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童鉾櫌は写真で見るより背が高く、身体つきもしっかりしていた。店に来るのは面接の時の一回きりで、その時キッチンの場所や控室を教えていたから、そう珍しがることもせずに渡された調理服に着替えていた。福田さんがエプロン姿の彼を見て「似合ってるじゃん」と笑う。蔡さんがすぐに中国語でそれを訳すと、顔いっぱいに笑みを浮かべ「アリガトゴザイマス」とぎこちなく答えていた。
最初の一週間は掃除と陳列をメインとし、合間に蔡さんから調理器具の使い方や仕込みの手順を教わる。次の週から僕や福田さんの側について、本格的な調理実習がはじまると、彼は異常な食いつきを見せた。
別に調理と言っても、レシピの手順通りこなしていけばいいだけなのだが、これが人によってはなかなか難しい。普段から料理をしない童くんは、ナイフの持ち方からコンロの使い方まで、まるでわからない、全くの初心者だ。けれど彼のスゴイところは、そこで躊躇せずにすぐ実行するところで、僕と福田さんが見せるお手本などお構いなしに手を付けはじめる。頭で考えるより身体で覚えるといったタイプで、だから一々手を止めて僕らに質問したり(蔡さんとは何か話していたようだが)メモを取ることなどもせず、そうすることがさも当たり前のように、材料を切り、フライパンに油をひいて野菜を炒めていた。
見ていて危なっかしいところもあったが、こうも思い切りがいいと逆に清々しいし、教え甲斐がある。僕は童くんの味つけの間違えた炒め物を食べ、そのしょっぱさに苦笑した。
それでも一週間もすると童くんの調理は見違えるほど上手くなった。僕らに指図されなくても、自分で仕込みを行い、調理器具を動かす。なかなかの手際の良さだ。身振り手振りだが、なんとか彼の意思を汲み取ろうと、傍で見守っていた僕は、童くんが無言でいるのは、日本語がわからないのではなく、ただ作業に没頭しているからだとその時わかった。慎重に肉の重さを計る彼を見て、自分がまだ新人だった頃と重ねて懐かしく思ったりした。
「だいぶ飲み込みが速いですね」
与えられた作業をテキパキとこなす童くんを見ていると、これまでに辞めていった何人ものバイトの背中がぼんやりと浮かんでくる。大学生に主婦にフリーターに……この弁当屋で働きはじめてもう三年が経とうとするが、今年だけで既に三人のバイトと従業員が辞めていっていた。辞める理由は皆それぞれ違っていたが、笑顔で去っていく人もいれば、最後までムスっとした態度を崩さない人もいた。ハンバーグを焼く童くんを見ながら、蔡さんは「まあこれくらい、できて当たり前ですよ」とテーブルの側で腕を組んで言った。
「彼は少し落ち着きがないように見えますね。福田さんが説明している間も、常にキョロキョロしているし、注意力に欠けています。それに僕が訳さないと言葉を理解することができないし、包丁の持ち方も何度言っても直しません。見てると指を切りそうで怖いです」
「まだ最初ですから」
きつく言い放つ蔡さんは、それでもどこか穏やかに見える眼差しで童くんを見ていた。僕を含め福田さんや蔡さんも、二週間でここまで順調に運ぶとは思っていなく、せいぜい一週間続いてくれればいい方だと、みんな何となくそう案じていたから、ペースを上げて作業に集中する童くんを応援しないわけにはいかなかった。弁当屋は特に朝が忙しく、通勤ラッシュと被る一二時間はまさに時間との戦いで、リーダーの福田さんでさえも、いつも既定の量を作り終えるのは時間ギリギリになることが多かった。
だから童くんの登場は本当に有難かった。彼はご飯を容器によそったり、おにぎりやサンドイッチなどの軽食を作ったりして、作業の合間でも決して手を休めない。それだから規定の時間に全ての調理が終わることが増え、誰も時間に焦る必要がなくなった。それに童くんがいると、なんとなくキッチンが明るく、穏やかな空気が流れるような気がして、僕はもう長いこと感じていない調理の新鮮さを、彼を通して久しぶりに思い出したような懐かしさに、何時になく仕事が楽しかった。
