かないから、噴水と同じ水にされる」
ミナは唇を結び、少し震える字で『ミナ』と書いた。
その瞬間、胸の奥が少し温かくなった。儀礼魔力ゼロの俺には、灯りをつける力はない。だが、誰の水なのかを読める目ならある。
裏庭の洗濯場で、鍋から湯気が上がった。
ミナは温水に指を入れ、息をのむ。
「……痛くないです」
ただそれだけの言葉だった。
だが北塔では、王宮の祝灯より価値がある。
手拭いが洗われ、食器布が白くなり、寝台布の端から冷たい匂いが抜けていく。ルイとロイは桶を運びながら、青い札の内容を声に出して確認した。
「手拭い三枚」
「食器布二枚」
「寝台布一枚」
「ミナ本人確認」
よし。
数が生活の席に戻った。
俺は満足して、朝食後の二度寝計画を立て始めた。
そのとき、門番が一枚の通知板を持ってきた。
『北塔改善行為について。教育卿室は、未承認の温水使用を儀礼水路妨害として記録する。なお、厨房朝粥三十杯分の麦粉は、祝灯式菓子試作費へ一時振替済み』
俺は通知板を見て、深く息を吐いた。
「次は麦粉か」
眠れる塔を作る道は、思ったより忙しい。
だが、悪くない。
忙しさを減らすために忙しくする仕事なら、前世よりずっとましだ。
俺は青い保留札をもう一枚取り出した。
「ミナ、ルイ、ロイ。今日の昼寝は延期だ。朝粥三十杯を、祝典菓子から取り戻す」
三人は一瞬だけ固まり、それから同時にうなずいた。
北塔の洗濯場には、まだ一桶ぶんの湯気が残っていた。




