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 新築の賃貸マンションが続く区画から、丘に通じる坂道の辺りへ行くと、町並みは一気に変わる。戸建の住居がごみごみと群がり、新しく建てられた市営住宅が静かに廊下を照らしていた。駅前からもうかなり離れている。こんな場所に居酒屋があるとは到底思えない。


 今にも倒れそうなトタン張りの平屋の向かいに、自動車整備の店がシャッターを下げて寂しく佇んでいる。そこを右に曲がったところに、小学校のプールくらいの小さな公園が、手入れのされていない低木に囲まれて姿を現す。Bは車止めをすり抜けて中へと進んでいく。二つしかないブランコの左に腰を下ろし、先ほどコンビニで買った缶チューハイを二本取り出した。


「まあ乾杯」

「なんだよ、まあって」


 住宅地に入ったくらいから、なんだか様子がおかしいと思ったが、コンビニで買った酒を公園で飲むとは思っていなかった。まあこんな日があってもいいだろうと、夜風に当たりながら静かに缶チューハイをすする。少し肌寒い。十月の空に浮かぶ半月は、急速に流れる雲に覆われて全様が見えない。ぼんやりと霞んでいる。明かりの消えた周囲の住宅は、冷凍庫のようにひっそりとして、張り詰めた空気の中で時おり、僕らの吐く息を夜風が吸い取っていった。


 Bはなかなか話題を切り出さなかった。なにも考えていないようで、けれど表情にはなにか言いがたい葛藤が現れていた。いったい彼は何を言い出すのだろうか。ひと口しか飲んでいないチューハイを砂利の上に置き、ハイジのように両手でチェーンを握って足をプラプラさせていると、Bはスマホを僕の前に突き出した。女の子の後姿が、画面いっぱいに映っている。


「明後日、会うんだ」

「友だち?」

「ううん。アプリの人」


 ブランコから勢いよく腰を上げた。そのままBを見つめる。彼の目はすぐには動かない。赤くなった顔に、酔いとはまた別の力が太い眉に込められている。「マジかよ」羞恥と期待の入り混じった眼差しが、照れに変わる瞬間に、Bは僕から視線を逸らして小さく笑った。


 八月の終わりに、飲み会で酔った先輩に入れるよう強要された。その時はみんなはしゃいでいてい、気分も高揚していたから、拒むことなく素直にインストールしたが、正直彼女なんて欲しいと思ったことは一度もないし、必要だとも思わない。今まで通り、地元の友だちや、高校の同級生と遊んでいればそれで十分だと、そう思っていたから、数日経ってみると、アプリを入れたことを後悔し始めた。つくる気もないのに入れてしまったことに、少なからず後ろめたさに似たものを感じていたが、先輩がいつそのことを切り出すかわからないので、消さずに残していた。


 アプリを入れてから一週間もすると、Bは初回に課金した四千円が惜しくなってきた。そして普段アプリは開かないようにしていたが、マッチした通知がバナーに溜まると、嫌でも相手の顔が気になってくる。彼は今日だけの気持ちでアプリを開いた。相手の顔を見たらすぐに消そうと心に決めた。そしてその日から、Bは毎日のようにアプリを開き、女性とメッセージを送り合うようになっていった……


「はじめてマッチした相手がこの写真のコなんだけど、もう最初からすごくってさ。会話が止まらないんだよ。そのコ、オレの好きなジャンプ系は全部抑えてて、アニメも見たし、マンガも家に全部揃ってるの。凄くない?それがきっかけで色々会話するようになったんだ」


 Bは「ユズキ」というその女について滔々と語っていた。会話した当初から波長が合うのを感じ、話題は尽きずスルスル流れていった。趣味の話から、仕事や私生活、互いの家族のことまで話すようになったのは、つい三日前くらいからだと、トーク履歴を見せて喋る彼は、どこか得意げで嬉しそうだった。内気で遠慮がちな、工業高校に入ってからも異性の話ひとつしなかった彼が、突然マッチングアプリをはじめて、週末その人と会う。中学時代からは考えられない彼のその変わりように、驚きと動揺が頭を真っ白にさせた。僕はただBの、その酒に酔っているのか、自分に酔っているのかわからない雄弁に、感嘆を漏らしながら頷くことしかできなかった。


