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バレーボールの練習は毎週木曜の六時から九時までの三時間行われている。中学の体育館を借りて、OBに卒業生に在校の中学生、地域住民などが一緒になってプレイしている。もちろん男女混合だ。六十歳近い上の世代の人から、まだ中学にも上がらない少年まで、来る人は様々だった。
体育館の扉を開けると、コートの端っこでBがシューズの紐を結んでいた。
「早いな」
「今日は残業がなかったんだ」
珍しいこともあるんだなと、Bに並んでシューズを履く。既にコートはアップの済んだ面々が準備運動やパスをしていた。僕は翔がまだ来ていないことに気づき、Bにそのことを訊ねると、既読がつかないんだ、電話にも出ないし。仕方がないので翔に電話してみたが、確かに何度かけても繋がらないし、返事もない。体育館にいた、彼と家が近所の知り合いに訊いてみると、今日は仕事が忙しいから、行けても遅くなるだろうと、意外にも簡単に原因がわかった。
「なんか、仕事が立て込んでいるみたいっすよ」
その年の離れた学生は、さして興味もなさそうな表情でそう答えると、すぐに仲間と対人パスに戻っていた。
練習は試合形式のゲームで行われる。
なるべく男子と女子、経験者が固まらないようにチーム分けを行い、十五点制で回していく。
初心者も経験者も入り混じるから、ルールも曖昧で、危険なプレイじゃない限りネットタッチも取らない。本当にただ身体を動かすためのエンジョイバレーだ。
けれど意外とラリーが続いたり、未経験者のスパイクが決まったりして、予想以上に白熱する。汗が全身を濡らし、息が上がる。皮膚の下で駆け巡る細胞が、全てボールを意識して働いているという実感が心を熱くする。
週に一度しかないこの時間が僕に、苦しくても確かに成長の感じられた中学時代を思い出させる。あの汗にまみれた経験が現在でも輝けるのは、友だちと運動できるこの時間に限られていた。
水を飲んでいると、スマホを持ったBが急いで近づいてくる。やけに慌てた様子なのでちょっと驚く。
「電話、かかってきた」
「もう試合はじまるぞ」
「違う、翔じゃない。アイツから」
「アイツ?」
その名前を聞いた時、僕は全身に鳥肌が立つような、異様な寒気に襲われて立ち竦んだ。薄く生えた腕毛がキレイに逆立って、目の前は砂嵐がかかったように色が消えていた。アイツが、アイツが電話をかけてきた?それも今になって――
身体が猛烈に熱く、気づけばBから奪うようにしてスマホを取っていた。もしもし。空気の抜けた音がぷつぷつと断続的に続き、すぐに電話は切れた。
最後にアイツに会ったのはいつだったろう。練習が終わり、いつものように入った居酒屋で、僕とBは黙って向かい合っていた。テーブルに一品料理が運ばれ、サワーと酎ハイでささやかな乾杯をした後も、いつもなら練習の反省会がはじまるのだが、今日は翔がいないこともあってあまり盛り上がらない。どこまでも空虚な感じが、平日でも声を荒げ騒ぐ学生卓と対照的だった。
口を開いたのはBからだった。「もうどのくらい、アイツと会ってない?」
「一年、いや、もっとじゃないか。あの日にはじめて聞いたんだから」
アイツと最後にあった日は、確か三月だったんじゃないだろうか。記憶はおぼろげだが、外が異様に寒かったことだけは覚えている。
アイツはいつものグレーにくすんだ赤のダウンジャケットを着て、コンビニの前でタバコを吸っていた。
僕に気づくといつものように無言で一本勧めてきて、手を振って断ると顔をくしゃっとさせて鼻から煙をはき出す。
