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薄光がマンションの上部からじわじわとせり上がってきていた。夜明けを告げる鳥のさえずりが、輸送トラックの走行音にかき消されていく。午前五時、町はまだ静かだ。辺りは濁りのない夜気に溶け込んでゆったりとした時を刻んでいる。僕はカギを持ってシャッターを上げ、店の明かりをつける。前日の食品油の、胃に重く圧し掛かるような臭気が、壁に染み込んだ古い匂いと混ざって僕に押し寄せる。事務室の扉も開け、キーフックに鍵を引っ掛けると、パソコンを起動して出勤を打った。
今日の交番は三人。ひとりで行う朝の雑務は、店を開けパソコンを起こすだけの簡単なものだが、遅刻できないプレッシャーが半端ではない。控室でエプロンに着替えながら、窓についた結露が一直線に滑り落ちるのをぼんやり眺める。辺りはまだ暗かった。
店の前を掃いていてると、リーダーの福田さんが入ってくる。「おはよ」しっかりと腹から出る発声は、朝でも変わらず良く通る。ふたりの子どもを育てているとは思えない元気さとバイタリティ。福田さんはすぐ着替えを済ませると、キッチンで唐揚げの仕込みに取りかかっていた。
福山さんは僕の入った三年前から変わらない熱意と根性で店を回していた。週五でパートに入る古株で、食品衛生管理者の資格を持っている唯一の人間だ。シフト管理や仕込みの準備、その他の雑用に至るまで全て彼女がしてくれている。その上一度も遅刻や欠勤をしないから、もう鉄人並みの仕事ぶりだ。店長の次に歴が長いのは彼女ではないのだろうか。
生姜焼きに使う玉ねぎを切っていると、隣で福田さんが突然「花火大会、どうだったの?」と尋ねてきた。それ、なんで知ってるんですか?と口にするよりも、週末蔡さんにぽろっと言ってしまったことがよみがえってきて、自然と小さなため息が出る。
「上手く行きましたよ。そのせいで僕はボッチでしたけど」
「でも、花火は見れたんでしょ?どう、良かった?」
「まあまあでしたよ。開港祭の方が僕は好きですね」
土曜日、待ち合わせ場所の駅前広場に到着すると、すでに周りは人でいっぱいだった。―見える範囲にいればいいから と、チャットで指示するBに言われるまま、中央の花壇のところまで進んでキョロキョロと辺りを見回していた。改札にBの姿が見える。集まっている大半が中高生の若者で、浴衣姿の男女やカップルの姿が目立つ。電柱横のスピーカーから祭囃子の太鼓が流れ、ベビーカーに風船を付けた夫婦が目の前を通り過ぎていった。
時間になってもユズキさんは現れなかった。電車内で、やっぱ無理かもしんない、と悲観的になるBを、世の中そんな薄情なヤツばっかじゃないだろうと、自信とも励ましともつかない言葉で返したのが、今になって悔やまれる。待ち合わせ時刻である五時を十分過ぎてもユズキさんが現れる様子はなく、次第に人混みは河川敷の方へ引いていき、Bの姿がはっきり捉えられるまでに駅前は空いてきていた。
Bは表情こそ穏やかだったが、何度もスマホを確認し、辺りに視線を走らせる様子は見るに堪えなかった。時間になっても彼女が来ないことから、その焦りが顔に滲み出て、不安が一層心細さを募らせているようだった。僕は居たたまれなさと同情が湧いて、すぐにでもBのもとへ駆け寄ろうと、足を出しかけた時、駅とは反対側のロータリーから、白とピンクの花柄の浴衣が、静かにBの側に歩み寄っていた。
―合流できた!ありがとう
画面から顔を上げると、ふたりはもう会場の方へ歩き出していた。縞の半袖シャツにジーパンのBと、浴衣のユズキさんが並んで信号を待っている。モンシロチョウが開いたような薄い白地に、鮮やかなピンクの牡丹が花を咲かせている。ゆったりとした上半身からきつく閉められた青の造り帯が歩くたびに揺れていた。
ユズキさんは低い位置に髪を編み込みでまとめ、背中に当たるほど長く垂らしていた。収穫前の麦が夕陽を受けて輝いているような色だった。横を向くと鼻の線が際立ち、フィリピンかどこかのハーフではないのかと思うが、光の角度や表情でまったく別人のようにも見える、不思議な顔立ちだった。