 Bは、相手が話を引き出すのが上手いこともあるけど、それでもこの人との会話はいつもと違う。楽しいし、落ち着く。ユズキさんとなら、素の自分を出せるのだと言って、全てを打ち明けた恥ずかしさから、残った缶チューハイを一気に喉に流し込んだ。


「そのコの近所で花火大会があるんだ。今週の土曜なんだけど、結構規模の大きいやつで、道沿いに屋台なんかもたくさん並ぶから、そこで食べ物を買って、川沿いの土手で一緒に花火を見ようってことになったんだ」


 五時に駅前に集合したふたりは、まず屋台を周って食べ物を買い、打ち上げ会場に近い土手に座って花火を見ると言うプランだった。当日の駅前は混雑が予想されるし、出会ってすぐ花火を見るよりは、少しくらい会話する余裕も必要だろうと、思考の末に導き出した集合時間が、午後五時だった。


「いいんじゃない、それで」


 Bの目を見すえながら頷く。来る前はもっと危ないことを打ち明けられると思っていたから、話を聞き終えた今は安堵の方が大きかった。Bがアプリをはじめたことには確かに驚いたが、そのびっくりも次第に収まり出し、今は彼のはじめての恋を応援したいという気持ちが勝っていた。彼はブランコから伸びた陰をしばらく見つめ、やがて決心したように顔を上げた。「それでお願いないんだけど……」


「ミズキにも来て欲しいんだ」


 一瞬、Bが何を言っているのかわからなかった。酒に酔っているだけだと思いたかった。


「俺は行けないよ。行く意味がない」


「そうじゃなくて、駅まで付いてきて欲しいんだ」


 Bは、高校時代の友人がアプリで会う約束をした相手に、当日ドタキャン食らったことを話した。それも、決して冷やかしなんかではなく、想像していた顔と違ったから、声もかけずにそのまま帰ったのだと、後になって弁解のメッセージが届いたという。


「その話を聞いたらさ、オレなんだかすごく怖くなっちゃって。もし、当日誰も来なかったらどうしよう。オレ、マジで全裸で川に飛び込んで、そのまま海まで流れていっちゃうかも」


 打ち上がる花火を見ながらか、と笑って突っ込もうとしたが、真剣なBの顔を見て口をつぐむ。彼の頼みは、最寄り駅まで一緒に来てもらい、集合場所である駅前広場で十分ほど待って、彼女が現れそうになかったら、そのまま一緒に帰ろうと言う簡単なものだった。


「ユズキさんが来たら俺はどうするんだ」

「帰っていいよ。あ、花火見てもいいしね。間違ってもオレに話しかけないでよ」


 Bはそう言うと、ようやく肩の荷が下りて落ち着いたのか、笑顔でブランコを漕ぎだした。そんなことして、俺になんのメリットがあるんだよ。降下する度に留め具がギシギシ音を立て、わずかに生まれる冷ややかな風を肩で感じていた。




 *




 その日の同窓会は昨日のことのように覚えている。目が覚めた時枕元でスマホが鳴っていて、手をとる瞬間に切れた。電源ボダンを押すと、バナーにアイツのメッセージ。


 ―成人式、行かないんか?


 静かに電源を切る。ベッドボードにスマホを置いて天井を見上げる。昼間なのに部屋が薄暗いのは、カーテンを閉め切っているせいでも、分厚い雲が空全体を覆っているせいでもあった。リビングで母親の消し忘れたテレビから、新人女子アナが午後から日没にかけて天気が崩れることを報じる声が聞こえてくる。雨が降るのか、と灰色になった天井に向けられた言葉は、いつものように行き場を失くして黒い部屋の隅に押しやられた。わずかな頭痛と倦怠感が、普段よりも強く身体を刺激しているような気がした。

 再び目を覚ましたのは、部屋の外から聞こえる父の声のせいだった。名前を呼ぶ合間に、げんこつで扉を叩く音が次第に大きくなって壁に伝わっていた。部屋は真っ暗で、リビングから漏れる光が目を痛くした。

