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 ―――――――――――――――――*――――――――――――――――――





「オレの幼馴染なんっすよ、こいつ」




 酒に酔った時よりも陽気な声を出す()()()は、タバコくさい口元に笑みを浮かべて何度もそう言っている。目の前にいる若い男女、そしてカウンターでグラスを拭いているマスターに紹介するように、僕らは肩を組んでいた。




「その歳でもう(ひげ)伸ばしてんの、イケてんじゃん」




 男は初対面とは思えない馴れ馴れしい口調で僕の(あご)に触れる。まだ若い毛が集まっただけの髭を、男は指で摘まみ上げて面白そうに()でている。明るい緑の頭髪はおでこの真ん中できっちりとセットしてあり、耳には何本ものピアスが貫くように刺され針山(はりやま)のようだった。キツい目元と対照的に、女のような肌は青い血管を透かして白く(こま)やかに見える。一つか二つくらい年下だろうと僕は推察する。笑うと幼少期の面影(おもかげ)がそのまま浮かんできそうな愛くるしい顔をしていた。




「ねぇ、名前なんていうの?」




 隣にいた女が唐突にそう()いてきた。水色のカラコンの中で黒い瞳が僕を捉える。デコルテを露わにした、病的に鎖骨の浮き出た女だった。




「ミズキ。水に輝く」




「いい名前ね。あたし、シズカ。雫に果って書くの」




 親が二人ともフルート奏者なの、と女は続けて言った。男と女はふたりともまだ十七歳だった。




「本当は学校辞めて働きたいんだけど、親がそうさせてくれないの」




 バイトも本当は禁止なんだよ、とシズカは隣の男に確かめるように言った。不満そうな顔つきが、確かにまだ幼さの残る目元を表していた。




 BARは平日にもかかわらず混んでいた。一階のカウンターは満席で、僕らは二階に行かなければならなかった。アイツはマスターと親しそうに話しながら、マリブコークを四つ注文していた。二階へ続く階段を上がりながら、僕はシズカのか細い腕が手すりに触るのを見た。男の肌も白かったが、シズカはそれより青みがかって、血の気の感じられない肌理(きめ)をしていた。





 二階はカウンターがないため(いく)らか開放的で、タバコと甘いカクテルの混じった人工的な匂いがした。そして(ほの)かにスパイスのような香りと、キツいアルコールの空気が汚れた壁に沁み込んでいた。薄暗い照明の下に四つの丸テーブルが置かれ、椅子はない。端にかたまって飲んでいるアジア系の男たちが一瞬僕らを異様な目つきで見る。一階の落ち着いたジャズと違い、スピーカーからは重低音のサイケデリックミュージックが流れ、心臓を掴まれるような動悸が徐々に不安な響きをもたらす。




 僕らは階段に近いテーブルで乾杯し、軽く自己紹介をした。僕はアイツに、どこでこのこ達と会ったのかと訊いた。アイツが答える替わりに男が「ハウス」と言った。




「いつだか忘れちゃったけど、まあ最近っすね。横須賀の店がダメになったんで、近場はここしかないから」




 シズカは壁に(もた)れながら、アイツに貰ったタバコを吸っていた。初めは化粧っけがないように見えたが、黄色い光が彼女の顔半分をはっきりと照らし、形のいい頬がハイライトで白く光っていた。



鼻からはき出される煙が音に馴染むように、彼女はわずかに身体でリズムを刻み、雰囲気を楽しんでいるのが少し赤らんだ表情からわかった。




「あの時シズカもいたよね」男は彼女に訊ねる。




「そうだっけ」




 忘れちゃったぁ、とシズカは言った。そんなあ、と男は情けない声を出した後、でも確かにここだったよ、ほら、モリモトさんがいた時。わかんない、シズカは壁にもたれたまま僕を見る。水色のカラコンが次第に大きくなり、いつまで経っても瞬きは訪れない。




「わかんないはないだろう。でもさぁ、あん時は凄かったよなあ。もうパーっと()()()()()()()()()、みんなで騒いだんだよ。オレは二回目だったけど、もう怖くもなんともなくってさぁ。一心不乱って言うのかな、()()()()()()()()()()。あれはもうちょっと忘れそうにないよ」




