祝灯式の迎え車は、帰る名前を持たない子を運べません
北塔生活窓口の外で、車輪が止まった。
朝粥の湯気がまだ残っている時間だった。ピムは椀を両手で抱え、テオは入口札を胸に下げ、ルカは昨日の白い箱から写した赤紐札を板に貼っている。
そこへ、祝灯式の迎え車が来た。
白塗りの車体。金の房飾り。扉には「準備補助児童輸送済み」と書かれた札が、もう半分だけ差し込まれている。
「第二孤児院分、北塔確認分、教育区画経由。式場到着予定、昼鐘前」
御者ではない。儀礼局の小役人が、帳面を見ながら読み上げた。車の中にはまだ誰も乗っていないのに、到着予定だけが先に書かれている。
俺は眠くなかった。
水も飲んだ。朝粥も食べた。前世の監査官として、今なら紙が読める。
「乗せる子の名前を読め」
「名簿は教育区画が一括で確認済みです。祝灯式当日は混雑しますから、個別確認を省略し――」
「省略するのは説明だ。名前ではない」
俺が言う前に、テオが一歩前に出た。
入口札を胸から外し、車輪の前に置く。
「ピムは、まだここで朝粥を食べています。サラはまだ来ていません。読めるまで待つ札の子は、名前もまだです」
小役人は困ったように笑った。
「迎え車は善意で出ています。歩かせるより安全でしょう」
「帰りは?」
エリネの声が、窓口の扉から落ちた。
小役人の笑みが少し止まる。
「帰りは、式後に教育区画で――」
「誰が、どの子を、どこへ返すか。そこまで書いていなければ、迎えではなく持ち出しです」
ミナがピムの椀に布をかけた。冷めないようにする布だ。食べ終わった印ではない。
ルカが帳面を受け取り、指を震わせながらも行を追った。
「殿下。ここ、変です。行きは『準備補助児童』。帰りは『補助人員返送』になっています。名前の欄がありません」
同じ子どもが、行きでは児童、帰りでは人員。
しかも、名前が消える。
前世の監査室にも、似た言い換えはあった。出張者が帰るまでは旅費精算は閉じない。備品が戻るまでは貸出台帳は閉じない。なのに、子どもの移動だけが、式場の人数に変わった瞬間に閉じられている。
「殿下、ここも」
ルカが車内の腰掛けを指した。座席の端に、小さな札差しが三つある。ひとつ目は『往路』、ふたつ目は『式場』、三つ目は空白。
「三つ目は、普通なら帰りですね」
「普通ならな」
空白は、何も書かれていないから安全なのではない。誰かが後で好きな言葉を入れられるから危ない。
俺は車体の札を抜かなかった。抜けば証拠が消える。かわりに、青い保留札をその上から差し込んだ。
『未完了。本人名・朝食・迎え担当・帰着先未記載』
小役人が顔を赤くした。
「そのような札を付けられると、式場の人員数が合いません」
「数を合わせる前に、帰る席を合わせます」
俺は板に四つの欄を書いた。
『一、本人名。呼ばれて返事をしたか』
『二、朝食。途中で空腹にならないか』
『三、迎え担当。名前で連れて行く者は誰か』
『四、帰着先。式後に同じ名前で戻る場所はどこか』
大きな勝利ではない。馬車を壊したわけでも、儀礼局を裁いたわけでもない。
だが、ピムは椀から顔を上げた。
「帰ってくるなら、行ってもいい」
眠そうな声だった。けれど、本人の声だった。
テオがその横に自分の名を書いた。
『迎え担当補助、テオ。ピムを名前で呼ぶ。式後、北塔の椀の席へ戻す』
ルカが続けて、帰着欄を写す。
『ピム。北塔生活窓口、朝粥椀三番。未帰着なら完了にしない』
ミナは小さな包みに乾いたパンを入れた。
「道中分です。準備補助ではなく、帰ってくる子の昼前の分です」
小役人は帳面を閉じようとした。俺は閉じる前の頁に、青い保留印を置く。
「閉じるな。今日はこの車が、誰を運んで誰を返すかを読む」
「式場で待っている者も困ります」
小役人の声が初めて硬くなった。善意の迎えではなく、数を合わせる命令の声だった。
エリネが扉の脇から小さな板を持ってくる。昨日まで、朝粥椀の席を書いていた板だ。そこへ彼女は、きれいな字で一行足した。
『式場で困る人数は、帰る場所を消す理由にならない』
テオがそれを読んで、胸の入口札を握り直す。
「俺、迎え担当補助なら、式場の人にも言えます。ピムは椀三番に帰るって」
守られていた子が、帰る手順を言える側に回った。
この一行が、今日の報酬だった。
外で、車輪がきしんだ。
白塗りの馬車の奥、座席の下に古い札束が見えた。赤紐ではない。黒い輸送済み札だ。
ルカが息をのむ。
「殿下……この札、第一孤児院閉鎖の日付と同じです」
祝灯式の迎え車は、今日だけの善意ではなかった。
昔、帰る名前を持たない子を、もう一度どこかへ運んでいる。
俺は青い札をもう一枚取った。
『迎え車は、帰着名簿を先に読む。帰れない名前は乗せない』
北塔生活窓口の板に貼ると、ピムが小さくうなずいた。
今日、馬車は動くかもしれない。
だが、名前を持たないまま子どもを運ぶ車ではなくなった。
そして、座席の下の黒い札束が、七年前の帰らなかった朝へつながっていた。