そうしてふたりで夜の住宅街をぶらぶらとあてもなく歩いた。当時の僕らはまだ高校を出たばかりで、お金もほとんどなかったから、よくそうして何となくみんなで集まっては、夜の町を徘徊していた。行先も帰る時間も決めずに、有り余る時間と体力に任せてどこまでも歩き続けていた。
だからその日も、特段いつもと変わらない夜の散歩をしたのだと思う。
街灯の少ない川向こうの地域を、緩やかな坂道をくねくねと上って行った。坂の先に米軍基地の跡地があり、隣り合わせるようにして緑園公園があったから、僕らはそこによく行っていた。
昼間は家族連れやドッグランとして賑わっているそこは、深夜だと場所が変わったようにひっそりとして、ヒトケがない。
僕らは静まった公園を何週もしながら、もう何度も繰り返された議論、将来成功するにはどうするべきか、男女の友情は成立するのかと、空が明るくなるまでいつまでも語り続けていた。
だからアイツといちいちどこへ行ったのか、どんな話をしたかなんて覚えていないし、それが最後になるとも思っていなかった。
ただいつも通り、ジーパンの両ポケットに太い手を突っ込んで、何か考え事でもしているみたいに、下を向いてぼそぼそと喋るアイツの顔が、脳裏に浮かんでくるばかりだった。
「残業で帰りが遅くなった日に、アイスを食べに行こうって連絡があったんだよ。で、こんな時間にやってる店なんてあるの?って返したら、あるって言い張るんだ」
アイツはその日、仕事終わりのBと合流すると、いつもの川沿いの道を歩き出した。Bが黙って付いていくと、住宅地の真ん中にあるローソンに入っていき、まさかここでアイスを買うのだろうかと中へ入ると、アイツはトイレの個室で用を足していた。
アイツが出てくるのを外で待っていたが、十分、二十分経ってもアイツは出てこない。電話しても繋がらず、中で寝ているかもしれないと、外人の従業員に理由を話し、扉の前で名前を呼んだ。すると、真っ赤に目を充血させたアイツが勢いよく飛び出してきた。
「変な顔だったよ。泣いてるのか笑っているのかわからない表情だった。ただ、その不自然さを自分でわかっているような、妙に冷静なところがあって、汚した便座をキチンと拭いてから出てきたんだ」
その後、ふたりでいつものように散歩をしたが、アイツは受け答えもちゃんとできていたし、少し眠そうだったこと以外に、特別変わったところはなかったとBは言った。
「いつもと変わらないけど、妙に記憶に残ってるのは、アイツの表情、喋り方……なんかいつもと違ったんだよね。なにがって言われると難しいけど、とにかく何か悟ったような、きっぱりとしたものがあったんだ」
アイツは中学の頃から背が高く、僕らの所属していたバレー部でいち早くユニフォームを勝ち取っていた。まだ一年だった。その高身長と体格の良さが監督に期待視されていた要因なのだろうけれど、アイツはなかなかスパイクが決まらず、先輩からしょっちゅういびられていた。
まだ一年なんだから、上級生と比べて劣るのは仕方がない、むしろ比較されるだけ良いじゃないかと、僕らは心の中で思っていたが、アイツはそれでも腐らず練習についていった。毎日夜遅くまで練習するアイツを、僕らは自分たちとはかけ離れた、遠い存在と思いはじめていた。
その時もアイツは、妙に冷めた態度で練習に臨んでいなかったか。もともと感情を表に出さない方だったが、その性格は更に淡白で無機質なものになり、それでも心の中では人一倍闘志を燃やしているのが、めげずに食らいつく姿勢からわかった。
「ミズキが最後に会ったのはいつ?」
「それが、あんまりよく覚えてないんだ。多分三月の終わりくらいだと思ってるんだけど、なにしろあの時は毎日のように会っていたから、記憶が曖昧なんだ」
「オレと会ったのが、確か三月の二十日とかその辺で、桜がまだ咲いていないことを話したような気がするんだ」
「ああ、じゃあ俺はそれより後だな。もう桜も咲いてるからって、アイツ言ってたような」