白く細い首の下のなだらかな広がりが、なぜだが僕には見覚えのあるような、懐かしさを感じさせた。それは親近感に似た、不思議な心の動きだった。僕の足は改札に引き返さず、自然とふたりの後を追っていた。あれがBのマッチング相手なのだろうか、彼が得意げに話していた、あのユズキさんなのだろうか。写真で見るよりも印象の違うその相手に、面を食らったような衝撃が、まだ暑さの残る夕暮れ時でも、身体全体をほてらせた。実物のユズキさんは、Bと不釣り合いに思えるほど容姿が整っていた。
ふたりは河川敷を歩きながら、屋台の並ぶ通りで焼きそばとフランクフルトを買うと、会場に近い土手の方へ移動していった。Bは駅前の不安そうな表情とはうって変わり、落ち着いて愛想のよい笑みでユズキさんと接していた。相手の目を見て会話し、何度も相槌を打っている。ひたむきな様子が、きっと相手にも伝わっているはずだ。Bは今日のために、何度も頭の中でシミュレーションを重ねたことだろう。はじめて会う女性に、少しでも不快感を抱かせまいと、必死に自然を装っているのが、遠目からでもわかる。その甲斐もあってか、ユズキさんは終始楽しそうに顔を綻ばせ、口元に手を当てて何度も笑いを耐えていた。時おりBの肩を優しく小突き、楽しげだった。周囲はふたりをお似合いのカップルだと思っているのだろうか。五メートルほど離れた背後から、ふたりの様子を注意深く眺めていると、いったい俺は何をやっているんだと、我に返ったような冷静さで、急に恥ずかしくなった。
会場にアナウンスが流れだすと、一帯はにわかに静まり返る。土手を隔てた、柵の向こうに見えるふたりの姿は、もう薄闇に紛れて影のようにしか見えないが、ふっくらとした造り帯の形いい結び目だけが、ユズキさんを現していた。
花火が打ち上がった。真っ白の、一発目にしては気前のいい大きさだ。方々で喚声が上がる。拍手と指笛がそれに続き、カシャカシャとシャッターを切る音が背後からも聞こえる。小さな玉が何発か続き、間を置いて大玉がスッと打ち上がったかと思うと、爆音を立てて空に火花を流していく。都会より、遥かに伸び伸びと広がる空いっぱいに、火薬の残滓がいつまでも鮮やかだった。
気が付くとふたりの姿は消えていた。花火に見とれて立ち去ったことに気が付かなかったのだ。どこに行っだんだろう。慌てて人混みの多い通りに視線を向けるが、もちろんそれらしい姿は見当たらず、暗闇に溶け込んだ人だかりの先は観客の群れで探すことは不可能だ。仕方なく街灯に照らされた通りを行ったり来たりしていると、リンゴ飴の屋台の陰から、白地にピンクの牡丹が、スッと目の前をかすめていった。
一瞬の出来事だった。僕の前をユズキさんが通った。その手はしっかりとBの手に預けられていた。表情は陰になってわからなかったが、人混みをかき分けて進むBの迫真の表情は容易に想像がついた。彼女を手放してはならない。その必死さは、花火も終盤で混雑し出す道に、ひと際目を惹く光景だった。
翌日のバイトで蔡さんに何気なく話したこの事が、福田さんの耳にも入ったのだろう。福田さんは唐揚げを菜箸でつまみながら油の中へ放り込んでいく。
「花火なんてもう全然行ってないのよ。最後は一昨年だったかな、娘と一緒に山下公園まで見に行ったの」
「近場だといいんですけどね。何しろ初めての場所だったので。道は狭いし駅は混むしで、帰るだけで一苦労でしたよ」
福田さんは八歳の娘と、六歳になる息子がいる。今年小学三年生に上がる娘のほうは、僕が通っていたところと同じ小学校に通っている。
「でも、楽しそうで良かった。最近は花火大会でも屋台のないところが多いじゃない?射的とか、金魚すくいとか、そういう懐かしいのがたくさんあったでしょ」
福田さんは笑ってそう言うが、こっちは屋台どころではなかった。その後、ふたりを見失った僕は人混みに揉まれながら何とか駅前ロータリーへ辿り着き、当然のようにホームは人で溢れているから帰る気も失せて、惰性でファミレスへ入ると親子連れと中学生の集団で騒がしく、早々に店を出てひとつ前の駅まで歩こうと思い立ち、グーグルマップを開いて歩き出すが、最短で三十分と書いてあるにもかかわらず、街灯のない田舎道と上り坂でどこを歩いているのかわからなくなり、二時間経ってようやく駅に辿り着いた頃には、もう花火客は退いて車内も座れるまでに閑散としていた……