 鼻を膨らませて笑う男の顔にはどこか異様なものが感じられた。開かれた口から幼い歯が覗き、小さな耳は園児のように真っ赤だった。それはマリブコークの酔いでは決してない、過去の想い出に(ふけ)ってうっとりとしているような激しい陶酔のように思えた。いつまでも笑みを絶やさない男は、氷だけになったグラスの縁を長い爪で持ち上げると、「なんか頼んでくる」と言っておぼつかない足取りで一階へ降りていく。途中、何かにぶつかるような大きな音がしたが、男の声は聞こえなかった。あれ、大丈夫なのか?僕は隣で煙をくゆらせているアイツに訊いた。アイツはテーブルに置かれたマリブコークに一口も手をつけていなかった。




OD(オーバードーズ)だよ」




 本人は中毒じゃないって言ってるけど、あれはもうダメだな。アイツは苦笑しながら、テーブルに残ったマリブコークをシズカに勧めていた。





 それきり男が二階へ戻ってくることはなかった。心配で様子を見に行こうとしたが、トイレに行ってるから大丈夫だとアイツに止められた。隣のシズカを見ると、彼女も特別気にかける様子はなく爪をいじっていた。




「もともと身体が強くないんだよ。だからすぐ吐くんだ。弱いのに無理して強くなろうとするからダメなんだ」




 一度救急車が来たことがあってさ、その時は本当にイったと思ったけど、次の日にはもうハウスに顔を出してたんだ。アイツは呆れたようなため息をこぼしてシズカを見た。彼女はそんなのどうだっていいじゃないというふうに、飲み干したマリブコークを手に「おかわり、いる?」と僕の顔を覗き込む。彎曲(わんきょく)した二重から飴のように透き通った瞳がいつまでも目に残った。





 シズカは男と同じ横須賀に住んでいた。家族や学校に内緒でガールズバーに勤めていて、アイツとはそこで知り合っていた。家がかなりのお金持ちらしく(もっとも、それは両親の職業柄だいたい予想できた)小遣いだけで充分やっていけるのだが、その分縛られた環境が窮屈でやりきれないのだと言った。




 周りからはお金が沢山あって羨ましいと言われるけど、わたしは普通の家庭で普通に暮らしている人のほうがよっぽど羨ましいの。シズカは幼少期に習っていたピアノとバイオリンで出来た痣を僕に見せた。子どもに手を出す親ってサイテーね。だからわたし、絶対子どもなんてつくらない。




 シズカの身の上を聞いていると、悩みのない自分がちっぽけで哀れに思えてくる。もちろん、将来に対する不安が何ひとつないわけではないが、それでも彼女に比べると全てが些細で馬鹿らしいものに思えた。久しぶりに飲んだ酒の影響もあるけれど、その時の僕は普段よりも落ち着いて自分を顧み、少々感傷的になっていた。



 そのせいもあって、彼女の壮絶な過去を、より親身になって聞いてあげるだけの余裕を持てた。僕は退屈そうに相槌を打っているアイツを横目に、心配することないよ、と優しい声をかけていた。少なくともあと一年、高校を卒業したら自由の身なんだから。いつしか流れていたサイケはゆったりとしたヒップホップ調のものに変わり、さっきまで端のテーブルで飲んでいたアジア人はいなくなっていた。霧の立ち込めたような薄暗い二階に、僕とシズカとアイツだけがいた。




「そろそろかな」




 アイツはポケットに突っ込んでいた手を引くと、壁から身体をはなし、人差し指で下のジェスチャーをした。シズカは頷いて、アイツと一階へ降りていく。何をするのだろうと僕も一緒に降りる。




 夜を回っているのに、カウンターにはまだ人がまばらにいた。アイツはマスターに指を三本つき出すと、客の残していったピーナッツを口に入れた。壁側のトイレは空いていて、男はもう店にいないようだった。僕たちは再び二階へ戻り、壁に凭れて取り留めない会話を繰り返した。シズカは店で言い寄ってくる男について、愚痴交じりに話していた。