風がいつもより強く吹いて、五分咲きの桜の枝を、荒々しく揺すぶる画が自然と浮かんでくる。はっきりした記憶ではないが、アイツは少し早い花見をすると言って、いつものように夜の住宅地を縫うように歩き、夜明け前に解散したような気がしてくる。
平日にもかかわらず店が混み始めていた。近くでプロ野球の試合があったようで、やけに球団Tシャツを着た客が目につく。しばらくアイツの話を肴に僕らは酒を飲む。
アイツの事になると、話題は自然と頻繁に会っていた二年前の出来事や、中学時代のバレーボールのことが多くなる。何度も話した内容でも純粋に楽しむことができるのは、当時の想い出が今でも鮮明だからだろうか。僕は空いたジョッキを片付けていく若いバイト店員を眺めながら、週末の花火大会の事を唐突に思い出していた。
「そんなことより、ユズキさんとはどうなったんだよ」
レモンサワーを飲んでいたBは、もうだいぶ酔いが回って顔を赤くさせていたが、ユズキさんの名前が出ると一瞬だけ目を見開くようにして、また視線を宙に泳がせていた。
「ああ、そのことね」
花火大会の翌日、Bから付いて来てくれたことを感謝するメッセージが届いたが、その後ユズキさんとどうなったのか、言及されることはなかった。蔡さんの言葉がよみがえる。彼はミズキさんがつけていること、多分知っています。知っていて黙っているんですよ。Bに手を引かれるユズキさんの長い髪がひらめく。
「ダメだった」
「え?」
「ブロックされた。それで終わり」
飲み込んだ酎ハイが上手く混ざっていなくて、焼酎の濃いアルコールだけが鼻に上るような鋭い痛みが走った。いつもより飲むペースは速いのに、不思議と酔いは訪れず、代わりに風邪の前兆のような、胸を圧迫する不快な気分だけが波のように満ちたり引いたりしていた。
花火が終わった後も一時間ほど屋台を周り、会場を後にする頃には混雑はピークを迎えていた。駅に続く長蛇の列を眺めて、それならひとつ前の駅まで歩こうとユズキさんから提案された。
ふたりは駅までの道を歩きながら取り留めなくお互いについて語った。話題はもっぱらユズキさんの好きな少年マンガや恋愛リアリティーショーのことで、Bにはついていけない部分もあったが、会話はそれでも終始和やかに進んでいた。
駅に着くまで、ふたりは距離をだいぶ縮め、親密度は増していた。ホームまでユズキさんを送りながら、今度はドライブに行きたいね、と自然とこぼれた彼女の言葉に思わず笑みが出ていた。
Bは今日の成果を確信した。帰宅中、今度のプランを考えるため、スマホでドライブの人気スポットを探しては、ユズキさんのことを考えた。それほどまでに気分は高揚していたし、胸の高鳴りはしばらく治まらなかった。
けれどその翌日から、ユズキさんの連絡頻度が目に見えて遅くなった。もともと返信がマメなタイプではなく、一日空いて返すこともあったから、私生活が忙しいのだろうと気長に待っていたが、二日、三日経っても彼女から連絡が来ることはなく、追って加えたメッセージも、返事どころか、既読すらつかない。花火大会の別れ際の手ごたえがあっただけに、その時は振られたとも感じられなくて、アプリを開けないほど忙しいのだと純粋に返事を待っていた。
そして昨日の午後になって、彼女のアカウントがすっかり消えていることに気づいたのだった。
「まあしょうがないよね。あっちだって、本気で彼氏を探してるわけなんだから。今回は運がなかったってことで」
Bの口調はやけにさっぱりとして、未練がないように堂々としていた。その変に落ち着いている様子が逆に不気味だった。昨日の今日なのに、Bはもうユズキさんを忘れているのか。