空いていた端の席に座り、ぼんやりと車窓を眺めていると、途端に虚しさが身体を襲う。別にBを恨んでいるわけではない。花火大会についていったことが無駄足とも思っていない。ただ、ふたりの後をつけたことは、少なくとも僕の中ではマイナスだった。ユズキさんの柔らかな表情は時間が経っても変わらず脳裏にこびりついていた。その上腕を引かれて通り過ぎるあの一瞬――僕は不穏な胸騒ぎと落ち着きなさに、その場で無意識に足をゆすっていた。泣く寸前の、どうしようもなく心が空っぽになり何も感じなくなる時の、放心に似た心持ちで拳を握りしめていた。僕は幼い頃祖母と行った花火大会を思い出す。観客に揉まれ、ただ空に上がる火花を眺めては、こんなうるさいだけのものにどうしてこんなにも人が集まるのだろうと、不審に思ったことがあったなぁ。
六時半。パックに甘酢漬け詰めていると、エプロンをした蔡さんが急いで入ってくる。「遅れました、すみません」すぐ福田さんのキッチンに移動し、三角巾を被って手を洗う。「そんなに急がなくても、間に合うから大丈夫よ」優しく諭す福田さんは、生姜焼き用の豚肉を手際よく焼いていく。「サケ弁とカツ弁、もう並べちゃって」
僕は蔡さんをチラと見る。背の高い彼は、まだ弾む息を落ち着かせようと、手を洗いながら肩で息をしていた。僕の視線に気がつくと「おはようございます」と丁寧に挨拶してくる。白く揃った歯を剥き出しにして、誠実さいっぱいの笑みで近づいてくる。
蔡さんは三か月前に入ってきたばかりの新人だった。東北地方出身で、日本にはもう十年以上住んでいる。昨年、神戸から横浜に引っ越してきて、日本人の奥さんと二歳になる子どもと、ここから徒歩で五分もしない公団住宅に住んでいた。武蔵小杉にある貿易事業会社に勤めている。どうしてそんな人が弁当屋のパートに応募したのか不思議だが、とにかく蔡さんは木曜と金曜の早朝、そして土日の仕事をきちんとこなしてくれる。当初から朝のシフトで僕や福田さんと重なることが多く、そのこともあってか自然と会話する機会も多かった。
「花火大会のこと、なんで言っちゃうんですか」
仕事が一段落つき、店先に出した弁当の数が減ってくると、隣にいた蔡さんを軽く肘で小突いた。福田さんは付け合わせのレモンが切れたと言って、商店街の八百屋へ行っている。ピークの過ぎて客のいなくなった店には僕と彼しかいない。
「だって、面白いじゃないですか、わざわざついていくなんて、」
「ついていきたかったわけじゃないんですよ」
蔡さんはマスク越しでもわかる柔和な笑みで僕を見る。嘲笑がそう見えないのは、彼が明るい性格だからだろう。
「ボクだったら絶対、そんなヘマはしないです。でも興味はあるので、こっそり後をつけるくらいはするかもしれないです」
「後をつけるなら僕と同じじゃないですか。人のこと言えないですよ」
「ノーノ―」蔡さんは突き出した人差し指を左右に振る。
「ミズキさんは、その友達に頼まれて、ついていったんでしょう? ボクは違う、友達の頼みを断って、それでもこっそりついていくんですよ」
蔡さんの考えは、まず駅まで付いてくるというBの頼みを飲まないところからはじまる。頼みを断られたBはひとりで行くことになるから、体裁にこだわらなくてよくなる。その結果、無防備になって後がつけやすくなるのだ。蔡さんはその方がバレる心配もないのだと言って、可笑しそうに笑っていた。
「Bさんはミズキさんがついてきてること、多分わかってますよ。わかって何も知らない振りしてるんです。ちょっとサドですね」
蔡さんは再び悪意なく笑う。Bは俺がついてきたことを知っていたのか?ついてきているとわかっていながら、それでも無言で見過ごしていたのか?半信半疑ではあったが、蔡さんの言葉には謎の説得力があった。確かに、何度か見つかってもおかしくない時はあった。ふたりを見失わないように必死だったから、予想以上に接近していたかもしれないし、見られていないとも限らない。それが決定的になったのが。屋台通りを横切ったあの時だ。ユズキさんは一瞬だが確かにこちらを見つめていた。それも他人を見るような素っ気ないものなんかではなく、見知った相手を見つけて安心しているような、自然に語りかけてくるような瞳をしてはいなかったか。
もしBが知っていたとするのなら、俺はとんでもなく恥ずかしい人間だ。ふたりの様子をこっそり探ろうとしたのだから、その陰湿さをなじられても仕方がない。けれどなぜ、Bはそのことを今になっても言わないのだろうか……