それだから翔に童くんの採用が決まったことを伝えた時、割りに良い表情をしなかったことが気にかかった。
「あのこは、ちょっとサボる癖あるから」
そう言って、レモンサワーをジュースのように胃に流し込む翔は、酔いのまったく表れない顔を持ち上げてタバコに火をつけた。
「そうは見えないけど」
「感じがいいのは最初だけ。中国人の特徴だよ」
自嘲気味な言葉の裏に、真面目な響きが感じられた。童くんを紹介してくれたのが翔である以上に、彼は同じ出自を持つ人間として、童くんに疑念を抱いているような気がした。
翔は自分の内装屋に、童くんを連れて行った時のことを話してくれた。中国人の多いその職場で、童くんは翔の側についたものの、まったく仕事ができずに、周りから呆れられていたという。
「ボード持ってきて、クロス持ってきてって言っても、もたもたしてすぐに動かないし、何回も聞き返す。挙句の果てに、ダルい、休みたい、水飲みたい、トイレに行きますって、とにかく作業から逃げるんだよ。それがあまりにも多いから、仕事を舐めてるのかって、一回聞いたんだ。そしたらアイツ、何て言ったと思う? へぇ?ボクがですかぁ?みたいな顔して固まんのよ。ボクがなんかしましたかって。足の脛おもい切り蹴ってやったよ」
今年に入ってエリアマネージャーに昇進した翔は、週に一度は必ず現場に足を運び、仕事の進捗や作業員がサボっていないか確認しに行く。現場監督と話し合い、使えない作業員が居れば別の現場へ飛ばすか、仕事が終わり次第キツく詰問する。人手不足の著しい業界で、若手の数も少ないから、そう簡単に解雇を言い渡すわけにはいかないが、それでも言うことを効かない人間は、自然と職場から立ち去っているといった。
「仕事ができない人って、なにやっても治んないもんなのよ。だから目をかけてあげるだけ無駄なの。そういう人はいらない。オレの現場には、そういう無能な人いて欲しくないんだよ」
「厳しいんだな」
「ううん、そんなもんだよどこの業界も。できるやつが上に行くの。もう昔と違うから」
翔の内装会社は正社員よりアルバイトや日雇いの労働者が多く、大抵それはベトナムやカンボジア、中国からの留学生なのだけれど、日本語のわからない作業員は次々と現場を変えていく。移動させられるのだ。そして移動先でも、日本語が使えないからという理由で飛ばされ、また飛ばされ……そうして色々な場所を転々とし、一周して翔の管轄へ戻ってくる頃には、どの国の人間も大抵日本語が喋れるようになっているのだと、可笑しそうに言った。
「でも、そういう人ってほんのちょっとだけで、後はみんな辞めていくよ。飛んだり、キツいって理由でね」
フルタイムの現場は大学生の童くんには難しいし、肉体労働には向いていない。それでも日本で生活する以上、家族の仕送りだけというわけにもいかないから、どこかで仕事を見つけなければならなかった。
翔は話の全てを締めくくるように、なんにしろ、これでアイツも働けるよと言って、キツく張った表情を崩していた。
僕は目の前にいる童くんを眺める。彼は今、福田さんの側で生姜焼きの調理の真っ最中だ。豚肉を焦がさないようにタレであえる手順を、蔡さんに訳して貰いながら覚えている。太い手首に力が加わり、広い額には汗が滲んでいた。
「今まで色んな人がここに来ましたけど、童くんほど要領のいいこはいなかったんじゃなないですか?」
これで福田さんはいつでも辞めれますねと朗らかに言うと、福田さんは微笑んでくれたが、蔡さんは「まだまだこれからですよ」となおも真剣に童くんを見守る。今日は祝日の月曜で、いつものサラリーマンの姿はなかった。