「返信もしないのでブロックするなんて、普通ありえないけどな。それにBが悪いことをしたとか、ユズキさんに対して粗相をしたとか、そういうわけでもないんだろう?だったら、少なくとも何か理由を言ってから、ブロックでもなんでも、するべきなんじゃないのか」
Bが振られた割に静かなので、思わず噴き出すようにそう捲し立てていた。ユズキさんの非常識さにも腹は立ったが、花火大会で見せたあの親密さを前にして、振ったと言う事実は到底信じられなかった。
僕はユズキさんの肌の白い腕がBの手に握られているのを確かに見たのだ。あれからまだ一週間も経っていないが、それでもBの心中を考えると、気の沈みよりも動揺が先立つはずだ。だって彼は、あれほどユズキさんを想っていたじゃないか。本心を代弁するようにそう言ったつもりだったが、彼は力なく首を振って哀しい笑みを浮かべていた。
「マッチングアプリってね、マッチした相手がひとりとは限らないんだよ。人気な女の子にはそれだけ沢山のいいねが来るから、そこから気になる人のひとりやふたり、必ず出てくるんだ。常時だよ。だから花火大会に行っている間も、常に男からいいねが届いている。その中から自分に合うと思う人をどんどん絞っていくんだ」
ほとんどのマッチングアプリは、互いがいいねを押せば自然とマッチングし、そこからトークが行えるようになるのだが、ユズキさんのマッチング相手がBだけとは限らない。何人か候補相手がいて、その中で直接会ってもいいと選ばれたのがBだったというだけなのだ。
つまりBは、ユズキさんのどこかの選定で落とされた、何人かのうちの一人にすぎないのだ。バイトの面接でいつまで経っても採用通知がこないように、落とした人間にわざわざコメントを残すような温情などかけないのだ。
「切り替えるしかないよ。会ってくれただけ有難いと思わなきゃ」
Bは、マッチングアプリで確実に恋人ができるというnoteを僕に見せてきた。その中の〈質より量!とにかく色んな人と会うべし!〉という項目を特に熱弁していた。趣味や外見がタイプでも、会ってみると想像と違ったり、自分とは合わなかったりするから、迷ったらまずは会ってみるべし。AIが考えたような冷たい文章がずらりと並ぶそのnoteに、彼は五百円も払っていた。
「ユズキさんのタイプはオレじゃなかったんだよ」
ユズキさんはBに会いに行く段階でまだ恋と呼べる状態ではなかったのだ。
Bに対する態度は興味だった。それが恋に変わるためにどうすればよかったかは、僕にもBにもわからない。彼女しかわからないのだ。
ユズキさんがどのような過程でBを切ったのか、顔か、身長か、服装か、身だしなみか、はたまた価値観か。連絡のつかなくなった今となっては、そんなこと考えるだけ無駄なのだが、それでも会った翌日に逃げるようにブロックした事実は、Bから話を聞かされた後も僕の中でしばらく尾を引いた。
初めて異性をデートに誘い、精いっぱいリードしたBのことを思うと、この仕打ちはあまりにも酷すぎた。
「なんか嫌な感じだな。相手を蔑ろにしてるっていうか、人の気持ちを踏みにじってる感覚がないのかね」
屋台に群がる人混みの中、決して離れないように結ばれたあの手には、Bの真っ直ぐな誠実さが現れていた。それは人生ではじめてのデートで彼女を気遣い、大切にしようとする優しさが確かに感じられた。
けれどユズキさんは、そんな彼の気遣いなどまるで伝わっていなかった。伝わっていたとしても、それを前向きに捉えてはいなかったのだ。
「ううん、違うよ。ユズキさんはオレが悲しむと思って、わざと何も言わなかったんだ。理由を話すと相手が傷つくと思ったんだよ」
「でも、何も言わずにブロックするって、あまりにも酷いっていうか、薄情だよね。ここまでお互いのこと話してきて、実際に会ったりもして、それで何も言わずにはいおしまいって。性悪、非常識にもほどがあるよな」
