夕食済みの赤線は、眠る前の返事を聞いていません
北塔生活窓口の夜は、昼より静かだった。
静かな分だけ、紙の音が大きく聞こえる。
ルカが持ってきた配膳写しの端には、赤い線が一本、まっすぐ引かれていた。
――夕食済みにつき支給省略。
「済み、ですか」
ノエルは背伸びして、その横を見た。
名前の欄は、半分だけ黒く潰れている。欠番分半日賃金の札と同じ場所に、今度は食べたことにされた印だけが先に来ていた。
ミナが、洗い場から小さな匙を持ってきた。
柄に番号がない。王宮厨房のものなら、誰の椀に添えたか分かるように刻みがあるはずだった。
「戻していいって言われました。でも、誰の口にも行ってない気がして」
「戻しません」
ノエルは即答した。
「それは、余りの匙じゃありません。まだ返事を聞いていない人の席です」
テオが入口灯のそばで、潰れた名前を指でなぞった。
「ここ、読めるのは『リ』だけです。勝手にリトって呼んだら、違ったとき困ります」
「読めるところまでで止めよう」
ノエルは白布を一枚、窓口の床に敷かせた。匙はその上。銅貨袋は左。灯油小瓶は右。椀は置かない。
空の椀を置けば、食べたことになる。
置かない空白だけが、まだ腹を空かせている人の場所を守れる。
戻入係の男が眉を上げた。
「済み線がある。配膳側は閉じた。子どもが寝る前にそんな細かいことを」
「寝る前だからです」
エリネが、ノエルの背中へ小さな座布を差し出した。
「殿下はここで一刻だけ眠れます。けれど、眠る前に閉じていい欄と、眠ってから本人に聞く欄は別です」
ノエルは座らず、赤線の下へ青い字を書いた。
――本人返事未到着。夕食済みではなく、眠前確認待ち。
ルカがその下に続ける。
――番号なし匙一、未配膳。入口灯一、帰着未確認。半日賃金袋一、本人受領待ち。
ミナはほっと息を吐き、匙の水滴を布で拭いた。
「じゃあ、この匙は、洗ったことにしないでいいんですね」
「洗った。けれど戻していない」
ノエルは言った。
「仕事はした。でも、生活へ届くまで完了にしない。そう書く」
戻入係の男は不満そうに赤線を押さえたが、エリネが座布の端を窓口の内側へ入れた。
「窓口は閉めません。殿下が眠っても、匙と灯りはここで待ちます」
そのとき、北塔の外で、古い帰着確認札が一枚鳴った。
テオが顔を上げる。
「今の札、帰ってきた音ですか」
ルカは配膳写しの裏をめくり、息を飲んだ。
赤線より一分早い時刻に、薄い灰色の印が押されている。
――夜間帰着済み。
ノエルはようやく座布に腰を下ろした。
眠気で目の端がにじむ。それでも、青い筆だけは離さなかった。
「帰ってきたことにされたなら、次は、誰がただいまと言ったかを聞きます」
番号のない匙は、白布の上で小さく光っていた。