「お友達が外で待ってるぞ」


 そのままサンダルを引っ掛けて外へ出ると、門の外にアイツが立っていた。「それじゃあ寒いだろ」ポケットに両手を入れながら笑っている。紺のスーツの上に、ブラウンのロングコートを羽織って、ツンと立った前髪は中央でセットされていた。


「Bが車で待ってるから、速く」

「いいよ、俺は」

「何言ってんだバカ、遅れるぞ」


 外は凍えそうなほど寒かった。天気が崩れるとは雪の事かと、アナウンサーの声が頭の隅を掠める。そのまま身を縮めて中へ戻ろうとすると、アイツは「待て待て」とドアノブを掴み、勝手に家へ上がってくる。「何やってんだよ」「いいじゃねえか。ほら、準備しろよ」クローゼットを開けて、服を物色し出す。兄のデニムや父の仕事着のかかったハンガーをひったくり、「着ろ、着ろ」と言って、次々に投げていく。パンツやシャツが宙を舞う。必死になって拾い集めても、彼は「ホレホレホレ」と衣服を撒き散らしていく。リビングから出てきた父が、何も言わず部屋に引き返していく。「わかったから、行くから、行く。だからそれやめろ」必死にアイツを制止し、衣服を拾い上げる。久しぶりに身体を動かしたから、額には汗がにじんで息がこぼれた。手を止めたアイツは満足そうに笑っていた。


 Bのエブリイで店の前までくると、アイツは袋からワックスと髭剃りを取り出した。


「それで同窓会はさすがにマズイな」


 僕の髪はボサボサで、髭はもう二週間も剃っていなかった。近くのコンビニのトイレを借り、入念に顎に刃を当て、髪を立たせた。ワックスなんて、高校一年生振りだ。風呂にはもう三日入っていなかったから、立ち上がるまで何度もジェルをつけないといけなかった。


 店ではほとんどの同級生が席についてビールを飲んでいた。顔馴染に呼ばれて、アイツは女子の固まる卓ですぐに笑いを起こしていた。僕とBは空いた隅の席に座り、八年振りに会う顔ぶれに月並みな挨拶を交わした。みんなすっかり大人びて、駅前を歩くサラリーマンと遜色ない気風を漂わせているように見えた。


 やがて乾杯の音頭が取られ、店内が一層騒がしくなった。各々が席を立ち、来ていない者の話や、昔の噂話などを、饒舌に語りはじめる。飲みなれないビールに酔って、大声で歌っている者もいる。Bは受験組の何人かと親密そうに写真を取っていたし、アイツは人気者の女子と喫煙所に行っていた。僕は卓にひとり座り、余り物のビールをコップに注いで次々に飲み干していく。頭がクラクラしている。慣れないものなんて飲むんじゃないなと思うが、それでも場に馴染めない惨めさを繕うにはそうするしかなかった。たった一日の再開を、そうして酒で塗りつぶすのもどうかと思うが、僕にはBとアイツ意外にこれといって話せる人間はいなかった。


 トイレへ行って軽く吐く。卓の賑やかな雰囲気が僅かに聞こえてくる。なんだか身震いする。早く家に帰ろうと思った。


 卓に戻るとひとりの女子が向かいの席に座っていた。見知った顔だった。驚いて立ち竦んでいると、顔を上げた彼女は僕に視線を向けた。


「行かないの?」


 奥の卓で出来上がった男女が飲みゲーで盛り上がっていた。アイツの姿も見える。あんなところに俺が行ったって、場がシラけるだけだと、氷だけのジョッキに口をつけながら言った。彼女は声を出さず小さく笑った。「ねえ」


「大学行ってないんでしょ」

 いきなり突かれた鉾が思いの外深く刺さった。アイツが喋ったのだろう。


「うん。そう」 

「今何してるの」


 顔を向けたまま、目線だけ逸らそうとすると、吸いつくように彼女の眉間に寄っていく。薄いがしっかりと主張する長い眉だ。楕円の整った顔は昔から少しも変わっていず、表面に薄くパウダーとラメが施されてキラキラ光って見える。膨らんだ唇はゼリーのように潤み、もうかなりの量を飲んだとわかる、首から顔いっぱいに赤みの差した肌だった。その見慣れない彼女の姿が思わず僕を見とれさせる。