自然と声が大きくなっていた。その女は自分の事しか頭にない、ただの自己中野郎だ。自分の恋さえ実れば、振られた相手の気持ちなんてどうでもいいと考えるようなやつなんだ。
僕は酒の酔いもあって勢いよく捲し立てていた。冷たい酎ハイを飲むたびに胃の奥から熱いものが混み上がってくる。視界はグラグラ揺れているのに、頭は変に明晰で口も良く回る。こんなの普通じゃない。言っていることが支離滅裂でおかしくなっていることは、自分でもよくわかっていた。
けど、それでも、上手く飲み込めないものは次々と増していくばかりで、怒りともどかしさでさらに酒をあおっていた。
「そうかもね、でも現実はこうだからさ。理想論ばっかり言ってても、彼女はつくれないよ」
Bはようやく顔を上げて僕を見た。赤い表情に張り付けられた笑みが虚しく彼を映していた。
居酒屋を出るとそのまま帰らずにカラオケに入った。歌う気分じゃない彼に無理やりマイクを持たせ、ふたりで熱唱した。
だいぶ酔いが回っていて、歌詞も音程もまともにわかるはずがなかったが、それでも僕らは学生時代、頻繁に歌ったポップを腹から響かせた。
盛り上がるアニソンを繰り返し入れ、騒がしくタンバリンを叩いてふざけた。そうして酔いと眠気と興奮で、歌詞が追えなくなってくると、僕らはめちゃくちゃな踊りを踊った。
Bは声を上げて笑っていた。腹を抱えてソファにうずくまり、涙を流しながら肩で息をしていた。こんなに笑っている彼を見るのは久しぶりだった。僕も済々とした気分で汗を流していた。
ふたりの後をついた花火大会の真相など、もうどうでもよくなってきていた。Bは、ソファに寝転びながら好きなバンドの曲を入れ、二番の途中で唐突に嗚咽していた。
結局、その日は朝までカラオケにいた。肌寒い、まだ夜明けとは言いがたい帰路をふたりで歩いていると、Bが突然立ち止まる。気分が悪くなったのかと思って振り返ると、夜と朝の境目の、ぼんやりとした空を見上げながら、口を開けてたたずんでいた。そのまましばらく動かなかった。
僕も並んで空を見上げた。光が雲の向こうを照らし出し、深い夜が波のように引く瞬間だった。冷たい風が道を抜け、静まった住宅地に静かに吹き降ろしていた。それは仕事の前に触れる空気と似ているようで少し違っていた。
前にもアイツとこんな景色を見たなと僕は思い出していた。
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その日、僕らは夜の十一時までBの家でswitchをしていた。明日が早いBと別れ、僕とアイツは近所の中華屋でささやかな夜食をとると、いつものように丘の上をダラダラと歩いた。
当時の僕らは、胸を張って言えるようなことは何ひとつしていなかった。毎日毎日何となく心の空白を埋めようとして何もできていなかった。今思い返すとそれは、充実した生活を過ごす同級生を妬んでいただけかもしれない。いや、きっとそうだった。僕らと同じ年に生まれた人間は、その年にはもう大学か専門、或いは就職をして立派に社会に出ていた。当たり前のように与えられた役割をこなしていた。僕らはそれらを嘲った。学生の頃と同じように敷かれたレールの上を走る彼らを資本主義の奴隷だと馬鹿にし、リスクのない人生をつまらないものだと決めつけた。
夜の公園。桜の下のベンチに腰かけて、僕らは夜の空気に全身をさらしていた。アイツは朝の七時から予定があったし、僕も九時には駅前で彼女と合流することになっていたから、僕らは本当は家に帰ってしっかり休んだ方がよかった。アイツはタバコをふかしながら、夜明けまでまだ五時間もあることを含むような笑いで言った。