 やがてマスターが重そうな水タバコを持って二階へ上がってきた。テーブルの真ん中にそれを置くと炭に火を点けた。煙がパイプを下りボトルの水がぐるぐる回りだす。頃合いを見ていたアイツがホースを掴み躊躇なく口へ入れる。ホーっとはき出された煙が鼻から勢いよく押し出される。





 アイツは慣れた手つきでホースを咥えると、天井に向かって煙をはき始めた。蒸気機関車のように絶え間なく生み出される煙はアイツの顔を白くさせ、どこまでも尽きる気がしなかった。開かれた目は上を向き、表情にはいつになく甘美なものが感じられた。しばらくそうやって肺の奥まで煙を溜めてからはき出す行為を繰り返し、身体に行き渡ったタイミングでシズカにホースを渡す。アイツは壁に頭をつけて目をつむる。穏やかな表情は口元だけが笑っている。シズカはようやく自分の番が来たと言わんばかりにホースを咥えると、アイツより長い時間をかけて煙を吸いはじめる。熱い空気の下りた水パイプが沸騰してボコボコとボトルを鳴らしている。じっとりとした汗の玉が首に浮かび、光る。





 煙を吹いたシズカは、しばらく焦点の合わない目で部屋中を見回していた。何か現実にはないものを見るような不思議な動きだった。そしてその目が僕の存在に突き当たると、思い出したようにふふっと、今にもとろけそうな笑みを浮かべて口元からホースをはなした。細長い腕が肩から垂れる。あなたのもやるの?高圧的な瞳は僕に語りかけてくる。




 僕は自然と首を振っていた。煙に含まれる成分が違法なものだとはわかっていた。それにこの店が、普通のBARと違うことも。アイツの交友関係と行動を見ていれば、それが現実離れしたものだとは遥か前から想像がついていた。それなのにどうしてアイツに付いていったのかと問われれば、それは成り行きに他ならないと今なら言える。けれどその時の僕は本気で悩んでいた。  オレは人間を辞めるのか?  アイツのように、不安をまるで表に出さない強い人間になれるのか。僕は薄くなる視界の中、煙の魔力に吸い込まれようとしていた。僕は自分の鼓動と目の前のシズカを比べている。彼女は不思議そうに首を傾げ、 しないならいいのよ、  と再びホースを咥え、雲を作るように煙を飛ばしていた。すぼまった唇から冷気のような気体が浮かび、長い彼女の髪に冷たくまといつく。




「やらないのか?」




 気がつくとアイツが僕を見ていた。左目が真っ赤に充血している。  タバコが苦手なこと知ってるだろ、  と取り繕うように言った。僕は当時から、あまりタバコが得意ではなかった。煙を吸い込むと、すぐに脳を押し込められたような感覚が襲って、気分を悪くしてしまう。(それは今でも変わらない)アイツから時々勧められるから、苦手克服のため何度か吸っているが、自分には合わない。不快で体力を消耗させるだけだった。美味いのに、もったいない。アイツは呆れてシズカに目を移す。僕はその時、執拗(しつよう)に勧めてこないアイツに少し腹が立った。




「どんな味がするの」




 なんだ、気にはなってはいるのか、  とアイツは呆れたように僕を見て、ホースを近づてけてくる。蒸気の中に草いきれのような香ばしさと、バラのような甘い香りが一瞬僕を(ひる)ませる。ここまできて止めることもできないから、意を決して口に含み、思い切り吸い込む。




 甘味と爽快さがひと息に訪れ、身体がピリッと痺れるような気がした。アイツに目を向けると、どうだ、と言わんばかりに微笑んでくる。何ともないよ、と首を振ると、なら良かった、と更に勧めてくるので、今度は身体全体に行き渡るように深く吸い込む。重い蒸気が吸収され、白い煙が口と鼻からこぼれ出る。確かに、これは気分がいいものかもしれないと、異常の表れない身体に満足して、次第に高揚した気分になっているのを嬉しく思った。