「なにもしてない」

「ほんとに?」

「嘘は言わないよ」

 彼女のジョッキも空だった。何か持ってこようかと手を出そうとして、微動だにしない瞳に再び吸い込まれた。


「私も、そう」



 私も、そう。キミと同じように。



 そんなはずがなかった。テストで常に満点を取り、運動会のリレーの選手に選ばれて、卒業式の答辞を読んだ君が。ウソ告の流行った時、冷やかす男子に一切応じず、冷たく突き放していた品行方正なあの君が。担任のいない放課後、逆上がりのできないクラスメイトに、陽が暮れるギリギリまで付きっ切りで教えていた心優しい君が。そんな君が、なにもない。俺みたいに、何もないなんてそんな。そんなのってあまりにも……


 席から立つと、足は勝手にトイレへ向かっていた。便器に顔をうずめ、胃に残っていた全てをぶちまけるように吐き出すと、スッキリとした意識の内側から、どうしようもない悲しみが込み上げてくる。全身に保冷剤を当てたような悪寒がピリピリと流れ、一気に引いていく。後頭部にじんわりと血の通う温かさが広がっていく。なにもない。なにもしてない。そんなこと、お世辞でも君に言ってほしくなかった。言われたくなかった。


 卓には戻らずそのまま店を出た。夜道を駅前の明るい方へ小走りに進んだ。寒かった。朝方にかけて雪が降ると言うアナウンサーの声が、今は鮮明に思い出せる。ポケットに両手を突っ込み首を縮めながら、小さく歩を進めた。身体の節々がダルく、吐いたばかりの頭だけが冴え切って視界はクリアだ。顔に真冬の風が押し寄せると自然と涙が湧く。惨めとは案外こういう、我に返っている時に襲われるものなのだろうかと、誰もいない横断歩道を渡ろうして思った。


 背後から足音が近づいてきていた。青に変わった歩道を渡ろうとすると、息を切らす音が耳元に響き、思わず振り返った。そこには白のダウンジャケットを羽織った彼女がいた。彼女は身体を折り曲げ、息を切らしながら僕の目の前で立ち止まる。口からこぼれた白い息が、コートの裾のギリギリで消えた。


 僕は彼女の息が落ち着くのを待った。彼女はなかなか顔を上げなかった。長いことハアハアと息を漏らし、その度に白い蒸気が夜に紛れていった。店に僕がいないことがわかって、すぐに駆けてきたのだろう。その時深く、悲しい夜の雪景色が脳裏に映った。向かいの信号機が赤に変わっても、道に車の来る気配はなかった。


 彼女は怒ってはいなかった。ただ真っ直ぐな瞳を僕に向けていた。その時になって僕は、彼女の左目の下にほくろがあったことを思い出した。


「戻らないの?」僕は聞いた。彼女は首を振った。そして、肩から下がるポーチを強く握りしめ意思を示した。もう顔に酔いの気色は見えない。まどろんでいるように感じられた目も、今ではしっかりと見開かれているように思えた。


 僕らは横断歩道を渡って駅を目指した。歩き出すとそれを待っていたように、空から小さな欠片が降りてきた。僕は肩に当たるそれを払った。彼女は立ち止まって「ねえ」とひとこと呟いた。


「コンビニ寄らない」


「雪だ」

「え?」


 彼女は黙って首を上げた。街灯の光を受けた結晶が、空の奥からゆっくりと舞い降りていた。透明な欠片は彼女の長い髪に当たり、きらめきが風に吹かれた後もしばらく辺りに漂った。履き慣れない革靴の感触が重くのしかかってきそうな強く、冷たい雪だった。


 彼女は降りしきる雪を見つめながら僕の袖を握っていた。震える指先の振動がそのまま伝わっていた。このままずっと見上げていたら、僕らは凍えてしまうのではないだろうか。それくらい、いつまでも見ていられる美しい光景だった。


 じっくり雪を堪能したのを見て、僕は彼女の手を握って歩き出した。


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