その頃の僕は、彼女と付き合い始めたばかりで、同年代の恋人達がそうするように、洒落たカフェでいつまでも話しこんだり、季節の植物が楽しめる公園で一緒に写真を撮ったりして過ごしていた。ピンク色の花が好きな彼女は、一眼レフカメラを片手に薔薇や椿と映る僕を写真に収めてくれる。僕の知らない花が現れると、これは何科の何で、こっちはそれと同種のものと、丁寧に教えてくれる。その饒舌で得意になった顔が、何時にもまして可愛く輝いて見えた。
僕は彼女のおかげでだいぶ草花に詳しくなったと思う。
アイツにその時の写真を見せると、ぎこちない顔だなと言って、タバコの息を画面に吹きかけていた。酒を飲んでいないのに、アイツは酔った時よくそうするように、陽気な歌を唄うみたいに僕と話していた。
今思い返すと、僕はあの時はじめて、彼女の存在をアイツに話していた。別に、隠し通すつもりはなかったし、気まずくなるということもなかった。ただ、このタイミングで自分から口を開いたのは、アイツに彼女を自慢したかったからだと言えなくもない。彼女はアイツとも面識があるから、尚更そうだった。
アイツは靴の先でタバコ消すと、唐突に最近観た映画の話をしはじめた。それはテレビのCMでよく見かける、若い男女の出会いから別れを描いた恋愛ドラマだった。
「ラブストリーはあんまり好きじゃないけど、これは予想以上に面白かったよ」
街中で偶然出会ったふたりが、同じ趣味を通して仲良くなり、やがて恋人同士になる。順風満帆な同棲生活がはじまり、周囲が羨むようなほほ笑ましい日常を送っていた。
ふたりの仲に陰が射すのは、恋愛の先に直面する真っ黒な、自分の背よりはるかに高い壁が見えた時だった。互いの人間関係や価値観が変わりはじめるのは、二十代の多感な時期には良くあることだが、その溝を埋めるにはやはり相性が関わってくるものなのだろうか。
「考えてみれば、オレ達はその時の気分によって相手を受け入れたり受け入れなかったり、まあ拒んだりしているんだなって、それを観て思ったんだよ。何か確固とした信念みたいなものを持っているわけじゃなくて、全部メレンゲみたいにフワッとして軽いんだ。恋愛だって、なんかいいなと思ったから好きになって付き合うわけで、そこに明確な理由なんてないんだ。でもそのなんかがさ、オレには大事なものだと思うんだよ。気分でも雰囲気でもなくて、ただ数秒後には変わっちゃうかもしれないなんかがさ」
「ようするに気まぐれだよ。人間誰しもが優柔不断で曖昧なんだ」
「うん、もちろんそうなんだけどさ。でも結局、恋愛ってもんはさ、相手をどうさせたいかじゃなくて、どうしてやりたいかが大事じゃないのか。幸せなのは自分なのか他人なのか。両方取るってことは絶対にできないんだ。さっきも言ったけど、なんかいいで繋がれる時代だし、恋人やそれ以外の関係との境界も曖昧になってきているから。でも最終的に落ち着くことまで考えて動いてる人って、まあ要するに一途な人っていうのはさ、何て言うか、すごく偉いなって思うんだ。当たりなんだけど、それが出来ないやつが、オレ含め世の中にいっぱいいるからさ。そんで、この世界にそういう人たちが少数でもいるってことがさ、オレなんだかとっても嬉しいように思えてくるんだよ」
その夜のアイツはいつになく饒舌だった。息をするように二本目のタバコをのみ、頭の内側でゆっくり煙を循環させているような、遠くを見る目つきで話していた。
なんかいいで繋がっている者同士の、どうしても埋まることのない溝をどう継ぐのかを。
アイツの意見は、それなりの理由があって紡ぎあげられているもののように見えたが、僕にはそれも極端なものだと思った。僕は、そんなに悩むなら、最初から結婚相手を探せばいいんだ、と言った。アイツは苦笑しながら眠そうな目を細めて、いい女がいればね、と言っていた。