「あんまり甘やかしすぎるのもよくないですよ、このこすぐ調子に乗るので」
童くんが作ったばかりの生姜焼きに箸をつけながら、蔡さんは淡々とそう言った。
バレーの練習日だったので、シューズをバッグに詰めているとスマホが鳴った。Bからだった。
―旅行の話し合いがあるから、今日は行けない。ごめん
Bは来週末から三泊四日の台湾旅行に出かけるのだといった。高校時代の友人と、台北を周るらしい。お土産よろしくと打っていると、偶然のタイミングで翔からもメッセージが届く。
―今日はむり
―夜勤入っちゃった
翔もBも今日の練習には行けないらしい。仕方なく靴ひもを結び、ひとりで体育館へ向かう。ふたりとも社会人だから、残業や用事で来れない日が出てくることはわかっていたが、ふたりとも来れないという日は珍しい。そんなこと今までになかったんじゃないか?。体育館へ入るとシューズに履き替え、入念なストレッチの後にゲームに参加した。練習に来る人たちは皆見知った顔ぶれで、特に疎外感を感じるほどでもなかったが、翔やBほど心を開ける距離感でもなかった。だから休憩時間もコートの端に座ってスマホをいじり、試合も審判の役に回った。時間きっかりに練習が終わると、片付けを任せて早々に体育館を出た。
玄関で靴を履いていると、背後から顔見知りのママさんに話しかけられた。
「今日はみんな来なかったのね」
昔から面識のある、同じクラスだった女子生徒の母親は、汗で額についた髪を払うと、穏やかな表情でそう言う。「お疲れさまです」と思わず首を下げていた。
「Bは友だちと別の予定で、翔は仕事です」
ああ、そうなのねと別に意外でも何でもないように返すママさんは、ここで別れるのも素っ気ないと感じたのか、話題を探すように斜め上に目を置き、でもなんだか寂しいわね、どんどん来る人も減っちゃって、と繕うように言った。
昔はもっと活気があったのよ、井口さんや晃彦くんがいた時は、もうコートの外も人がいっぱいで。僕の知っている先輩の名前を出しながら、でもみんな大人になっちゃったからしょうがないのよ、忙しいものねぇ。ああ、そうですよね。月並みな返事しか返せない自分が何だか情けない。たった一回だけ翔もBも休んだくらいで、こうも心配するものなのか。
「そう言えばあのこ、最近来てないわよね」
「あのこ?」
何かを思い出したように口に手を当て驚いているママさんは、怪訝な僕の目を覗き込む。
「ほら、あの背の高いこよ、同級生の。スポーツ推薦で行ったこ」
あー、と思わず間延びした声が出る。そう言えば居ましたね。視線が宙を漂っている。そうですね、たしかに一緒にやってましたね、中学の時から。でも、わかんないんですよ、最近会ってなくて。どこにいるのかもちょっとわかってなくて。僕らも会いたいんですけどね。電話も繋がらないし、LINEも既読だけがついて、返信してくれないんですよ。ほんと、何してんのかぁ、アイツ。
「留学にでも行ってるんじゃない?ヨーロッパが似合いそうな顔つきだったし」
でも、それじゃあ皆に黙っている理由がないものね、とママさんは可笑しくもないのに笑う。早く帰りたいが、話題を供給してくるママさんを前にそうすることもできない。そうですよね。でも案外、ふらっと帰ってくるかもしれないですよ。
夜の外は蒸し暑い。九月も下旬に差しかかる時期なのに、まだ歩くだけでダラダラと汗が流れる。ママさんを振り払って大通りへ出ると、帰路に就くために左へ曲がろうとして、思いとどまる。帰ろうと思っていたはずなのに、どこか落ち着かない心のざわめきが、身体全体を支配している。今日は翔もBもいない。夕食をとるために、その辺のチェーン店に入るのもいいし、いつもと違う居酒屋でしっぽり呑むのもいい。