 そこから僕の記憶は一度終わる。終わるというか、曖昧になる。



 石油のような真っ黒な液体が脳に侵入して、それまでの流れを塗り潰してしまうような、脈絡のない夢の景色がしばらく続くのだ。


 川べりを全裸で走る男、キリンの首が虹色の光、気がつくとそれは母親の顔に変わり、枕を持って何度も僕の頭を叩いている。あれはもしかすると祖母だったかもしれない。


 幼少期の記憶が呼び覚まされたのか。けれどそれも、また何かわけのわからない映像に変わり、変わる瞬間にぐにゃりと、ぐにゃりとする。地盤の揺れで、僕自身も何か曲がってしまうような不快な響きだ。



 ぐにゃり。それはスライムのように形を変え、僕は分裂して、目の前が赤や黄色になる。世界の彩度が上がり、物体の動きが全て遅れて見えてくる。隣にはアイツがいて、黒くごわごわとした岩のようになっている。輪郭がアイツだから、かろうじてそこにいることがわかるが、虹色に縁どられたそれは、右に左に揺れ動く。



 音楽に合わせてリズムに乗っているようにも、自分の脈拍に合わせて振動しているようにも思えてくる。ああ、これはダメだ、と僕は呟いた気がする。ダメだよ、本当に。これはおかしくなる、おかしいよ。ああそうか、とアイツの声が遠くで聞こえる。でも、時機に慣れる。コークハイでも飲めよ。ありがとう。でも、ああそうか。それは蛇なんだよ。大蛇なんだ。俺はそれは飲めないよ。なあ、あれは俺か?それとも蛇なのか。





 シズカが裸になっていた。着ていた服を床に落とし僕を見つめていた。なんだよ、改まって。僕はシズカの胸を見た。マネキンのように平坦な身体はキズひとつなく、卵のような肌はあばら骨を透かしていた。首から下にわずかに膨れた胸に花びらのような乳首がふたつ下がっていた。浮き出た骨が彼女の全体を成し、肉の載った腹や脚だけが光に満ちていた。




 ひゃあ、と声を上げて後ろに倒れた。シズカが大蛇に変わり、僕に近づいてきていた。緑と黒のまだらな身体は三メートルはあるだろう。湿った腹をくねらせ僕に襲いかかってくる。蠅がぶんぶんと耳の周りを飛び回り、スライムを潰したような嫌な感触が僕の脳をつらぬく。僕は腹ばいになって大蛇から逃れようと手を伸ばす。広い室内はいつしか狭く窮屈になっている。僕は助けを呼ぶことができない。



 アイツも、シズカもいない。彼女に至っては蛇になって僕を飲み込もうとしている。汗で滑る手を床に這わせ、重い身体をなんとか動かそうと試みる。が、揺れ動く視界に指の動きは鈍くなるだけだ。龍のような白い腹が僕の足に生暖かく触れる。



 その瞬間、僕は思い切り口から嘔吐する。途轍もない量を、止めることなく吐き出していく。かぁ、と流れ出す喉から息を吸う音が耳に響く。視界は暗いのに、眩しいような目の痛みが頭の血管を収斂させる。僕は吐く、吐く。咽喉が焼けるようにヒリヒリと痛み、胃は痙攣したようにいつまでも引き攣って酸っぱい香りが鼻に昇る。いつまでも頭の中で音が鳴り続け、それはジャズの低いドラムから、ロックのさんざめく轟音まで様々に僕を襲っていた。






 突然トイレで意識を回復した。どうやって一階まで降りてきたか記憶にない。僕はタイルに尻をつけ、便座に頭を預けて放心している。しばらく天井の光を眺めていたのか、立ち上がる時、首と腰が異様に重かった。




 胃の中を全て吐き出したからか、妙にスッキリとした心地だった。近くにあった洗面器で口の中をゆすぐ。ところどころ唇が切れて、鼻にはキズが走っていたが、おおむね身体に支障はない。頭がぼんやりと気怠い(けだる)意外はいつもと変わらなかった。




 トイレを出ると誰もいないカウンターが目に入る。照明の消された室内に、キッチンから僅かに明かりが洩れている。台に手をついてタバコを吸っていたマスターが振り向く。




「大丈夫?」




 はい、と僕は返事をして、静まり返った室内を見回す。マスターの優しい笑みがじょじょに心に染み入ってくる。大冒険から帰還した生存者のような気持ちでカウンターに腰かけていた。