午後十時、従業員さんがやってきて、調理の引継ぎを行う。蔡さんはエプロンを外すと、商店街に美味い麻辣湯の店ができたので、こんど是非一緒に行きましょうと言って、颯爽と帰っていく。僕も時間なので退勤を打っていると、控室から福田さんが出てくる。
福田さんはシフト時間を過ぎているのにまだ帰る様子がない。マスクとエプロンをつけたままだ。「帰らないんですか?」彼女が水筒を飲み終わるのを待ってから、自然とそう尋ねていた。
「本田さんが急に来れなくなっちゃって。だから五時までやることにしたの。今日は久々の十一時間労働よ」
「いいんですか?」
「良いも悪いも、人がいないんだからしょうがないじゃない」
福田さんは三角巾を被りなおすと、壁に貼ってあった交番表の、〈本田〉の下に×をつけた。本田さんも小学生の子どもが二人いて、まだ少し早いけれど、インフルエンザの予防接種を受けに行ったのだと先週話していた。
「僕が出ましょうか」
「いいの、いいの。わたし夕方まで予定ないし。ミズキくんはいつも一番に来てるんだから無理しないで」
「そんなこと言って、この前もヘルプで出てたじゃないですか。佐伯くんが飛んだ時」
今年の五月に入社した佐伯という高卒の男は、大学に通いながら週四日のシフトを順調にこなしていたが、二週間が過ぎた頃から急に連絡がつかなくなり、後日オーナーに飛んだことを告げられた。その時はショックで言葉がなかったが、次第に胸のもやもやは怒りに変わった。教えたことが全て無駄になった徒労感もあるけれど、ただでさえ人の少ない弁当屋で、その週は病欠と急用でふたりも休んでいたから、休日だった福田さんを急遽ヘルプで呼ばなければならなかった。福田さんは「こういうこともあるから」と笑って手を動かしていたが、昨日から続けてキッチンに出ていたから、その顔には疲れの色が濃く表れていた。
「求人に掲載したり、ポスターを張ったりしてるんだけどねぇ。でも、どこも人手不足だからしょうがないのよ。それにほら、今の子ってキツい仕事したくないでしょ?ウチなんて朝が早いから、若い子には特に人気がないんだよね」
半ば諦めたような口調で答える福田さんは、普段の元気な姿に陰が差していた。当然だ。早朝からシフトに出、夕方には学童の娘と息子を迎えに行き、そこからスーパーで買い物を済ませ夕食をつくるとなると、休む暇なんてほとんどない。僕は福田さんのスマホの待ち受け画面の家族写真を見る度に、彼女はいつまでこのパートを続けるつもりなのだろうかと、変に心配になってしまうことがある。自分より先に、福田さんの事を考えるのはおかしな話だが、それでも福田さんの頑張りは他のパートのそれとは違っている。彼女が辞めてしまえば、この店は回らなくなってしまうのではないか……
店を出るついでに、キッチンに寄って弁当のパックを店頭まで運ぶ。福田さんは「ありがとうね」といつもの溌溂とした声で返してくれる。その時急に、翔が話していた中国人留学生の顔が浮かんでくる。
「留学生の知り合いがいるんですけど、そのこを雇えたりしませんよね」
断られると思って訊いたつもりが、福田さんは意外にも「え、ほんとに?」と驚いた声で食いついてきた。
「いや、でも、日本語喋れないんですよ。中国から来た大学生で、正確には友だちの友だちなんですけど」
「ううん、全然いい、全然いいよ。大歓迎」
店長に言っといてあげるから、すぐに履歴書持ってきて、という福田さんに、ほんとに、いいんですか?と何度も聞き返す。もちろん、だってミズキ君の紹介なんでしょう、だったら平気、きっと大丈夫よ。それに日本語が喋れなくても、うちには蔡さんがいるしね。
僕もまだ会ったこともないんですよ、と言いかけて、のり弁を買いに来た主婦に話を遮られる。福田さんは主婦を相手しながら、「じゃあ、お願ね」と右目でウィンクする。店を出て信号を待ちながら、話がすぐについたことに驚いている。こんなに順調に事が進むとわかっていたら、翔から履歴書の控えを貰っておけばよかったなと、今更思い返す。でも、なんにしろ人手不足は解消しそうだ。赤く灯った信号機を見つめながら、写真でしか見たことのない中国人留学生、童鉾櫌の顔を思い出す。翔の知り合いであるそのこと、近々ここで働いている図は簡単には浮かび上がらないが、それでもさっきまでの不安はなくなっていた。LINEを開くと「童の仕事、決まったよ」と早速打ち込んでいた。