アイツのことが頭に引っかかっていた。ママさんから呼び起こされたこともあるだろうが、やはり僕の深いところにアイツは根を張って、ほんの僅かな隙間を狙って顔を出してくる。実態は伴わないが、それでもアイツがいることだけは確かにわかる。僕の中にあるアイツとの想い出が、様々な記憶と繋がり、混ざり合って、現在の僕を形作っている気がしてくる。それは不快で気味の悪いことにも思えるが、頭の中で駆け回る血のように、徐々に体内に力を運んでくるみたいなアイツの影響は、僕の中でひとつの答えを導き出そうとしていた。
交差点を渡ると、いつものコリアンタウンへ入っていく。翔の行きつけの中華料理屋を通り過ぎ、クラブやBARの密集する雑居ビルの通りを奥まで進んでいく。平日で人のまばらな通りに、客引きや派手なドレスの女が僕を一瞥する。ピンクのネオンが眩い光を道に映している。その派手な外観とは対照的に、通りは妙に静かで不気味だった。
雑居ビルの間の細い路地を抜けるとその店は姿を現す。人ひとりがやっと通れるほどの古びた扉にOPENの札が下がっている。玄関に何を模しているのかわからない歪な像が置いてある、照明に光るそれはマスターの友だちがフィリピンで買ってきたという割合高価なもので、知らない人が見ると魔除けの類にしか見えなかった。
扉を開けると懐かしい鈴の音が響いた。カウンターの向こうでタバコを吸っていたマスターは顔を上げると、あら、ひとりで珍しい、と暗い中でもよく目立つほうれい線を立たせて言った。
僕の他にまだ客はいず、マホガニーの机はピカピカに光っている。店の奥で古いジャズシンガーのレコードがかけられ、壁に飾られたレゲエのアートフレームもまったく同じままだ。マスターに促されるままに端の席に座り、マンゴージュースを注文した。
「あれはどうする?」
「今日はやめておきます」
マスターは、あら、そうなのと言ってすぐ、まあ、そうよね、と言い直した。すみません、あんまり強くなくって、と首を振ると、ウチもね、やる人が少なくなっちゃったから、と笑ってグラスに入れるための氷を砕き始めた。
店の名前のプリントされたTシャツから覗く広い首に、マスターは大蛇を飼っている。その下にアルファベットで何か書かれているが、見えたことはない。そう言えば翔の背中にも龍があったけ。久しぶりに再会してそれを見せられた時、驚きや恐怖より痛みが身体に走った。血に色を付ける行為は、背徳的というよりむしろ僕にはむず痒かった。
「アイツ、ここに来てますか?」
大蛇に言葉を投げたつもりだったが、マスターはすぐにこちらへ振り向き、じっと僕を見つめた。マドラーで氷をかき混ぜ、ピーナッツの小皿と一緒に机に出す。
「知らないわ」
「来てるんですか?」
「だから知らないって」
「来てるんですよね」
優しいマスターの目が僕を捉える。穏やかだが、気を抜くと吸い込まれそうになる、大蛇の目だった。
「こんな店でもね、それなりに続けていると、色んな人がやってくるの。出会いも唐突だけど別れも唐突なのよ。そうなるとわたしだって心配するし、少しは落ち込むのよ。それにもう若い時みたいにいちいち顔だって覚えられないから」
「でもアイツのことは忘れてないじゃないですか」
コルトレーンのサックスが酷く喧しく聞こえた。スピーカーから漏れる雑音が、狭い店内をジンジン揺らし圧迫させている。僕はマンゴージュースを一口含んだ。いつもと変わらない甘さが舌をひりひりと痺れさせた。
「アイツはあなたには伝えていたはずですよ」
その時、仕立てのいいスーツを着た男が入ってきて、マスターはそっちの方に声をかけに行った。愛想よく言葉をかけながら、ドリンクを選ばせるマスターに、僕は当時感じなかった嫌悪感のようなものを突如抱いた。マンゴージュ―スをひと息で飲み干し、千円札を机に置いて店を出た。マスターは「またね」と声をかけてくれるが僕は振りむかない。入る時よりも強くなった夜風が、辺りを照らすネオンを寂しく揺らしていた。
最後にアイツとここに来たのはいつだっただろう。