「最初は誰でもそうなるのよ」




 マスターは笑ってマンゴージュースを出してくれる。僕はそれをひと息で飲む。濃厚な甘さが、喉に引っかからず胃に滑り込んでいく。あまりにも勢いよく飲んだから、空っぽになったグラスを見て自分でも驚いた。




 タバコを吸いながら、マスターはアイツの話をし始めた。  あのこもね、最初は全然ダメだったの。もう何回やっても戻してね。意外でしょ?顔に出すようなタイプじゃないからね。   でも、何度もやっていくうちにコツを掴んだんでしょう。ある時から普通になって、今はもうあんなに上手く扱ってるでしょう。




   アナタは一回だったけど、あのこ達はもう三回も四回もやってるから。それでも倒れないんだから大したものよ。  マスターはカップにウィスキーを注いでくいっと喉に流す。アナタもいる?と目を見開く彼女に手を振り、僕は階段を上がった。店全体がやけに静かで、アイツやシズカのいる気配がなかったし、幾ら彼らが強いからって、症状が出ないわけではないだろうと不安だった。




 シズカはテーブルの隅に倒れていた。両腕を胸の前でたたみ、静かに寝息を立てていた。アイツはそれを見下ろすように、壁に背をつけてタバコを吸っていた。僕を横目で認めると口元に薄い笑みを浮かばせた。もう平気なの?と訊いているようだった。




 僕はアイツの吐き出す煙をしばらく見ていた。胃の不快感はだいぶ収まり、頭痛は少しだけ和らいでいた。倒れたテーブルに、誰かが吐いた酸っぱい匂いがこびりついていた。室内はまだ煙の余韻が感じられ、枯れ草のツンとする香りが、気を抜くと再び胃の中を震わせる勢いだった。




 しばらくして、  帰るぞ、とアイツは独り言のように言った。シズカはまだ起き上がれないのか、伸ばした首をくねくねと左右に動かしている。グレーのシャツから白い肌が覗いている。シズカは大きく伸びをするように、腕をぐっと天井につき上げ、垂らす。まだ焦点の合わない目を宙に置き、青白い顔は僅かに口を開けていた。




 シズカがなかなか起き上がらないことに痺れを切らしたのか、アイツは傍まで近づいて彼女の腕を掴むと、ふざけた恋人同士がそうするように、指で彼女の頬を摘まみ上げる。




 パアン、と小気味よい音が響いた。アイツが頬を抑えている。シズカはアイツを睨むようにじっと見上げると、足元に散らかったズボンを履いていた。その時になってはじめて、僕はシズカの下半身がパンツだけなことに気づいた。




「そうとうバッドに入ってるなぁ」




 アイツは歯を剥き出しにして、笑いながら階段を下りていく。右頬を赤くさせ、それでもまったく恨んでいないといった明るい表情は、目だけがギラギラと光っていた。




 ああ、ふたりは()()()()()、と僕は悟った。僕が苦しさに一階で吐いている間、このふたりは確かに()()()()()()()()だ。




「腹が減ったなあ」




 一階に下りたアイツの声が聞こえる。僕は高いパンプスを履くシズカを見守りながら、一緒に階段を下りる。彼女はまだ酔いが覚めないのか、危なっかしい足取りで手すりに掴まり、気を緩めると今にも倒れてしまいそうだ。僕は前から彼女の様子をうかがうようにゆっくり段を下りていき、もう大丈夫だと言うところで前を向いた。




 信じられない力が僕の腕を引いていた。シズカは僕の首に腕を回すと、軽く顎に触れて唇を合わせてきた。




 森の中のような冷たい肌に、蜜の甘い香りが鼻いっぱいに広がっていた。僕は身体が震えて動けなかった。目をつむった闇の奥から、シズカの形をした何かが侵入してきていた。




 カウンターの奥でマスターがこちらを見ているような気がして、驚いて目を開けるともうシズカはそこにいなかった。彼女はトイレを使っていた。アイツはタバコを吸うために明けきらない外に出ていた。




 僕の生まれて初めてのキスがそれだった。








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